不思議なことに、サウジへの出国に際して送った本の中にはキリスト教関係の本も数冊含まれている。この砂漠地帯で生まれた3つの一神教について考えてみたい、そういう思いから入れたのだと思う。今回読んだのは遠藤周作の『沈黙』である。江戸時代初期のキリシタン弾圧とポルトガル人宣教師の棄教がテーマとなっている作品である。

沈黙 (新潮文庫)/遠藤 周作

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この本を読み始めてから読み終えるまで、私の心の中にあったのはイエスが処刑にされた時に叫んだとされる"Eli, Eli, Lema Sabachthani ?"(神よ、なぜに我を見捨てたもう?)という言葉である。弾圧されるキリシタンたちの「なんのため、こげん責苦ばデウス様は与えられるとか。パードレ、わしらはなんも悪いことばしとらんとに」という問いかけ、ロドリゴの「あなたはなぜ黙っておられるのですか?」という問いかけのいずれもが"Eli, Eli, Lema Sabachthani ?"を彷彿とさせる。

ロドリゴは捕縛後、師であり先に棄教したフェレイラと対峙し、彼との対話を経て棄教する。(本文中では「転ぶ」という表現が用いられている)。フェレイラ同様、ロドリゴが棄教を決意するきっかけとなったのが「穴吊り」と呼ばれる方法で日本人信徒が拷問される音を聞いたことによる。自らが拷問されるのではなく、自らが棄教しないことによって日本人信徒たちが苦しむことに耐えかねて棄教するのであった。

ロドリゴは終始キチジローに嫌悪感を抱き、自らが裏切られて以後はキチジローへの恨みと憎しみを抱くに至る。キチジローの裏切りを「ユダの裏切り」と重ね合わせることで、自らとイエスの類似性を見出そうとする。(イエスを裏切ったユダ同様、キチジローもまた銀貨と引き換えにロドリゴを裏切る)。この過程に私はロドリゴが当初からキチジローに見出していた「狡さ」と同じような「狡さ」を感じた。

ロドリゴを終始支配しているものは彼の「エゴイズム」であると思う。キリスト教とローマ教会の普遍性を疑わず、これがために信徒の命を犠牲にすることは彼自身の「殉教願望」を優先しているようにしか映らないのである。それは信仰と救済のためというよりも、自らの虚栄心の表れのように見える。そして、棄教後なお「最後の司祭」という認識を抱き続けることには自己正当化を見出してしまうのである。結局のところ彼もまた決して強い人間ではなく、キチジロー同様に「弱さ」と「狡さ」を備えた人間であることを自ら証明してしまったと言えよう。

しかし、だからといってロドリゴを責めることができる人間はおそらくいないだろう。イエスが「汝らの中で罪なき者のみ石を打て」と言ったように、ロドリゴを責められる人間などおそらく存在しないのである。なぜならば、キチジローとロドリゴ同様に我々人間のほぼ全てが「弱さ」と「狡さ」を備えた存在であるためである。

本文中でも繰り返し言及されているように、キチジローはユダと重ね合わされていると考えるのが適当であろう。しかし一方で、私はロドリゴにペテロを重ね合わせた。イエスの第一の使徒であり、彼から「天国の鍵」を預けられたとされ、後のローマ教会の礎を築いたペテロであるが、彼もまたイエスの捕縛にあたっては三度裏切っており、イエスはユダの裏切りと同様に彼の裏切りもまた予測していたのである。結局のところ、最も忠実な者であっても裏切る時は裏切るのである。人間とはかくも弱く、狡い存在であり、そのことに常に葛藤を抱くのである。

お笑い芸人のピースの又吉は本書を、「人生に大切なのは悟りなのではなく迷いだと思います」と評している。人間は時に自らが弱く、狡い存在であることを十分に認識して、深く考えることができる。絶対的な「答え」が出ないとしても、この「考える」ことによって人間は「迷い」や「葛藤」といったものを少しでも乗り越えようとするのではないだろうか。