ある朝、起きてツイッターを覗くと、年末にトランス排除的だと批判を受けて、「だったらこの経緯を論文にしよう」と発言していた女性学会の代表幹事の人の文章が、現代思想に乗ったという話が出ていた。

 

内容は何となく予想がつくし、あまり気にしないようにしよう。

 

そう思いつつも、著者の権威や地位を考えると、日本の女性学にトランス排除が明確に位置を占めるきっかけになる論文が出たのだと思い、気が重い。

 

 

 

その夜、帰宅したウチの人がわたしの顔を見るなり心配そうに

「どうしたの。何かあったの」

「ううん。なんでもないよ...」

 

 

 

翌朝、仕事前のお風呂上がり。髪の毛をブローしながら椎名林檎のアルバムを聴く。

 

気分転換しているつもりだけれど、頭の中では嫌な思いがグルグルしている。

 

フックスやトゥルースが「Ain't I a Woman?」と問いかける時、それは周辺化された女性の怒りの声として受け止められただろう。でも、わたしが同じ問いを投げかけても、同じように受け止められることは無いのだ。

 

「りんごのうた」がかかって、不覚にもぽろぽろ泣いてしまった。

 

「わたしのなまえが わからない」そんな歌詞に反応してしまう時期は、とっくに過ぎていると思っていた。

 

 

 

 

そのくらいには、やっぱり傷ついてしまう、あるトランス女性の日常を、千田有紀論文に向けて綴ってみたいと思う。

 

千田先生は、自分が過去に相談に乗り世話もしたGID当事者について、「お手洗いは、あまり問題となった記憶はない。…各々工夫を重ねているようだった。彼ら・彼女らは、あまりひとの来ないトイレの場所は熟知しているようだった…」と簡単に書いている。

 

トランス当事者は、安心してトイレを使うために、行先や経路のどこに誰でもトイレがあるのか入念に確認し続けて、時に排尿困難や尿路感染症を患いながら、文字通り血を流しながら工夫している。

 

トランス排除に理解を示すことを中立的に扱うというなら、なぜこういったトランス当事者の苦痛を「工夫を重ねている」と一言で済ませるのか。

 

 

 

『「トランス女性が安全にトイレを使う権利」…そこがなぜ従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか』とも書いている。

 

トランス女性が女性用トイレを使いたいと思うのは、わたし達が女性だからです。自認と違うトイレを使う事は、社会的に自身の存在が認められていないことを自分でも受け入れる行為だから、わたし達の尊厳を深い所で傷つける行為だからです。

 

そして、『「トランス女性が安全にトイレを使う場所」がアプリオリに女性用トイレだと決められて』なんかいません。

 

わたしは、手術も戸籍変更も済んでいるけれど、身長が180cmを超えているから、なるべく「誰でもトイレ」を使うし、それがない時は「男性用トイレ」使う。身体だけじゃない、心からも血が流れている。

 

それは、安心してトイレを使えないことがどれほど辛い事か、わたし自身が痛いほどよく分かっているから。だから、シス女性の気持ちに配慮しているんです。

 

『「恐怖・安心感」を理由に特定の属性の人を排除するのは差別』だと批判はする。

 

でも、同時に「トランス女性個々の状況に応じて、問題の少ない方を使っている」ともずっと言い続けているよね。これがわたしの日常です。

 

 

 

こうして書くと分かると思うけど、わたしの性別移行はある意味、悲惨なパターンなんだと思います。そしてこの状況は、トランス開始前から予想できていました。

 

それでは、なぜこうなることが分かっていて性別移行に踏み切ったのか。それは、選択の余地は無かったからです。

 

 

 

わたしは、「すごく頑張っていれば、いつかは心の底から男性だと思える日が来る」と思い込もうとしていた。だって身体はどう見ても男なんだから。時代のせいもあるけれど、どちらかと言うと自分の中のトランスフォビアがそう思わせていたと感じる。

 

でも。だんだん心が死んでいく。いつしか身体が気持ち悪いという悪夢(口内が腐って呼吸ができない、とか血管の中を動き回る寄生虫に身体が喰い荒らされている、とか...)を毎晩、2時間おき、1時間おき、そして30分おきに見て眠れなくなった。

 

そうやって、ずっと抵抗していた自分の性自認に向き合う事を決めざるを得なかった。

 

千田先生は「いまや、身体もアイデンティティーも、自由に選んでよいものとなった」と簡単に書いています。

 

わたしも、ジェンダー表現は自由であるべきだとは思う。でも、トランス排除を題材に書いた論文で、(多分多くの)当事者の気持ちを無視してアイデンティティーが自由に選べる、と言う事だけをどうして平然と書けるんだろうか。

 

わたし達が「自分を実現して生きるのは自由だけど、負担を女性に押し付けるな」とか、「女子トイレを覗く・女性風呂に侵入するために性自認は女だと言い出す男」とか言われ続けているのが「ターフ」をめぐる問題なのに。

 

自分を実現? シス女性が生まれながらに立っている地点の遥か手前での苦しみをそう言われてもね。性別を変更して生きることを、そんなに簡単なことのように言われてもね。それが「ターフ」をめぐる問題じゃないのか。なぜそれを批判することだけを問題にするんだろうか。

 

わたしの内心では、答えは分かってる。だから千田先生には期待はしない。

 

ただ、それを看過することで、きっと深い所で傷付く(私を含めての)当事者が沢山いるから、わたしのような声をあげられる者が批判することで、受傷が怒り・抗議に転換されることを願うのです。

 

 

 

さて、一見悲惨な当事者のわたしですが、それでも移行前よりずっと心が生き生きと暮らしています。トランス排除派が何と言おうと、誰が差別的な論文を書こうと、わたしはわたしなりの日常を重ねるのです。

 

 

 

 

おまけ:わたしの幸せな日常、ウチの人のために作る朝ごはん

 

茹で野菜サラダ(バルサミコドレッシング)

今年はレンコンが安くて美味しいんです。知ってます?

 

ゴボウのミルクスープ

 

 

豚肉のバタークリームソテー

 

 

ニンニクなしの絶品ミートソース

連休だから、前の晩にじっくり煮込んだよ。

 

 

ウチの人が仕事だから、ニンニクなしのイタリアン。一緒に食べてくれる人が居ると、ご飯作りが楽しいです。