2月13日にNHKがこれまで「イスラム国」と呼んできた組織について、今後は「過激派組織IS=イスラミックステート」と呼ぶことにするという発表を行った。(過激派組織ISについて)今回の呼称変更の背景には「イスラム国」という呼称を用いることによって、既存のイスラム教徒への誤解を生むというものがあるようだ。(「イスラム国って言うな」賛同者2万人。NHK方針転換!

「イスラム国」という呼称をめぐってはかねてより次の2つの点に関して、その呼称に疑問を呈されていた。ひとつは上述の通り、「イスラム」という呼称を用いることによって、既存のイスラム教徒への誤解を生むというものである。もうひとつは「国」という呼称を用いることによって、あたかも「国家」であるかのような誤解を生むというものである。

この2点ゆえに呼称を変更するということに対する私の考えを超単純化してしまうと、「リテラシーが低いな」というものになる。

「イスラム国」をめぐっては主に次の呼称が存在する。

①IS(Islamic Stateの略称、日本語訳では「イスラム国」)
②ISIL(Islamic State of Iraq and Levantの略称、日本語では「イラクとレヴァントのイスラム国」)
③ISIS(Islamic State of Iraq and Shamの略称、日本語では「イラクとシャームのイスラム国」)
④DAISH(アラビア語読みの"Dulat al-Islam fi al-Iraq wal-Sham"の英語略称、日本語では「ダーイッシュ」)


略称の原義を紐解けば一目瞭然であるが、いずれの呼称も"Islam"という言葉を含むのである。原義までたどった場合、それぞれの呼称に必ず"Islam"という言葉を含んでいるのであり、略称によって"Islam"という言葉を隠してしまうことを「イスラム教徒に対する配慮」としている点に私は強い違和感を覚える。つまり、ISであろうが、ISILであろうが、ISISであろうが、DAISHであろうが、原義までたどるのであれば、「イスラム教徒に対する配慮」をしていることにはならないと考える。

「起きている現象を正確に伝えること」がジャーナリズムの根本的な使命であるとすれば、彼らが英語名称において"Islamic State"を名乗っている以上は、それを日本語訳した「イスラム国」という呼称で報道することに何ら問題はないと考える。なお、「イスラム国」は2014年6月に英語名称を"Islamic State"と正式に改称しており、ISILとISISはそれぞれ旧称である。私が「イスラム国」あるいは"Islamic State" (IS) という呼称にこだわっているのは、彼らが「イラクとレヴァント」、「イラクとシャーム」という地理的概念を放棄した点にある。

今回のNHKの呼称変更は単純に日本語から英語名称の読み方に変更したに過ぎない。NHKのこの変更について批判をする人が少なくないが、おそらくNHK編集局の内部で激しい議論(そして取材や編集に携わる人間の多くから激しい反対があったことがうかがえる)がなされた上での妥協の産物であるというのが私の見立てである。

「イスラム教徒に対する配慮」というのは非常に悩ましい問題であると思う。「イスラム国」の台頭、そして時同じくして欧米で頻発しているイスラム教徒による事件報道によって、欧米でイスラム教徒に対する迫害という事態が起きているのも厳然たる事実である。それゆえ、過度に「イスラム」という言葉を強調することがさらなる迫害を招く可能性があると考えることも確かにできる。

「イスラム国」の台頭、そして時同じくして欧米で頻発しているイスラム教徒による事件が起きるたびに既存のイスラム諸国の政府関係者やイスラム教指導者たちは、彼らの行いがイスラム教の本来の教えとは異なることを時にはコーランの一節を引用して批判してきた。

メッカとメディナという2つの聖地を擁するサウジアラビアでは世俗権力の長(二聖モスクの守護者、英語では"Custodian of the Two Holy Mosuques")として、アブドゥラ前国王とサルマン新国王が、ワッハーブ派の最高権威であるシェイク・アブドゥル・アズィズ・アル・シェイク大ムフティがそれぞれ繰り返し繰り返し過激思想への批判を行ってきている。サウジアラビア国内やイスラム諸国ではこれらの世俗権力および宗教的権威の声明が繰り返し伝えられることで、イスラム過激主義が本来のイスラム教の教義と異なることが十分に理解されていると思う。このため、サウジアラビアの英語メディア(Arab News, Saudi Gazette, Al-Arabia)では"Islamic State"の呼称が採用されており、その呼称をめぐって大きな問題とはなっていない。

もちろんイスラム諸国における理解度と日本や欧米のような非イスラム諸国における理解度は異なるという批判はあるだろう。だが、現に「イスラム国」という呼称が普及することによって大いなる誤解が生じてしまっている以上は、イスラム諸国の政府関係者とイスラム教指導者たちが連帯して積極的な広報、啓発活動を行う必要が生じているようにも思う。

私がサウジアラビアに赴任して非常に驚いたのは、多くのイスラム教徒たち(運転手や警備員からホワイトカラーまで)が外国人や異教徒たちに対して彼らの宗教を尊重した上でイスラム教の教えや歴史について語ることであった。聞けば、イスラム教の教えの中には、非イスラム教徒に対してその教義や歴史を語ることが一つの善行とされるのだという。日本や欧米に住むイスラム教徒たちもまたイスラム教の教えや歴史を丹念に語ることで、彼らに対する理解度は向上するのではないだろうか?もちろん、そのためには非イスラム教徒が彼らの言葉に耳を傾けるという「リテラシー」を持つことも重要だろう。

さて、「イスラム国」の呼称に関して呈されているもうひとつの疑問である「国」(State) という呼称についても考えてみよう。

「「イスラム国」は「国家」ではない」と考える人にまず問いたいのは、「「国家」(State) とは何か?」という点である。この「国家」 (State) という概念について明確な前提がなければ、「「イスラム国」は「国家」ではない」と断言することはできない。

「イスラム国」(Islamic State) が台頭し、私が彼らを「擬似国家」と認識したのは、イスラム国の構成員(彼らの言うところの「イスラム国国民」)が出身国のパスポートを焼くというパフォーマンスを見た時であった。このパフォーマンスから私は、「イスラム国」の中に"Sovereign State"(主権国家)としての概念と"Nation State"(国民国家)としての概念が確立しつつあることを見て取った。

彼らはパスポートを焼き捨て、「イスラム国」の法秩序に従うと考えた時点で「イスラム国」の「主権」(Sovereignity) を認めた。少なくとも「イスラム国」の領域内においては、「イスラム国」が定める秩序に従うことを認め、そこで暮らす人々に対しても「イスラム国」の法秩序を適用し、これを乱すものについては「イスラム国」の法をもって処罰することが定められ、現実にそのようになっている。「イスラム国」は独自の通貨鋳造も目指しており、その「主権」的要素を徐々に確立しつつある。

また、彼らはパスポートを焼き捨てることで出身国の「国民」であることを否定し、「イスラム国」独自の「国民意識」を形成しつつある。自らの出身国や出身民族への帰属意識を放棄し、イスラム教サラフィー主義の価値観に基づく「イスラム国」という新たな「想像の共同体」への帰属意識を強めている。言うなれば"Islamic Nation"と表現すべき意識を形成しつつある。

「イスラム国」は少なくとも対内的には、領土、主権、国民という国際政治および国際法上の「国家」の3要件を既に有していると考えることができる。したがって、対内的には既に「国家」であると断言することができるだろう。しかしながら、「イスラム国」を「国家」として承認している既存の「国家」が皆無であることから、対外的には(近代主権国家・国民国家体系における国際政治および国際法上)「イスラム国」は未だ「国家」たりえない。

私は現在の「イスラム国」の現状が1917年のロシア革命後のソ連に似ていると考えている。1917年のロシア革命後、ソヴィエト政権はロシアの領土、主権、国民を有していたものの、1922年のラッパロ条約によってドイツが同政権を承認するまで国際政治および国際法上の「国家」ではなかった。この状況は現在の「イスラム国」の状況に類似していないだろうか?かつてのソヴィエト政権がそうであったように、現在の「イスラム国」もまた実態としては"Sovereign State"(主権国家)でのようなものであり、"Nation State"(国民国家)のようなものなのである。

前述のとおり、ソ連は1922年のラッパロ条約によってドイツによって「国家」と承認され、その後1924年にはイギリスとフランスもソ連を承認した。イギリスとフランスがソ連を承認した背景にはレーニンの死後を襲ったスターリンが、「一国社会主義」を標榜したことが大きな理由であろう。既存国家との間に相互不干渉の原則を確立することで、国際社会によって「国家」として承認されたのである。近い将来、もしも「イスラム国」が領土的野心を捨て、他国の主権を尊重するというきわめて現実的な外交を展開した場合、「イスラム国」を「国家」として承認する既存の「国家」が現れることは否定できない。

今後の「イスラム国」を考える時、全く正反対の2つの姿が予想される。ひとつは既存の国際政治および国際法の体系の一部を受け入れることで、主権国家・国民国家として統合を果たすことである。もうひとつは、「イスラム国」内部での教義解釈の対立(イデオロギー対立と言い換えてもよいだろう)や権力闘争の激化による分裂である。現在通貨制度の確立という主権確立が停滞している一方で、「イスラム国兵士」の脱走や、国際的な反「イスラム国」連合の形成が強まっていることを考えると、後者の分裂の可能性が高まっているように思う。

国際社会として現在の国際秩序(「イスラム国」のいうところのサイクス・ピコ体制)を維持したいのであれば、イスラム諸国を中心とした反「イスラム国」連合の形成と行動が重要となるはずだ。