怒っているとブログの更新も頻繁?

 

まぁ、きょうは少しトランスの話から離れて映画の感想文を書いてみます。

 

 

 

ツイッターで「ある少年の告白」がアマゾンプライムで無料配信されてる、と言う情報をゲットして観てみることに。ネットTV最高!

 

ところが、わたしのTVのソフトでは、「ある少年の告白」を検索してもヒットしません。う~ん、公開終っちゃった…?

 

と思ったんですが、ふと思いついて原題の「Boy Erased」で検索したら出てきました。

“福音派の牧師である父親と、父親を常に立てる伝統的アメリカ女性の母親のもとに生まれたジャレットは、ある事件がきっかけで自分が同性愛者であるとアウティングされ認めることになってしまう。

 

自分が同性愛者であることに悩み、正しくありたいと望むジャレットは、教会の勧める矯正施設に入ることになった…”

 

といった話。

 

 

 

ここからはちょっとだけネタバレ含みます、がこういう社会派映画は筋はあんまり重要じゃないと思うので。

 

個人的には、映画じゃなくて原作読んだだけですが「ミスエデュケーション…」の方が刺さるところがありました。

ミスエデュケーションの読書感想文

 

「ある少年の告白」の矯正施設は分かりやすく酷い所があるんですけど、「ミスエディケーション・オブ・キャメロン=ポスト」では出てくる施設の人間が、より善意に基づいているところが宗教に基づく偏見の怖さを感じさせるから。

 

あとは、キャメロンと家族の和解の可能性が見えないまま、彼女が世の中に出て行かざるを得ないところが、わたし的に刺さるんだと思います。

 

ある少年の告白では、最後のテロップで語られる内容にもアメリカのホモフォビアの根深さがあって、隅々まで考えさせられるノンフィクションでした。

 

ちなみにザビエル役の男の子が気になる。ああいうやや間延びした顔のイタリア人が少しだけタイプなんだと思った(笑)

 

 

 

いつも通り、ちょっと直接の感想から離れて、宗教と差別の問題で考えていることを書いてみます。

 

わたしは、宗教は世の中で人々が答えのない問題に悩まされる時、それでも社会の安定を維持するための制度なのだと思っています。

 

答えの出ない争いの中でも、ある方向を指し示す羅針盤のようなもの。個人的には、そう言った外部装置に頼ることなく個々が信念と知性に基づいて協力出来たら、と願いますがわたし達人間にはまだ早いようです...

 

社会制度であるからには、宗教は現実社会に合わせて変わっていかざるを得ないし、それが宗教の力の源でもあると思っています。

 

ユダヤ民族だけが救われるに値するという一種の民族宗教だった信仰が、神の国の概念を変えて普遍的な教徒の救済を提唱するように変化したからこそ、いまキリスト教は世界中で信仰されているように(ここでは宗教自体が変わった)。

 

そして、「女は生きる価値がない」と言う聖書の文言を、文字通り採用することが現在のまともなキリスト教信者なら無いように(解釈の変化)。

 

 

 

それでも、女性が男性を堕落させた原因として描くエデンの園の逸話は消えて無くなってはいません。絶対の善を解く際、絶対の悪を想定してしまいがちで、キリスト教の多くの宗派における同性愛の排除はそういう事なのでしょう。

 

フェミニストでキリスト教徒なら「女は生きるに値しない」は否定しても、「避妊」は? 「妊娠中絶」は? 

 

敬虔な信者であればあるほど、そして宗教が自分にとって身近であればあるほど、宗教・民族・性別・性的特性その他の違いで他者を悪魔化しがちな宗教観と、現実や信念との齟齬に折に触れて悩みながら自らが正しく生きる道を進もうとするべきなのでしょう。

 

 

 

そして、このことは宗教にとどまるものではなく、わたしたち一人一人の正義感や常識についても言える事なのだと思います。

 

わたしの正義感や常識や、当たり前すぎて意識もしなかった事が、他者の犠牲の上に成り立っていると気付けるように、自分をアップデートしながら、わたしなりに正しいと信じる道を進む、みたいな感じ。

 

「女は子を産んで初めて救われる」と記した聖書時代の価値観そのままらしき人が大勢いる日本の中でも、わたしが声を上げたり行動したり、さらにはただしっかりと生きていく事に、価値があると言えるように。