未だ解明されない事故の真相、
もし 「ミス・ジコチョー」 が、一切の忖度なく 日航123便墜落事故の真相に挑めば・・
実際の事故調が出した圧力隔壁説とは異なる、本当の墜落原因を導き出すでしょうが・・ 

※ ミス・ジコチョー とは、 松雪泰子 演じる工学者・天ノ真奈子が、“一切の忖度なく” 事故の真相に迫った、 2019年放送の 痛快テレビドラマ

ちなみに、事故現場の名称は御巣鷹山ではなく、正しくは「高天原山(たかあまはらやま)」
いったい誰が?何に為に?高天原山を御巣鷹山と改名?したのかは不明です。

日航123便墜落事故から36年 真相は未だ藪の中・・遅すぎた墜落現場発見、主犯2社にお咎めなし 

日航機墜落事故 原因は圧力隔壁修理ミス??しかしボーイングは賠償せず・・34年経っても解けない謎

日航ジャンボ機墜落事故から33年。事故機発見・救助の遅れ、ボーイング・日航 免罪のなぜ??

相模湾に今も沈む123便の残骸を引き上げれば、隠された真相が見えてくるのですが・・

123便の残骸か…相模湾海底で発見 日航機墜落30年

 ダ・ヴィンチ/レビュー 更新日:2022/8/10
520名が犠牲になった33年前の日航機墜落に新証言。地元民たちが目撃した光景とは!?
【■「本当はもっと多く助かったはずだ」──そんな無念を捨てきれない人たち

 当時、いちばん悔しい思いをしたのは本書に登場する、当時の上野村の村長ほか、村民の方々だったのではないか。彼らは事故発生直後、墜落現場をいち早く伝えるため、あらゆる努力をした。しかしすべて無視され、事故現場の特定が13日の午前5時になるなど、遅れに遅れた

 事故現場を隠したかったのではないか? でも、いったい誰が何を隠したかったのか?

 そんなことを少しでも知りたいと思った方は、ぜひ、本書で本件に関する公表されていない事実を知ってほしい。

 忘れられた時がほんとうの死。本書によれば、事故現場の名称は御巣鷹山ではなく、正しくは「高天原山(たかあまはらやま)」だという。

 神々の山という別名を持つ山に迎えられた多くの命があったこと、そして、そこにはまだ隠された真実がありそうだということを、私たちは忘れてはならないのだろう。】一部抜粋


 女性自身 2022/08/07 06:00
【御巣鷹山から37年】「なぜ、救助は翌朝に?」天国の夫に誓う墜落の真相究明

【■「主人がなぜ亡くならなければならなかったのか?」

1985年8月12日に発生した日航123便墜落事故。

群馬県上野村の御巣鷹の尾根に18時56分に墜落した羽田発大阪行き(ボーイング747)には、乗員・乗客524人が搭乗していたが生存者はわずか4人(すべて女性)。

520人もの尊い命が犠牲となった単独機世界最大の大惨事だった。

犠牲者の中には、国民的歌手の坂本九さんも含まれていた。

夫の雅男さんはその犠牲者であり、吉備さんは遺族となったのだ。


そんな吉備さんが日航に対し、民事訴訟を東京地裁に起こしたのは、2021年3月26日のこと。当初、この7月に判決予定だったが、8月25日の口頭弁論を経て、9月以降になる見込みだ。

「墜落機のボイスレコーダー(音声記録装置)とフライトレコーダー(飛行記録装置)の生データ開示請求」が趣旨だが、なんと発生から36年、日本では同事故の裁判が一度も行われてこなかった。

それを、なぜいま吉備さんが、ひとりで闘おうとしているのか。
「ひとえに、主人がなぜ亡くならなければならなかったのかの事実、真実を知りたいだけなんです。

今日の今日まで、日航から直接、事故原因を説明されたことなど、一度もないんですから」】一部抜粋


 Yahoo!ニュース・・女性自身 2022/8/7(日) 6:01配信
【御巣鷹山から37年】遺族の闘い「裁判に勝って、すべての真実を明らかに」
【あの年の8月12日、主人は急な日帰り出張で東京に行きました。

帰りの飛行機の前に電話をくれた主人は、とても疲れた声でした」

それが、吉備素子さん(79)が聞いた最愛の夫・雅男さん(享年45)の最後の肉声だった。

「いまから帰る。19時に伊丹空港に着く便に乗るーー」

■「主人がなぜ亡くならなければならなかったのか?」

1985年8月12日に発生した日航123便墜落事故。


「4カ月間、私は遺体安置所で、身元不明の部分遺体をひとつずつ手に取って、主人を捜しました。でも主人は手も足もバラバラで、ぜんぶは見つかりませんでした」

9月の誕生日で満80歳となる。昨年は大腸がんの摘出手術をした。さらに先天的な股関節脱臼で激痛があり、歩くのには杖が必要だ。

そんな吉備さんが日航に対し、民事訴訟を東京地裁に起こしたのは、2021年3月26日のこと。当初、この7月に判決予定だったが、8月25日の口頭弁論を経て、9月以降になる見込みだ。

「墜落機のボイスレコーダー(音声記録装置)とフライトレコーダー(飛行記録装置)の生データ開示請求」が趣旨だが、なんと発生から36年、日本では同事故の裁判が一度も行われてこなかった。

それを、なぜいま吉備さんが、ひとりで闘おうとしているのか。

「ひとえに、主人がなぜ亡くならなければならなかったのかの事実、真実を知りたいだけなんです。

今日の今日まで、日航から直接、事故原因を説明されたことなど、一度もないんですから」

同事故は、事故調査委員会の1987年の事故調査報告書で「ボーイング社の修理ミスが原因で後部圧力隔壁が破壊、急減圧が発生し垂直尾翼が吹き飛ばされたことが原因」とされ、ほとんどの人が「不運な事故」と記憶しているはずだ。

しかし吉備さんは目を見開いて「真実は明かされていないんです」と訴える。

「日航や国の対応は辻褄が合わず、おかしな点ばかり。夕方に墜落したのに救助は翌朝やっと始まった。夜に始めていれば100人ほどは助かったのではとも聞きました。

国も日航も、なにか隠している。私は墜落原因にずっと疑問を持ってきました」

今日までの出来事と疑問、闘いのすべてを振り返ってもらった。】一部抜粋


 Yahoo!ニュース・・THE PAGE 2015/8/12(水) 7:00配信
日航機墜落から30年 残された課題と謎 早稲田塾講師・坂東太郎の時事用語
事故原因とさまざまな憶測

これまで引用してきた通り、航空事故調査委員会の報告書では圧力隔壁が破損を遠因としています。金属の疲労亀裂が進行して圧力隔壁が破壊されたと。事故機は1978年に伊丹空港で離陸の先に尾部が滑走路へ接触した「しりもち事故」を起こしていました。その修理に当たったボーイング社の修理ミスが事故を引き起こした原因であり、見逃していた日航などの管理も「不適切な点があった」と明記しています。修理の指示通りに作業が行われなかったため強度が7割程度に止まり、その後の飛行で疲労亀裂が進んだのが事故の引き金になったと結論づけました。ボーイング社も報告書の指摘を認めた上で陳謝しています。

 一番多いのが圧力隔壁主因論への疑問です。もしそうであれば客室に霧が立ちこめるなどの急減圧を示す現象が起きるはずなのに、そうした形跡はなかったという指摘です。仮に圧力隔壁主因論が不成立に終われば、原因は「なぜ垂直尾翼が破損したのか」の説明がつきません。証明するために必要な垂直尾翼がほとんど回収されておらず、原因究明に欠かせない努力が足りないという声もあります。

 毎日新聞2000年8月6日付朝刊は「日航機墜落事故の資料を廃棄、『保存期間切れた』--運輸省事故調、昨年11月に」という記事を発表しています。それによると航空事故調査委員会が、事故原因の報告書作成に用いた資料を廃棄していたとのこと。01年4月の情報公開法施行を控え廃棄したと記事は推測しています。

 廃棄されたのは日本航空など関係者の聴取メモや目撃者らの口述調書、金属疲労の分析結果、ボイスレコーダーの解析結果などで、他の事故関連資料も含め合計で1トンを超えるとみられます。事故調事務局によると、関連資料の保存期間は10年と文書管理規程に定めており、廃棄自体は規程には触れないと。これだけの事件のいわば「証拠」が消されているとなると何かを隠ぺいしているのではないかと勘ぐられても仕方ありません。

 法廷での真相解明もできませんでした。88年12月、群馬県警が日航、ボーイング社、運輸省の計20人を業務上過失致死傷容疑で前橋地方検察庁に書類送検しました。別途、遺族側が告訴・告発した者を含む31人は89年11月全員不起訴。最大の理由はボーイング社からの事情聴取ができなかったからとしています。

 検察の不起訴処分が納得できない時に審査を申し立てられる機関である検察審査会は2人を「不起訴不当」と議決しました。検察も再捜査をしたものの、90年8月に公訴時効(5年)が成立してしまいます。

遅れた救助、墜落から16時間後

 事故発生の8月12日夜から翌日にかけて、当時群馬、長野、埼玉の各支局にいた記者や地方紙記者は情報の錯綜ぶりを鮮明に覚えています。19時ごろに日航が管制のレーダーから123便が消えたのを機に対策本部を置き、同45分には運輸省も対策本部を設置します。当初の目撃情報が多かった長野県の警察本部が対策本部を設置したのが5分後。「どこに墜落したのか」と3県の記者が右往左往し、日航側の記者会見は20時36分の段階で「現場は確認できない」と発表します。埼玉県も秩父地方ではないかという報告があって現場に向かいました。22時35分には日航の対策本部が「長野県」という見通しを発表します。

 最初の頃に3県の中で最も可能性が薄いとみられていた群馬県と分かっても難航します。3県の警察本部や応援を求められた警視庁、航空・陸上自衛隊から米軍の協力まで得て必死の態勢で臨むも群馬側の目撃証言がほとんどなく、事故現場付近に人家もなく、大変険しい地形で登山道すら存在しないなど悪条件が重なり、救助が遅れました。生存者の救出に長野県警山岳救難隊が関わっているのも上記のような経緯からです。

 もう少し早く救助できたら助かる命もあったのではないか。最終事故調査報告書には死因を「即死」か「即死に近い」と分析しています。一方で、生存者の証言では墜落後しばらくは生き残っていた人がいたとしています。】一部抜粋