現代思想3月臨時増刊「フェミニズムの現在」

 

「女の境界線を引きなおす」

-「ターフ」をめぐる対立を超えて

 

読みました。個人的にホッとしたのは、これを読んでわたしは今、怒っていること。酷く傷ついてしまうのではないかと不安だったから。

 

それでも、怒りが収まったら、きっと時間をかけてわたしの心は傷付くんだとは思う。

 

 

 

まず、感想を簡単にまとめます。

 

~『不安を感じるフェミニストを差別者として「ターフ」呼ばわりすることを乗り越えていきましょうね』と言う事を、徹頭徹尾トランス女性排除派の立場に立って呼びかけた文章~だと最初は感じました。

 

そもそも、フェミニズムの中にトランス排除が内包されていなければ、トランス女性側からの批判は存在しなかったはずです。

 

ミソジニーや女性差別がなければ、女性からの批判やミサンドリーが存在しなかったのと同じように。批判する者に対して『そんな対立を煽っても事態は良くならないぞ。それに「区別」には妥当性・正当性があるんだから』と言うような文章でした。

 

 

 

以下、気になった記述を上げます。

 

p247「誰がトランス排除的なフェミニストであるかをめぐって争いが起こっている」

そんな争いはトランス当事者には関係ないし(発言を見れば自明なことが多い)、実際にあまり問題になっていないとわたしは感じます。トランス排除を問題だとして取り上げているフェミニスト・女性学会員はほんの数えるほどしかいない。

 

フェミニズム・女性学会内に分断を起こしたくないし自分の立場も守りたいから“トランス排除程度の事”には何も言わないでいる人が圧倒的に多くて、それこそ本当は問題だとわたしは思います。

 

千田先生は、少なくともここで「トランス排除が存在する」ことよりも、「トランス排除を批判される人が居る事」を問題と設定しています。

 

 

p247「こうした混乱や対立がどこから生じているのか、ときほぐして考える事」が研究者の役割として必要

こう言いつつ、千田先生が真っ先に例として挙げるのは「トランスジェンダー攻撃発言」を繰り返して契約更新されなかったマヤ・フォーステーター(J・K・ローリングが彼女を支持して大きなニュースになりました)の裁判。

 

でも、この件はわたしの理解では「不平等問題を扱うシンクタンク勤務」者が「トランス排除言動を繰り返して契約を更新されなかった」のだったと思う。千田先生の文章では「思想と信条に基づいて一人の女性が解雇された」事件のように読めます。

 

 

p249

次に千田先生は『トランス女性が女子トイレを使うのは「権利」であり、手術要件が無くなったら、(ペニス付きで)女湯に入ることを認めなければならない』と言うツイートに言及します。

 

千田先生の文章は、意図してなのか、意図せずなのか主語・主体の明示が無いものが多いけれど。とりあえず意図せずだと信じることにします。

 

上記の発言を繰り返し行っているのは「ターフ」とされる人たちです。トランス当事者は「トイレと風呂を一緒に論じる」ことを大きな問題と捉えていますから。百歩譲ってトランス当事者の発言だとしても「理念としてはトランス女性は女性風呂を使いたいが、現実は違う」と言う文脈でしょう。

 

p249

千田先生はさらに風呂に絡めて『Twitter上では性暴力の後遺症のPTSDで男性気が怖いなら、「病院に行け」と言うような乱暴な発言も飛び交っていた』とまとめています。

 

わたしが知る限りでは『(風呂ではなく)女性トイレを何の問題もなく使っているトランス女性を「怖いから排除すべき」と言うのは不当で、それは女性の安全に寄与すらもしない。恐怖感の克服は「普通にトイレを使っているだけのトランス女性を排除する」ことではなく、治療を通じてなされるべき」だという主張です。

 

トランス当事者で千田先生の言うような問題のある発言をした者がいなかったとはだれにも証明できませんが、わたしが知る限りではそういった乱暴なまとめ方をしていたのは「ターフ」の人達でした。

 

p250

「もうこの風呂の話は、終了したらいいのではないか」

トランス当事者が繰り返し主張している事です。

 

トランス女性側は「本人の状態に応じて女性トイレや誰でもトイレを(場合によって施設管理者と相談の上で)使っている。未オペで女性風呂に入ろうとは思いもしないし、そういう人は通報で構わない」と繰り返し述べています。現状のまま。

 

風呂とトイレの話を一緒にしたうえで、繰り返しこの話題を持ち出しているのは「ターフ」と言われる人たちです。

 

千田先生の論文では、事情に詳しくない女性はこういった言説をあたかもトランス当事者側が乱暴な言葉で女性に迫っているように読めます。たとえこれが「対立を乗り越えよう」と言う善意から書かれた文章だったとしても、ここには「トランス排除には理がある」と強烈に誘導する効果があります。

 

なぜそうなっているかと言うと、千田先生は常にトランス排除派の言説・被害を取り上げて、トランス女性当事者の発言は無視しているからでしょう。

 

そうやって「ときほぐした対立や混乱の原因」は、偏っているのではありませんか。

 

 

(途中に現れる過去に相談にのったGID学生のトイレのエピソードや、千田先生の言うジェンダー論第3期の「身体もアイデンティティーも自由に選んでよいものになった」と言う点に関しては、当事者として思う事が多過ぎるので、機会があれば別の投稿で取り上げます)

 

 

p253

『「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか』

 

ふ~ん。としか言えない。わたしとしては「(トランスを含む)女性が安全にトイレを使う権利」が語られるべき事柄だと思います。そこには、トランス当事者の移行状況に応じた誰でもトイレの増設や男女に区分けしないトイレの話があっても良いです。って言うかあるべき。

 

だけれども、千田先生の文章からは、「女性」から「トランス女性」を排除して「女性の安全」を確保するべきだと読めてしまいます。

 

少なくともそういった文脈で引用されることは間違いないでしょうね。女性用トイレとは別に、トランス女性用トイレを作るべきだ、と言うような。(機能は同じ別の施設・制度を作ること自体が差別です。有名なのは「黒人用バス座席」や「同性愛者は結婚ではなくパートナーシップ制度で良い」論など)

 

 

p253

「トランス女性の権利を擁護する際に…トランス差別の原因をトランスへの差別意識に求めるものだ」

p254

「わたしが知る限りにトランス排除的だと言われる人たちにあった限りでは、トランスに対して差別意識を持っている人たちは皆無に近かった。トランスに対して差別意識を持っていたら、そもそもトランスの排除と言う問題自体に関心がなく、この問題を避ける可能性の方が高い」

 

わたしには理解不能の内容です。わたしは「(差別する)人は差別意識は必ず持っている」と思っています。その言動・行為が意識的な差別ではなくとも、恐怖・不安や認知のゆがみに起因してその差別意識は形作られている」のではないでしょうか。

 

一部の例外を除いて、「ほぼすべての差別言動は、正当な恐怖・不安・問題の表明や解決」の形をとるものだと思っています。

 

 

 

※ ここからは、わたしが強く感じた印象です。千田先生に対して不当な意見かも知れません。

 

この文章の意図は、「『ターフと呼ばれる人』と『トランス当事者』の対立の解消へ向けた提言」ではないのではないかと感じました。

 

「『千田先生のツイートをトランス排除的だと批判する人』に対する『千田先生の反論』」に思えます。

 

「自分をターフ呼ばわりするのは不当だ」と、トランス当事者の言葉、尊厳、現実を無視し踏み荒らして記述された反論に読めました。

 

 

千田先生は「ターフに対しては何をしても良いのだという意識が醸成されている」と言いますが、「トランス女性に対しては何をしても良いのだという意識」の被害をまさに日常的に受けているのはトランス当事者です。

 

その被害には、わたし達の言葉を無視してわたし達の事を論じることも当然ふくまれます。

 

トランス女性の言葉を無視して、わたし達の事をフェミニズムの現在として語ることが何を意味するのか。トランス女性を女性から排除する意識ではないのか。

 

わたしたち抜きでわたし達のことを決めようとしないでください。

 

 

追記

上記の※以降は、当初は書こうか迷った内容です。当事者のゆなさんのブログに対する千田先生の反論を読んで、書こうと決めました。

 

その後の自身を擁護する物なら極めて差別的なトランス排除派フェミニストの発言もリツイートしている千田先生と、千田先生をただ攻撃するために自身のブログを利用する人たちに抗議するゆなさん達の姿勢も見ました。

 

ゆなさんのブログ

 

千田先生の反論

 

ゆなさんの再反論

 

当事者が尊厳を削るように書いた文章を千田先生は当初「虚偽」の内容の流布とタイトルに入れていました。

 

取り上げる事象が決定的に偏っていることから読み取れることを、当事者が千田先生の立場に配慮して言葉を抑えて書いた内容に「虚偽→誤読」と片付けています。

 

非常に抑制的に批判されている方々とは別に、年末の千田先生に対する批判、それに対する千田先生の反応、その経緯も(全部ではないでしょうが)見ていた当事者として、はっきりと感想を書く者も必要だと思ったのです。