相変わらずアラビア語はできないのであるが(業務上は英語で事足りるため、まずは英語をしっかりと話せるようにしたい)、あいさつとお礼の言葉くらいはさすがに覚えることができた。アラビア語で「こんにちは」にあたるのは、「アッサラーム・アレイクム」であるが、この言葉の元々の意味は「平安があなたと共にありますように」とのことである。元々はヘブライ語の「シャローム・アレーヘム」というあいさつがアラビア化、イスラム化したとのことである。

ユダヤ教におけるヤハウェとイスラム教のアッラーが同一の存在であり、イスラム教徒がユダヤ人を「啓典の民」と位置付け、マディナへのヒジュラ(聖遷)後にムハンマドがユダヤ教の教義の一部をイスラム教に取り入れたことを考えると、イスラム教がいかにユダヤ人とユダヤ教の影響を強く受けたかがよくわかる。本来的に強く影響を受け、日々「平安があなたと共にありますように」というあいさつを交わしながら、現在ではイスラエル・パレスチナ問題という深刻な問題を抱えていることは実に皮肉なことに思えてならない。

Mr. Childrenの「さよなら2001年」という曲の中で、「ねえ神様、あなたは何人いて一体誰が本物なの?」という詩があるけど、少なくともユダヤ教とキリスト教とイスラム教が規定してい「神」は「彼ら」にとって同じであって、「彼ら」にとっては「本物」なのだ。「神」という存在自体は同じであるけれども、その「教義」が異なるだけである。本来、バラバラである人間をまとめるための「神」の存在をめぐって人間がバラバラになってしまうことは滑稽である。

こんなことを書いてしまってはユダヤ教徒にも、キリスト教徒にも、イスラム教徒にも非難されてしまうかもしれないが、「神」というのはそもそも人間が発明した存在であり、高度な「集合知」なのではないだろうか?古来、人間が生きてゆく中でぶつかる様々な「不安」を解消するために存在するものなのではないだろうか?ところが時代が進み、様々な地域の様々な考えを持つ人間が増えていった結果、「正統」と「異端」のようなものが生まれてしまったのではないだろうか?

元々、「神」はユダヤ人だけが持っていた。いや、正確に言うと「神」を持っていた人たちがユダヤ人とされた。ところが「神」を持たなかった人たちにも形を変えて「神」をもたらしたのがイエスであり、ムハンマドだったのではないだろうか?イエスの教えはキリスト教となり、それはやがてローマ・カトリック教会に、東方正教会に分裂し、ローマ・カトリック教会に反対する人たちが「プロテスタント」と呼ばれるようになった。イスラム教もまた、ムハンマドの死後スンニ派とシーア派に分裂した。

「神」は全知全能の存在であるが、預言者に対して以外は「沈黙」を守る存在でもある。だからどの「教え」が正しいかを決して答えてはくれない。結局のところ、「神」の存在自体を否定しない限りにおいては全てが正しく、全てが間違っている。お互いの「正しさ」を尊重することによって「平安」が訪れる一方、お互いの「間違い」を責めることによって「争い」が生まれるのである。

「神」と宗教の存在意義は人間に「平安」をもたらすことにこそあるはずである。とすれば、「神」とその「教え」をめぐって人間が争い、その生命や財産、自由を犠牲にすることは滑稽でしかない。「神」のために人間が存在するのではなく、人間と人間の「平安」のためにこそ「神」が存在する。人間に争いをもたらし、人間の生命、財産、自由を脅かす「神」など信じるに値しないし、そんなものは「信仰」ではなく「狂信」であろう。

少なくともアラブ人は非ムスリムである私に対しても「アッサラーム・アレイクム」というあいさつをしてくれる。つまり、少なくとも形式的には非ムスリムに対してもその身の上に「平安」が訪れることを祈ってくれているのである。非ムスリムに対しても「平安」を祈ることに彼らの寛容さを見出すことができないだろうか?そして、同じことは「シャローム・アレーヘム」とあいさつをするユダヤ人にも言えることではないだろうか?本質的には、イスラム教徒もユダヤ教徒も相手の「平安」を望む人々であるはずだ。彼らを「争い」に駆り立てるものは、「神」のあり方というよりは、より俗物的な利害に適うものであろう。