英語を使っての生活と仕事が始まって1か月あまりになるが、まだまだ努力不足で流暢に使いこなすというレベルには至っていない。ただ、この1か月で確実に進歩を遂げたことがひとつだけある。笑っちゃうレベルの話ではあるけど、この1か月ほどで英語を話すことへの「壁」というものが間違いなく低くなった。相変わらず英語がしゃべれないことに変わりはないのだけど、しゃべれないからといって沈黙をきわめたり、曖昧な笑いでごまかすということが確実に減ったと思う。とにかく下手でも何かしゃべってみるという姿勢に明らかに変わった。

そのきっかけとなったのは仕事の環境だろう。話さなければ仕事にならないというのは当たり前なのだけど、それ以上に「完璧な英語をしゃべる人間がいない」という環境が自分にとって大きな力となっている。周りが「完璧な英語をしゃべらない」以上、こちらの英語が完璧ではなくてもバカにされることはまずないのである。つまり、「オレの英語は下手だけど、他の人の英語もそんなにうまくはないよね」という変な安心感が自分の中にあった英語の「壁」を低くしたのである。

今の職場には完璧な発音、完璧な文法を駆使する人はまずいない。ひどい巻き舌、ひどい訛り、片言(自分も含める)、おかしい文法の英語をしゃべる人がたくさんいる。完璧な英語とは程遠いものの、皆何とか自分の意思を伝えようと熱心である。だから、わからない点は何度も聞き返すし、自分が理解しているか否かを何度も確認する。おそらく「ネイティブの英語力」を身に付けることはできないだろうけど、「ビジネスをするための英語力」を身に付けることはできるだろう。

少なくとも私がこれまで受けてきた英語教育は、コミュニケーションを取るためのものというよりは、大学受験に合格するための英語教育であり、英文を読み書きするための英語教育であったと思う。たくさんの英語文献を読むことができる能力(英文解釈力)がつき、それなりに英作文をする能力(英文法力)を養えたことを考えると、これまで自分自身が受けてきた英語教育を完全に否定するつもりはない。しかし、これらの教育を通じて英語を使用するうえで無意識のうちに「完璧主義」を志向するようになってしまったのではないかと思う。そしてこの「完璧主義」への憧れこそが、英語をしゃべるうえでの「壁」を作り出してしまっていたのではないだろうか?

「完璧主義」に陥ってしまうと、とにかく本来の発音や文法に忠実な英語を組み立てようとする。たとえば三単現の”s”を意識したり、可算名詞か不可算名詞かにこだわったり、前置詞を吟味したり、関係代名詞を多用したりといった具合である。言語学者や翻訳家(英語のプロだけあって発音や文法、語法の間違いを非常に気にする人が多い)を相手にするのでもなく通常の生活やビジネスを行う上であれば、発音や文法上の間違いが少々あっても大して問題になることはない。(もちろん契約や仕様書といった専門用語が必要とされる場面では別である)。そこで必要とされることは「精確な英語を運用する能力」ではなく、「相手に伝えたいことを英語でとりあえず伝える能力」である。

もちろん「精確な英語」を運用できるにこしたことはない。「精確な英語を運用する能力」は「英語でとりあえず伝える能力」を包摂する。(それどころか「英語で精確に伝える能力」があると言える)。しかし、英語を運用する順序としては「英語でとりあえず伝える能力」を身に付けて、徐々に「精確な英語を運用する能力」と「英語で精確に伝える能力」を身に付けるということでも十分ではないだろうか?

要するに、「まずは話してみること」が重要なのである。発音や文法がおかしくとも、とにかく「話してみること」で数多くの間違いをする。しかし、人間「間違えたまま」でいつづけることは稀であろう。少なくとも私の場合、「さっきの表現はこの部分がおかしかったな。こういう風に行った方がより伝わったのではないかな?」と思うのである。”Try, Error, Check and Try”とすることで英語に対する「壁」はどんどん低くなってゆくし、少しずつではあるけど英語力は向上して行くのではないだろうか?

「私は40年以上アメリカに住んでいるけれども、今でも毎日英語の勉強を欠かさないんです。なぜかというと、毎日英語の勉強をしないと自分の英語力を維持することができないのです」

今から10年以上前の話になるが、ハーバード大学歴史学部の入江昭教授がこう話されていたのを聞いたことがある。入江先生はシカゴ大学とハーバード大学で教鞭をとられた著名な歴史家である。大学時代からアメリカに留学されていたこともあり、当然流暢な英語を話される。その入江先生もってしても、英語の勉強は欠かさないのだという。

より高いレベルの言語力を維持するためには母国語であっても常に勉強しておく必要があるということではないだろうか?入江先生のようにストイックになることはなかなか難しいだろうが、英語力というものを向上させるためにはやはり日常的に用いる、勉強するということが不可欠なようである。

さて、”Try, Error, Check and Try”という方法で英語に対する「壁」を低くし、日常的に些細なことでも「とにかくしゃべってみる」という姿勢を私は築きつつある。この1か月で明確に励行するようになったのが、「雑談」をこなすことである。もともとサウジ人は「雑談」というものが好きな国民性を持っているように思える。傍から見ると「無駄話しやがって」という印象を抱く日本人もいるかもしれないが、見方を変えると「他人を思いやる」姿勢が非常に強いとも言える。単純に”How are you ?”という会話からでも色々な話に拡散する。

「英語で一番難しいのは「日常会話」」と言ったのは学部時代の指導教授であるが、サウジ人との「雑談」をこなしてゆく中で先生が言わんとしていたことを実感できるようになった。単に「日常会話」と言うとあいさつ程度のものを思い浮かべがちだけど、実際には上述した「雑談」にあたるものが「日常会話」であり、その話題は実に幅広いのである。

たとえば”Did you have a good weekend ?”という問いかけからマディナに住むおばあさんの話になったり、このマディナの話からイスラム教史の話に発展したりといった具合である。(「マディナ」と聞いて私がすぐに”Great Holly Mosque”の話をしたため)。つまり、「日常会話」をこなしてゆくと様々な知識を吸収できると同時に様々な語彙が出てきて、非常に勉強になるのである。もちろん様々な話題を引き出すためにはこちら側が色々な知的好奇心を持つことも不可欠である。

「とにかく話す」という状況さえ作ってしまえば、「英語がしゃべれない」としても「英語をしゃべらざるをえない」状況になる。この能動的に「する」という状況を作ることが重要なのだと思う。「何もできないこと」と「何もしないこと」は本質的に異なる。より厳密に言うと、「挑戦した結果何もできないこと」と「そもそも何も挑戦しないこと」は異なる。両方とも結果が出せなければ同じに見えるが、前者に「その後」があるのに対して、後者にはおそらく「その後」というものがない。今「英語がしゃべれない」としても、今「英語をしゃべる」ことをすれば何かを得ることができる。

たとえ「英語をしゃべること」を試みて失敗したとしても、もう一度挑戦するかしないかの選択肢を与えられ、新たな挑戦の過程で過去の失敗の教訓を生かすことができる。(もちろん同じ失敗を繰り返すということもありうる)。しかし、最初から「英語できないから」として挑戦すら放棄してしまうと、そもそも次に挑戦する機会すら与えられないかもしれない。もし挑戦の機会を得たとしても、過去に失敗をしていないから教訓というものが存在しない。そうなってしまうと英語力の向上は望むべくもないだろう。

精神論ではないけれども、英語力の向上にあたってはとにかくひたすら話すしかないということ。もっと効率的な方法も当然あるのだろうけど、1か月生活してみて今のところこれ以上の答えは見つかってない。これから先別の方法が見つかる可能性は排除しないけど、とりあえず以上のような雑感を抱いた。