サウジアラビアに赴任して3週間ほどになるが、この間にムスリムの事情というものも少しずつ見えてきたので書いておきたい。今回書くのは、この3週間ほどで私が感じたことであって、サウジアラビアの一般的なムスリム事情とは異なる可能性があることをあらかじめご理解いただきたい。

サウジアラビアはメッカとメディナというイスラム教の二大聖地を擁しており、サウジアラビア国王の尊称は"The Custodian of Two Holly Mosques"(二聖地の守護者)であり、当然イスラム教が国境とされている。よく知られている通り、ムスリムは1日5回のお祈り(夜明け、昼、夕方、日没後、夜)が義務付けられており、お祈りの時間の前には「アザーン」と呼ばれるお祈りを促す朗詠がモスクから流れ、商店や飲食店は閉められ、お祈りの場(多くの場合はモスク)に集ってお祈りをする。

私の勤務先は現地企業との合弁であることから、アラブ人をはじめ多くのムスリムを有する。そのため、就業時間7時~15時30分までとお祈りの時間を強く意識したものとなっている。(お祈りの時間はお昼休みと就業後にあたるようになっている)。職場やコミュニティにはモスクが併設され、お祈りの時間には「アザーン」が流れる。

「アザーン」はあらかじめ録音されたものが流れるわけではなく、毎回モスクのマイクのところで朗詠を行うようである。そのため、朗詠を行う人によってテンションが異なったりするので面白い。モスクを擁さない職場の場合、「声の大きい人」や「声の良い人」が地声でこの「アザーン」を朗詠するのだという。イスラム圏に赴任経験のある日本人の多くはこの「アザーン」を「うるさい」と言うのだけど、私自身はモスクのすぐ近くに住んでいるが特に気にならない。

サウジアラビアは「厳格なイスラム教国」と思われがちだけれども、私が見る限りお祈りを欠かさない人というのは少数派のように思う。先日ジェッダのRed Sea Mallに行った際、お祈りの時間に二度遭遇したが、商店や飲食店のシャッターが閉められる一方で、店の中から人が追い出されるということはなかったし、多くのムスリムと思しき人たちはお祈りに行かず店の中にとどまっていた。聞けば、各自の都合によってお祈りをしてもしなくてもよいらしく、事情があってお祈りをしない場合は後でまとめてお祈りをするということでも構わないのだという。

この辺は日本のお寺にある一度回せばお経を読んだことになる「摩尼車」のような発想に似ている。要するに各自の事情によってフレキシブルに対応してよいということなのである。私の住居のすぐ横にはサッカー場とバスケットボールのコートがあるのだが、お祈りの時間になっても子どもたちが"Play"をやめて"Pray"に向かうことはない。二つの聖地を擁するとはいえ、思っているほど厳格ではないという印象を強く受けた。

しかし「あまり厳格でない」と思いつつも、イスラムの教えは生活に深く根付いていると思えるシーンにも遭遇した。6月から住むことになるキャンプのオープニング・セレモニーの際、お祈りを促す「アザーン」が流れ始めた。私はアラブ人の同僚と話をしていたのだが、「アザーン」が流れ始めたのでお祈りに行けるように話をうまく打ち切った。彼は他のムスリムの同僚に対して、"Go to pray ?"と促した。

この"Go to pray ?"と彼が言った時の雰囲気が、「メシ行こか?」的な、非常に気軽な感じであった。元々お笑いのロッチの中岡に似た、非常にひょうきんなアラブ人なのだけど、この一言が彼の生活の一部にごく自然と「お祈り」というものが浸透していると実感させるものだった。

9.11テロ以降、イスラム教をめぐっては比較的ネガティブな印象が強くなってしまった。しかし、ネガティブな印象を強めた原因は「原理主義者」たちによる「暴力」のゆえである。「原理主義者」はイスラム教だけではなく、キリスト教にも、ユダヤ教にも、ヒンズー教にも存在し、それぞれが「暴力」を行使した実績がある。人間の生活を律し、心の平安をもたらすものである限り宗教は価値のあるものであろう。この点でマルクスの「宗教はアヘンだ」という言葉は間違っている。マルクスの言葉が正しさを持つのは、宗教というものが人間の生命や尊厳を脅かす時であろう。

少なくとも私がこの3週間で目にした現状はイスラムの教えが生活の中に浸透しつつも、適度に「いい加減さ」もあるムスリムたちである。それは折にふれて様々な宗教を体験する日本人(クリスマスを祝い、除夜の鐘を聞き、神社に初詣をする日本人)と大して変わらないように思える。聖職者にならない限りは、どの宗教においても個人の信仰心の程度は異なるし、多くの場合それは許容されるのである。