10/23~11/6の予定で日本に一時帰国中である。帰国翌日から友人たちと会っていたのだが、日曜日から体調が悪化し、月曜日の夜の会食後から丸一日寝込んでしまった。今日は朝からとある勉強会でサウジの話をさせていただいた。この席上でもある学生から、「初めて聞くような話が本当に多かった」と言われた。この学生の言葉が証明していると思うが、日本で語られるサウジアラビアや中東の話はやはりステレオタイプになりがちなのだ。

さて、News Picksで連載中の「駐在員妻は見た!」のサウジアラビア編は今回第2回目となった。第1回目と比較すると、女性目線でしか決して書くことのできないサウジアラビアの事情が書かれており非常に面白かった。コラムの方では女性にしか見ることができないサウジアラビアの女性の扱いについて丁寧に書かれていると思う。今回私は男性目線からのサウジアラビアの女性事情について書いてみたいと思う。

サウジアラビアにおける女性の扱いがどのようなものであるかを知るためには、サウジ映画『少女は自転車にのって』を観ることをお薦めする。この映画については私もかつて感想を書いているのでそちらもあわせて読まれたい。この映画ではサウジにおいて女性が様々な制約を受けていることが強調されている一方、それでも彼女たちがたくましく「生きている」ことを印象付ける作品である。

少女は自転車にのって [DVD]/アルバトロス

¥4,104
Amazon.co.jp

以前も紹介したが、『コーラン』の「光の章」において、「目を伏せて隠し所を守り、露出している部分のほかは、我が身の飾りとなるところをあらわしてはならない。顔おおいを胸もとまでたらせ。自分の夫、親、夫の親、自分の子、夫の子、自分のきょうだい、兄弟の子、姉妹の子、身内の女、あるいは自分の右手が所有するもの、あるいは欲望をもたない男の従者、あるいは女の隠し所について知識のない幼児、以上の者を除いて、わが身の飾りとなるところをあらわしてはならない」という一節がある。この一節が根拠となって、サウジアラビアでは女性が親族の男性以外と行動を共にすることが基本的に禁止されている。

サウジアラビアでは女性が車を運転することができない。このため、女性が出かける際には必ず親族の男性か「欲望をもたない男の従者」による運転が必須となる。以前、私の運転手を務めていた青年は毎朝教師をしている妹たちを学校に送り届けてから我々の送迎を行っていたが、これはおそらくサウジアラビアでは当たり前の光景であると思う。映画『少女は自転車にのって』の中でも主人公ワジドの母親が通勤車に乗るシーンが見られるが、この運転手はおそらく勤務先の運転手であり、コーラン上は「欲望をもたない男の従者」ということになるだろう。(他のシーンからこの運転手が外国人労働者であることが類推できる。そしてそれはサウジの外国人労働者問題を彷彿とさせるシーンでもある)。

「女性の社会進出が進んでいない」とされるサウジアラビアにおいて、比較的「働く女性」を数多く見ることができるのが病院であると思う。私は居住許可証(イカマ)取得のための業務に従事していることから、新規取得者の健康診断のために病院に訪れる機会が多いのだが、医師、看護師、医療事務には女性が多い。先日は、女性の受付で手続をして、女性の放射線技師にレントゲンを撮ってもらい、女性の医師の問診を受けるといったこともあった。彼女たちは当然、全身をアバヤで覆い、女医以外は露出しているのは目の部分だけである。(女医は顔がわかるヒジャブであることが多い)。

医療分野において女性の雇用が認められている理由は非常に単純明快なものである。それは、「患者に女性がいる」からである。前述の通り、コーランにおいては女性が親族以外の男性に肌を見せることが許されない。この教えを厳格に適用すると、女性が男性医師の診察を受けることは許されないということになる。このため、サウジアラビア国内でも地方によっては男性医師が女性患者を診察することを禁じているところもあるのだという。女性医師が不在であったため、女性患者が診察を受けることができないということも当然起こりうるのだ。

一方で、女性医師、女性看護師、女性医療事務という仕事は、数か月前のアラブニュースの記事によれば「親が娘に就かせたくない仕事」に入ってしまうという事実もある。その理由として、勤務時間が不規則、日常的な異性との接触があげられる。既婚、未婚を問わず、男性と接しなければならないという仕事は、できるだけ自分の娘に就いてほしくないというのが本音のようである。(ちなみに、「親が娘に就いてほしい職業」は教師なのだという。その理由としては、勤務時間が規則的で、女性のみの職場(サウジは男女別学)であることによる)。

実は映画『少女は自転車にのって』においても同様のシーンがある。現在の仕事に不満を持つ主人公の母親が友人の伝手で病院の医療事務として働こうと考え、友人の働く病院を訪れる。ところが、その病院で友人と男性医師が笑顔で話しているのを見て衝撃を受け、結局医療事務として働くことを諦める。友人と男性医師はただ話しているだけで、何もきわどい関係にあるということではない。しかしながら、主人公の母親にとっては夫以外の男性と話をするということに大きな抵抗感があるようであった。

コラムでもふれられている通り、サウジアラビアでは女性は一生「女性専用車両」に乗っているようなものである。そのことを「快適」と考える女性がいるのも事実であろう。しかしながら、『少女は自転車にのって』の主人公ワジドのように、そのことを「窮屈」と考える女性がいることもまた事実であろう。結局のところ、サウジにおける男女の別を「区別」と感じるか、「差別」と感じるかは個人個人の認識の問題に過ぎないと思う。

ただし、男女の別を重視する戒律を厳格に守ることで女性の生命、財産、自由が奪われてしまうのであれば、その戒律は意味をなさないだろう。宗教というものは人間が「よく生きること」、そして「よく死ぬこと」のためにあるはずである。人間を死に追いやってしまうのであれば、その宗教は宗教としての体をなしていないし、そのような宗教を信じることは、信仰というよりも狂信である。

サウジアラビアにおいて欧米流の男女平等の価値観をそのまま受け入れることは難しいだろう。しかしながら、多くの女性がイスラム教への進行を維持しつつも、戒律によって自らの生命、財産、自由の一部分が著しく制約されているという声を少しずつ上げることによって、より進化したイスラム社会というものが創られるのではないだろうか。