今年は1914年の第一次世界大戦の開戦から100年にあたる記念すべき年である。第一次世界大戦を扱ったノンフィクションとしては1962年に上梓されたバーバラ・タックマンの『八月の砲声』が著名である。同書ではサラエヴォ事件前後のヨーロッパ各国の政府と軍部の動きが詳細に記述され、それぞれの関係者の「認識の差」(Perception Gap)が第一次世界大戦という悲劇を生み出したとしている。同書は1962年のキューバ危機の際にJ.F.ケネディ大統領が愛読していたということでも知られる。

戦争というものの原因が常に複雑であることを考えると単一の要因で説明することは不可能である。しかしながら、戦争の一つの要因として国家や為政者の「認識」というものに注目した時、第一次世界大戦はヨーロッパ諸国間の「認識の差」が埋まらなかったことにより戦争へと発展した事例であり、キューバ危機は米ソ両国の「対話と圧力」によって「認識の差」が埋められ戦争を回避できた事例であると考えることができる。

戦争という歴史の1ページを飾るような争いのみならず、兄弟喧嘩や夫婦喧嘩のような取るに足らないような争いに至るまで、「認識の差」が争いの直接の原因となることがある。「認識の差」を適切にコントロールできず「コミュニケーション」が低下してしまうと、当事者間の相互不信と緊張が高まり、第一次世界大戦のような悲劇に発展することがある。一方で、「認識の差」を適切にコントロールし、「コミュニケーション」が円滑化すると、当事者間に信頼が醸成され緊張が緩和され、キューバ危機後のような比較的安定した状態を創出することが可能となる。

人間という存在は、それぞれが置かれた環境や積み重ねてきた経験に基づいて「価値観」を形成する。ある事象をどう「認識」するかにあたっては既に形成されている「価値観」に大きく左右される。当事者間においてある「価値観」を共有していれば、ある事象に対する「認識」は同じであるか非常に似たものになる可能性が高い。しかしながら、当事者間においてある「価値観」を共有していなければ、ある事象に対する「認識」は全く異なるものとなる。

「認識の差」が生じた時、その「認識の差」を埋める手段として「コミュニケーション」が存在する。「コミュニケーション」の際、それぞれの当事者において重要なことは、相手方が自分とは異なる「価値観」を持った存在ではあるが相手が「価値観」を持つこと自体を認めるということであろう。同時に、相手側に対して意見表明の「機会」(「場」と言い換えてもよいだろう)を確実に保証することも重要である。当事者それぞれの「価値観」に依拠しつつ、それぞれの「認識」を開陳し、ぶつけ合うことで、少しずつ信頼が醸成され、緊張が緩和できる可能性がある。

「コミュニケーション」の結果、「認識の差」を埋められることが望ましい。しかしながら、人間が不完全な存在である以上、「認識の差」を埋められないということもある。「コミュニケーション」を尽くした結果、「認識の差」を埋めることを「諦める」ことは決して悪いことではないだろう。なぜならば、「認識の差」が存在し続けたとしても「コミュニケーション」を通じて初めて相手の「認識」を理解できることもあるためである。「コミュニケーション」の打ち切りと同じタイミングではないかもしれないが、「コミュニケーション」を通じて得た相手の考え方が、相手を理解するために後々役立つこともある。

「コミュニケーション」の際、相手方が自分とは異なる「価値観」を持つこと自体を認めなかったり(否定)、相手側に対して意見表明の「機会」を保証しなかったり(封殺)、暴力や恫喝に訴えることは「コミュニケーションの破壊」に他ならず、これらは実に許し難い行為である。このような行為が常態化するようであれば、残念ながらその相手との「認識の差」は永遠に埋まることはないだろう。

国家間関係においても人間関係においても、問題が存在しながら「コミュニケーション」が存在しないことは事態を悪化させることはあっても、好転させることはない。ある人間が生きてきた環境やその人間が積み重ねてきた経験が異なることを考えると、それぞれの人間の間で「価値観」が異なり、「認識の差」が生じて衝突することはやむを得ない。衝突が生じた時であってもできる限り冷静に「コミュニケーション」の「機会」を保証し、相手の存在を承認することが不可欠である。