日常的にサウジアラビアのスーパーマーケットによく行くようになったのだが、スーパーに陳列されている商品からは実に色々なことを考えることができる。経済学では各国の購買力平価を知るために「ビックマック指数」なる指数があるということを聞いたことがあるが、指数を算出しないまでも日常の消費行動からその国の経済の肌感覚というもの感じることが可能であると思う。

サウジのスーパーに入って驚くのはとにかく欧米系ブランドの商品にあふれていることである。炭酸飲料であれば、コカ・コーラ、ペプシ・コーラ、マウンテンデュー、7UP、ファンタが、ケチャップやマヨネーズの類はハインツが、コーヒーはネスレが、お菓子はスニッカーズやプリングルスが、シャンプーやスキンケアの類はニヴェアやジョンソン&ジョンソンが、洗剤はアリエールが並んでいる。日系のブランドは非常に少なくキッコーマンの醤油(ただしMaid in Singapore)と味の素のうま味調味料くらいである。

何度か足を運ぶうちに気付いたのは、「商品の選択肢が少ない」ということである。それは単純に特定ブランドの商品しか置いていないということのみならず、商品のサイズや機能(「付加価値」と言い換えてもよいだろう)の選択肢も少ないということである。

たとえばコーラの選択肢は、コカかペプシかという選択肢と小型の缶あるいは瓶か大型のペットボトルかという選択肢(要するに個人用サイズか家庭用サイズかという選択肢)、レギュラーかダイエットかという選択肢しかない。一応選択肢は提示されているものの、「二者択一」的なものである。日本の場合、コカかペプシかだけではなく日系ブランドのコーラもあるし、プライベート・ブランドのコーラもある。なお、メジャー・ブランドかプライベート・ブランドかで価格の選択肢も広がる。サイズの場合、250mlの缶・ペットボトル、350mlの缶、500mlの缶・ペットボトル、1Lのペットボトル、1.5Lのペットボトルなど様々なサイズ(要するに個人用でも家庭用でも幅広い選択肢)がある。機能にいたっては、レギュラー・タイプはもちろん、ノンカロリー・タイプ、ノンカフェイン・タイプ、特定保健食品タイプ(脂肪燃焼機能や脂肪を吸収しにくい機能)と様々な選択肢がある。

サウジの選択肢が少なくて、日本の選択肢が多いことは何を意味するのだろうか?消費者の立場に立てば、選択肢が広いことはそれだけ自分の嗜好にあったものを選ぶことができる。日本の消費者の場合、コーラは好きだけどダイエット中の人はノンカロリー・タイプか、少々値が張っても特定保健食品タイプを選ぶだろう。しかしサウジの消費者の場合、提供されているのはダイエット・コーラのみであるから、「コカかペプシか?」という選択肢しか選ぶことはできない。

生産者や販売者の側に立つと、日本の場合、意識をしなければならない要素が多くなる。たとえば、コカ・コーラを好む人がどれだけいるのか、その中でもレギュラー・タイプよりもノンカロリー・タイプを好む人はどれだけいるのか、価格はどれぐらいが適当なのか、売れ筋のサイズはどれなのか、といった具合である。たとえ充填物が同じであっても、製品としては全く異なるのである。つまり、消費者が求める様々な要素を細かくマーケティングしなくてはならない。サウジの場合は実に単純である。レギュラー・タイプとダイエット・タイプを作り、小型の缶か瓶、大型のペットボトルにつめればよいだけである。マーケティング、商品開発、原料調達、包材調達、生産管理、製造、在庫管理、物流、販売管理、広告宣伝においてサウジと日本でどちらがより単純で効率的かといえば、間違いなくサウジの方が日本よりも単純で効率的であろう。

日本においては、非競合性と排他性を特徴とする公共財・サービス以外の分野で多くの選択肢が提供されている。(もっとも近年では電力やガス以外の公共財・サービス、たとえば交通機関、情報通信などにおいては次第にマーケティングの必要性が高まっているというのが現状であろうが)。たとえば、イタリアンを食べたいと考えた時、安価なものを求めてサイゼリアのようなファミレスを選択することもできるし、少し洒落たカジュアルレストランを選択することもできるし、料理のクオリティは高いけど立ち食いの店を選択することもできるし、料理とサービスのクオリティの両方が高い高級店を選択することもできる。または、わざわざレストランに行かなくとも、様々な食材とレシピが容易に手に入ることから、「作る気のある人」さえいれば家で作ることだってできる。

しかしサウジにおいては、そもそもイタリアンそのものを食べること自体が難しいだろう。街を歩いていてイタリアン・レストランを見つけることは難しいし、パスタやピッツァ以外のイタリアンを作ることも難しい。日本とは逆に、競合性と非排他性を特徴とする財・サービスにおいても選択肢は多くないのである。

日本においてはあらゆる財・サービスの選択肢が多いことをもって、「幸せである」、「豊かである」、「成熟している」と肯定的に評価される。しかし、選択肢が多いことは本当によいことなのであろうか?それは「成熟した社会」などではなく、単に「過剰な社会」なのではないだろうか?たしかに選択肢が多いことは選択肢そのものがないことや少ないことと比較するとよいことなのかもしれない。これまでほしかったのにもかかわらず、様々な制約から手に入れることができなかった製品を手に入れたり、受けることができなかったサービスを受けられたりすることはよいことであろう。しかし、元々ほしいとすら思っていなかったものを、自らの意思とは関係なく宣伝や流行の結果として単に「買わされる」だけであるとしたら、選択肢が多いことは決してよいことではないだろう。

日本という国に多様な選択肢が保障されているというのは紛れもない事実であろう。しかし、「意味ある消費」、「自らにとって価値を生み出す消費」を行えている人はどれだけいるのだろうか?そして、生産・販売者は「消費者にとって意味ある財・サービス」、「消費者が価値を生み出す財・サービス」を提供しているのだろうか?消費者であると同時に一人の企業人でもある身として、そんなことを考えるのである。