Courrier Japonの読書会で知り合った方がセネガルに渡り、その様子をこちらのブログに書き始めた。私もサウジアラビアの話をこのブログに少しずつ書いているけど、「なぜサウジアラビアなのか?」という点についてこれまでブログの方では触れてこなかった。ちょうど1年前にFacebookのノートの方に書いていたので、それをブログ向けに加筆・修正して以下の通り掲載することにした。

人生において成し遂げられる物事というのはきっとそう多くはなく、私にとってはきっとたったの一事なのかもしれない。その一事は自分にとって「宿命」と呼ぶべきものなのかもしれず、この成し遂げたいと思う一事のために費やさなければならない時間は長く、時間以外にも実に多くの物事を犠牲にしなければならないのだと思う。

2013年11月1日付で現在サウジアラビアで従事しているプロジェクト本部への異動が決まった。この日から就労ビザを取得するまでに実に4ヶ月以上を費やし、2014年3月19日にサウジアラビア西部、紅海沿岸のメッカ州に赴任した。

自分が現在の会社に入社した動機は、まさにこのサウジでのプロジェクトに携わりたいという想いからであった。入社8年目にして入社前からの悲願であったこの計画に従事することがようやく決まった。私がなぜかくもこの計画に固執してきたかについて以下簡単にまとめておきたい。

1990年、当時小学校4年生だった私はある一人の先生と出会った。この先生はバーレーンの日本人学校で教鞭をとった経験があり、アラブやイスラムの文化を色々と紹介してくれた。イスラム教という宗教が存在し、私達が通常用いているのとは異なる暦を用い、年に1回断食をしなければならないという事実を初めて知ることとなった。

時同じくして勃発した湾岸戦争に際し、その先生は当時小学校4年生の私達生徒にもわかりやすいように中東情勢を解説してくれた。1989年の天安門事件、ベルリンの壁崩壊、ルーマニア革命をニュースで見聞きし、国際情勢に漠然と関心を持ち始めていた私にとって先生の社会科の授業はとても楽しみなものとなった。この先生の授業を機に、「なぜ戦争や革命というものが起こるのか?」という漠然とした疑問を抱くようになった。

湾岸戦争後、ソ連は崩壊し、ユーゴスラビアでは内戦が激化し、日本には北朝鮮からテポドンが飛んできた。こうした激動の国際情勢によって、小学校4年生の時に抱いた「なぜ戦争が起きるのか?」という疑問はますます深くなっていった。結果的にこの問題意識が大学と大学院で6年間国際政治を学ぶ決定的なきっかけとなった。

大学と大学院では当時現在進行中であったアフガニスタン戦争とイラク戦争を題材にアメリカの国家安全保障政策を研究テーマとした。勉強と研究を続けるうちに、国際政治というものが端的に表現するのであれば「国家間の希少資源の配分をめぐる事象」であり、より戦争を少ない状況を創出するためには、「希少資源の安定的配分」が不可欠であるという自分なりの結論に至った。

自分なりにこの結論を導き出したことで、就職先は資源・エネルギーに関連した業界に携わろうと考えた。資源・エネルギーが掘り出されてから使用されるまでに携わる業界(総合商社、資源開発、プラントエンジニアリング、造船重機、海運、石油元売、鉄鋼、非鉄金属、化学など)を志望することにした。

たまたま、大学院の1期上に現在の会社を定年退職をされた方がおられたことから、就職活動を行っていた時期にサウジアラビアでの石油精製・石油化学コンプレックス・プロジェクトの存在を知ることとなった。このプロジェクトの概要を知った時、「これだ!」というのが率直な感想であった。今後の日本の資源ビジネスは従来の原料調達後に日本で生産を行うというスタイルのではなく、原料調達地での一貫生産こそが主流になるとの見通しが私にはあった。公開情報を徹底的に調べ、面接ではとにかくこのプロジェクトに携わりたいという熱意ばかりを伝えた。

結果的に現在の会社から内定をいただき、母に報告をした時、「◯◯先生だね」とただ一言だけ言われた。正しくそうだった。何かに導かれるかのように自分は自分の仕事を選んだ、そう思った。この会社に入ること、そこでサウジでのプロジェクトに携わること、それは自分に課せられた「宿命」なのだと思った。

とはいえ、入社後すぐにこのプロジェクトに従事できたというわけではなかった。最初に配属された本社経理ではエレクトロニクス関係の部門を担当し、その後研究所や工場の経理担当としてエレクトロニクスや医薬品といったファインケミカルの分野を担当した。医薬品を扱う工場での経験は何物にも代えがたいものであったが、ファインケミカルの担当が長く続いたことで、サウジでのプロジェクトへの希望は完全に絶たれたと思った。

2010年に石油化学部門の国内工場の購買部門に異動することとなったものの、国内事業所での購買の仕事はあまり刺激のある仕事とは言えなかった。国内の石油化学工場では新規の投資案件はほとんどなく、老朽化した設備をいかに長寿命化するか、あるいはどう設備再編を行うかばかりであった。異動間際に携わっていた案件は基幹プラントの撤去に関係するものであり、「クリエイティブさ」のある仕事とは到底思えなかった。取引先に対する「空雑巾を絞る」かのような大幅なコスト削減依頼を行う中で、次第に仕事への情熱は失われ、同時期に睡眠障害にも悩まされた。

それでも毎年の希望業務の欄には頑なに「サウジでのプロジェクトへの従事を希望」の文言を書き続けた。このプロジェクトへの従事こそが自分が会社に入社した理由である以上、このプロジェクトに携わることなく会社を去るという選択肢は自分の中にはなかった。とはいえ、それを実現できるのは随分先の話のように思い始めていた。

昨年の8月上旬に上司に呼び出され、「前々からサウジに行きたいと言っていたけど、あれまだ本気?」と聞かれた。「もちろんです」と答えるなり上司から返ってきた言葉は、「ついにそのチャンスがやって来ました」とのことだった。長く希望していたとはいえ、もう実現不可能なのではないかと思い始めていたものだから、ある意味で「青天の霹靂」だった。入社から実に7年半、件の先生と出会ってから実に23年の時が流れていた。

入社以来、様々な先輩にお世話になってきたが、最もお世話になったと思っている先輩(残念ながら昨年の3月に退職された)に異動のことを報告した時、「結婚と同じでゴールではなくスタートだから」と言われた。そう、ようやくスタートラインにつけたのだと思った。スタートラインにつくまでに随分と時間をかけてしまったけど、これからは自分の「宿命」とも思える道を走ってゆかなければならないと思った。

上述の通り、昨年の11月1日付でプロジェクト本部に配属されたものの、11月中ないし年内と言われていたサウジアラビアへの赴任は就労ビザ取得が大幅に遅れたこと(その理由はサウジ就労ビザ取得の仕組およびプロジェクト自体の「特殊事情」による)により3月の下旬まで国内で足止めを食らうこととなった。この間、大した業務をするでもなく、サウジでの新しい業務に関する勉強やサウジの関連書籍や英字紙を読みまくることでサウジという国の基礎知識を蓄積していった。ちなみに、待機期間があまりにも長引いたため父からは「追い出し部屋に入れられているのではないか?」との疑惑を抱かれていた。

3月の中旬になってようやく就労ビザを取得することができ、3月19日に日本を発ち、翌20日にカタールはドーハ経由でサウジアラビアに入国した。奇しくも3月20日とはイラク戦争開戦から11周年の日であった。イラクのクウェート侵攻を機に国際政治に関心を抱いた自分が、この記念すべき日に中東の地に降り立った。

赴任後、当初の予想通り様々な面でプロジェクトの「特殊事情」に振り回されることとなった。「特殊事情」についてはここに書くことはできないが、その度に現地のアラブ人を含む様々な人々に助けられている。

仕事をしていても、日常生活を送っていてもサウジアラビアという国は日本で伝えられているほど変わった国ではないというのが半年以上暮らしていて思うことだ。たしかに日本では考えられないようなことが起こらないわけでもないが、日本でも他の国では考えられないことが起こるわけであるから、一度「ここはそういう国なのだ」と納得してしまえばさほどストレスを感じることはない。(もちろん全くストレスを感じないわけではない)。日本の基準(それは決してグローバル・スタンダードとは言えない)で日本とは異なる「特殊性」に着目し出したらきりがないだろう。

さて、この半年間は比較的平穏な日常が過ごせてきたものの、近隣国のイラクおよびシリアでは「イスラム国」(Islamic State, IS)の活動が活発化している。去る9月22日にはサウジアラビア空軍もシリアへの空爆を開始した。自分が住んでいる国が戦争をしている、そういう現実に直面することとなった。ISについては現在までのところサウジアラビアに直接的に害をなしているわけではない。しかしながら、ISと関連しているとされた集団が私の住むメッカ州内で検挙されたという事例もあることから楽観視することができないのが現実である。

これからサウジアラビアという国が、また中東という地域がどうなってゆくかはわからない。もしかしたら混迷を極めてゆくということもありえるかもしれない。ただ、それでもサウジアラビアという国にいる限りは、自分の知識と経験を総動員して私なりにこの国の現状を伝えて行ければと思うし、それこそが私の「宿命」であり課せられた「役割」のように思う。