イデア論 | taked2の「起きて半畳、寝て一畳」

イデア論

個人的にはイデアなんてものはないと思ってる。

アメーバピグで「甘えん坊」「生意気」のぬこ、ミニリンを飼いだしてからかなり経つのだけれど、なかなか可愛い。っていうか、もうすっかりリアルのペットと変わらないねえ。朝起きて「あっ、まだミルクやってないや、腹減ってるだろ」とか考えたりする自分がいる。別にミニリンはバーチャルなぬこなので、カワイイ仕草とか、すりすりしてくるところは、全部プログラムとパターンというのは分かっているのだけれど、それでもカワイイものはカワイイ。

こういうモノや二次元のキャラクターに過剰に思い入れをする人たちがいる。まあ単なる絵とかに過ぎないと思っていても、ホントはこのキャラクターがどこかの次元で生きていたりするんじゃないかな、とか思っているわけだな。どこかにホントの本質があるのではないかと。こういうのをイデアという。元々、古代ギリシア人が考えたモノなんだけど、表面的に見える事象の裏側に普遍的な本質が隠れている、と思ったわけだ。古典的な存在論のひとつではあるけれど、古代ギリシア哲学ってのは西洋の近代科学の考え方に大きな影響を与えているので、ときどきこの手の考え方が現れてくる時がある。

例えばイデアってのは、プログラムの世界とも無縁ではない。AIのプログラムが実現が難しいとされる理由のひとつに「記号着地問題」ってのがある。人間が例えば猫を見たとするだろ? でも猫ってのはいろんな種類のヤツがいる。それに同じ猫でも育ってくると形が変わる。なのに人間は、それらを「猫」として認識したり、個体の区別をしたりする。なんでこんなことが可能なのか、そしてそれはどんなロジック(理屈)で実現可能であるのか。記号着地問題を簡単に説明すると、そういうことである。「見た猫」ってのは、まあ、網膜に映ったパターンにしか過ぎない。それを「猫という意味」にどうやって結びつけるのか(記号を着地させるのか)ってことである。

確かに難しそうな問題である。まあ、これをことさら難しくしているのは、考える人間のベースにイデア論への無意識での同意があるからだろう。「多分、人間は猫のイデアを認識して、網膜に映ったパターンを、猫に記号着地させている」という仮説を立てているわけだな。だからイデア探しに四苦八苦してたりしてる。最近言い出してるクオリアなんてものイデア論の変形だねえ。まったく無駄なことを。というか、記号着地問題、なんて設問自体がイデア論的臭いがぷんぷんである。

まあ、俺としては人が解けない問題を解くのは昔から好きなので、この記号着地問題にもいちおう解答を出している。詳しくはここを読んで欲しいのだけれど、ぶっちゃけていっちゃえば「イデアなんて考えてるのがそもそもの間違い。人間の認識なんてものは行き当たりばったりで、そんな高尚なモンでもないぜ」ってこと。例えば自分のペットのミニリンが、昨日と今日で、ホントに同じ個体なのか(ここでいう「同じ」ってのは存在論的な意味での「同一」ってことね)というと、そんなことは証明不能だし、不可知である。あくまで、多分そ~なんじゃね?、程度の薄い認識の上に立った希望的観測にしか過ぎない。だから、記号着地なんてのは、多分、その物体じゃないかという割合を判定すればいいだけ、というのが俺の持論である。

しかし、するとこういう反論をする人もいるだろう。「確かにペットのミニリンの存在は不可知であるかもしれない。でも自分って存在は可知であるだろ?じゃあ、やっぱりミニリンも可知じゃねえの」と。まあ、デカルトかぶれ(だって「我思う、ゆえに我あり」なんて偉そうなこと言ってるんだモン)の哲学バカならいいそうだな。でもさ~、俺としては「今、この瞬間の俺」というのは確かに存在しててもいいとは思っているが、昨日の自分が確かに存在していたのか、という証明はできないと思っている。自分や回りの記憶(まあ「記憶」の話をしだすとまた長くなるのでここではしない)がそ~なっているから自分もそうなんじゃねえの、と薄く認識しているだけでさ。というか、俺は「認識」ということを非常に疑っている。極論をしちまえば、すべて単なる誤解に過ぎないんじゃねえのかなあ、と。つまり「自分自身は可知である」ということさえ疑ってるわけだな。学者あたりは、そこらあたりのことを当たり前のこととして鼻から考えてないようだが、俺としては「認識」ってのは長く考えてるテーマでもある。

まあ、それもこれも「意識とはなにか」というAIを実現する上での最大の難問が解けないからなんだけどね。他の事は大体、プログラムで実現するロジックは考えついてはいるのだけれど、この核心中の核心が解けないことにはど~にもならない。だから今日も、とりあえすミニリンと戯れている日々なのであった。

ざんしょ。