この町のことは、プヨ宮南池の畔に建つカフェ「at 267」について調べていたとき偶然知りました。韓国人が自分のSNSで紹介してくれていたのです。その記事には「日帝強占期の日本人村の痕跡と近代建築が残る」(まま)と書かれています。
一気に目が覚め、深夜のネット探索の旅が始まりました。
今はいい時代です。ネイバーやダウム地図のロードビューサービスで目的の場所の様子が手に取るように分かります。現れる街並はかなり寂れているけど、確かに日本風な建物がたくさん。うひうひ。一緒に夜中(明け方?)までうひうひしてくれた街歩きの師匠りうめいさんがWikipediaから町の歴史に関する記述を見つけてくれました。
窺岩面の歴史(ウィキペディア)
ウィキによると窺岩里には錦江を渡ってプヨへ入る渡船場があって大規模な市が立ち、李氏朝鮮時代からここに橋ができる1968年までは物流の要、交通の要所だったそう。付近の地図をキャプって印をしてみました。白馬江(錦江)が大きく蛇行する部分、向かって左側の赤く囲まれたところが窺岩里、その対岸が現在のプヨ中心部。
日本統治時代、窺岩里に日本人が集まりs、役場、駐在所、学校、教会、精米所などが作られ、あの東洋拓殖会社のプヨ支社も置かれたというのだからそれは相当な繁栄ぶりだったのでしょう。1945年前後には日本人韓国人合わせて200世帯ほどが暮らしていたとか。しかしその繁栄は1968年、百済橋の完成で突如終わり、町は一気に衰退しました。(一番上の写真が百済橋。)
そんな窺岩里へ行ってきましたよ。
どれほど寂れていたことか。そしてどれほど日本(風)家屋もりもりだったことか。それらのほとんどは手入れされずぼろぼろで消え去る寸前。ああ、もったいない。
街歩きがお好きな方に是非行っていただきたい窺岩里の散歩を次の記事からご紹介します。よかったらまたおつきあいくださいね。
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