’学校は行くもの’という前提があるんじゃないか | しるくらし。

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学校へ行かない選択。
子どもとの関わりなど。

発達や生きづらさの話しなど。

名古屋市内にて不登校の親の会を開いています。

対話、安心できる温かい場にしていきたいです。

8月の終わり、

新学期が近づくころになると

あちこちでいろんな声が聞こえてくる。

 

「学校行かなくていいよ」的な。

 

 

大切なことだと思う、

子どもも大人も安心して生きられる国がいい。

 

学校は行かなくてもいい、も

命を絶つくらいなら休んで、とか

どれも本当にその通りだと思う。

 

 

けど、ふと思うんですよね、

そもそもなんでこんなことを

声高にして言わないといけない社会って何?




何で命を断つくらい

苦しむ人がいるのか。

 

 

休日の過ごし方として、

近所のモールに行くもよし、

家でのんびりするもよし、

ちょっと遠出してお出かけもよし、

たまった仕事をするもよし、

なんでもよくてみんな自分が過ごしたいように過ごす。

 

そこに声高に、

モールに買い物に無理していかなくていいですよ、とか

言わないわけで。

 

それって、

前提として、

休日は皆それぞれ好きに過すもんだよね、

ってのがあるからですよね。

 

 

 

 

そもそもの前提として、

学校(ここでいう学校ってのは、在籍校のこと)は

’行きたければ行く’ 場所であれば、

 

わざわざ赤の他人に

 

行かなくていいよ、とか

無理しないで、とか言わないでしょう。

 

 

9月1日(というか二学期が始まると)

学校へ行くことがあたりまえというような

社会的な前提があるから

 

 

それ以外の選択肢が、

 

普通じゃない、というような

概念になっているように感じる。

 

 

行くのが辛かったらお休みしましょう、とか

無理していかないでいいよ、とか。

 

 

 

すべては、まずもっての前提が

学校は行くべき場所

ってのが社会の中で変わってないからじゃないですか。

 

 

学校へ来たい人は来たら良いし、

 

うちで過ごしたい人はうちで過ごしたらいいし

 

自分の安心できる場所で過ごそう。

 

 

それが当たり前になったら、

 

わざわざ

「学校はムリしていかなくていい」とか

「辛かったら休みましょう」とか

言われる筋合いもないんじゃないかな、

子どもたちは。

 

 

洋服を選ぶように、

食べるものを選ぶように、

何のゲームをするか選ぶように、

 

どこで過ごすのか

選べるんですよ。

 

選択肢の一つでいいじゃないですか、学校は。

 

 

9月1日以降も、

そもそものその前提が変われば、

不登校なんて概念も、

そんな言葉だってなくなる。

 

 

 

ある程度決められて、

集団の中で過ごす学校という場が合う人もいるし

みんなと同じがいい、安心する人ももちろんいるし。

 

家庭より学校が安心する人だっているし、

家庭環境もいろいろある。

 

少人数での学びの場が合う人、

 

家庭での学習、

 

アクティブに外での活動が合う人、

 

のんびりゆったり過ごすのが合う人、

 

異年齢が合う人、

同年齢が合う人

 

クリエイティブにすべて自分で決めて行きたい人、

いろいろ。

 

これがいい!なんて積極的選択なんてしなくても、

これはムリだから、まだこっちの方がいいなぁ、なんて

やってみて使ってみて、試してみて

やれそうなとこで。

 

 

学校という枠自体は便利でもあるので、

その中身を選択制にしていくとか。

 

このままじゃ、いくら声高に叫んでも

子どもの苦しさは何も変わらない気がします。

 

希望のないこと言いますが、

子どもたちの今の姿は

大人が作ってきたものでしょう。

 

この時期に叫ばれるいろんな声を聴いて

違和感はそんなとこからくるんだと思うのです。

 

子どもに責任なんてありません。

 

少しでも生きやすい社会になるように

やれることを探していきます。