「素人に毛の生えた」という表現が肯定的な響きを持つことはないのだろうけど、最近私はこの言葉が決して悪い意味ではないと思うようになった。

ここ数年間、勉強会以外にも様々な会合に出席した。ワイン会やシェリー会、コーヒー会、和菓子会、羊の肉を齧る会、ダチョウの肉を食べる会、あんこう鍋を食べる会、クラシック音楽を聴く会などである。この中にはベネンシアドールや菓匠のようなその道のスペシャリストが行うものもあったけど、趣味が高じた「素人」(それを職業としていないという意味合いで)が行っているものもあった。

そのような会に数多く出る中で感じたことは、プロであっても素人であっても、自分の扱っているものについて色々な人たちに楽しんでもらいたい、知ってもらいたい、普及させたいという強い意志を持っているということである。

例えば、よくワイン会を開いてくれる夫婦は、旦那さんがコストパフォーマンスの良いワインを用意して、奥さんが試行錯誤を繰り返して美味しい料理を作ってくれ、ワインと料理のマリアージュを楽しむ。ワインも料理も美味しい。でもそれ以上に、ワインや料理の話、仕事の話、本の話、恋愛の話など、色々なことを気がねなく、時間もあまり気にせずにゆっくりと過ごすことができる。

焦げたり、味付けの濃淡があっても気にならないし、私もワイン選びを失敗したなぁと思うことはよくある。それでも、プロではないから失敗は気にならないし、むしろ失敗を笑い飛ばして、それを次同じものを作ったり選んだりする時に生かせばよいから、次に同じものを味わう楽しみができる。

こういうことは勉強会でもみられた。よく私が引用するFinancial Education & Design(金融経済読書会、FED)などは良い例で、プロの経済学研究者ではなけれども、経済学のことをよく知っている人達が集まり、金融や経済に関する議論を交わしていた。これもまた、経済学という学問を職業としていないという意味では立派な「素人」である。

様々な勉強会や会合に出る中で気付いたのは、普段は別の仕事をしながらも休日には全く違うものに時間を使い、単なる「素人」ではなく「素人に毛が生えたレベル」の人間がたくさん存在する。もちろんその「毛」の濃淡に個人差はあるけれども。この「毛の生えた素人」を分野横断的に集めたプラットフォームのようなものを創り上げたら、全く新しいものが生まれるのではないだろうか?

ここ数年間実に色々な「毛」をもった「素人」やプロフェッショナルたちに出会う機会に恵まれた。中東アフリカを放浪していた人、ベネンシアドール、菓匠、何でもさばけちゃう人、ダチョウを売り歩く人、カジュアルワインに詳しい人、指揮者、コーヒーの達人(バリスタ?)、詩と絵とカメラのうまい人、タンパク質の構造解析をやっている人、戦場カメラマン、ベンガル語の達人、記者、国際法に詳しい人、軍事マニア、経済学に詳しい銀行員夫妻、エキプ・ド・シネマばかり観ている人、合唱をする人、聖職者、お坊さんなど…。

これらの人たちの組み合わせ方を考えると、実はこれまでとは全く違う財やサービスが生まれては来ないだろうか?たとえばシェリーを飲みながら近代ヨーロッパ経済史を語る会とか、羊肉を齧りながら日中関係の将来を考える会とか、とにかくそのプラットフォームに来ればこれまでとは違った価値観やライフスタイルを知ることができる、そういうプラットフォームが創れないだろうかと思っている。

この考えにいたるきっかけとなったのは、人間というものは全ての物事を全て知ることができるわけではない、つまり究極的に「人間とは非常に不完全な存在である」という点に気付いたためである。この、おそらく多くの人があたり前のように気付いていることを私もようやく気付いた。しかし、人間というものはその「不完全さ」ゆえに、人によってはより高い次元の物事を目指す努力を行い、現に高い次元の物事を創り上げてきた。

もちろんより高い次元の物事を生み出すためには、より高い次元の人間を集める必要があるだろう。しかしながら、自由に議論することが保証され、世界的に考えても高い水準の教育が提供される日本であれば、比較的高次元の人間を集めることは可能であろう。つまり、今持っている個人個人の知識や嗜好をうまく組み合わせることで日本でも新しいものは次々に生まれるはずである。

「素人に毛が生えた」というのは決して悪いことではない。なぜならばその毛は太くすることも、濃くすることもできるからである。「毛の生えた素人」が集まることは、その組み合わせを適切に行えば非常に面白い社会が生まれる。