信長の野望の南九州勢力図に物申す! | うぃんどふぇざぁ

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歴史とゲーム好きの小人族の一人がなにやらもそもそするブログ

特に永禄年間以前の勢力図おかしくないですか!?

大中公こと島津貴久が守護家を相続したのは大永七(1527)年。
それから月日が経って島津四兄弟のうち同母兄弟で年齢が近い義久、義弘、歳久が初陣したのは天文二十三(1554)年の岩剣城攻めです。岩剣城って何処かって言うと姶良市の南端なんですよね。
その時の薩摩川内市は反貴久派である渋谷一族の入来院、東郷両氏の領地です。
つまりその頃の貴久はそれより南の薩摩半島しか領有してないんです。

では2017年11月30日発売の「信長の野望大志」で1554年シナリオを見てみましょう。
…なんで薩摩統一して北は相良氏と接して、反貴久派の戦国大名肝付庶流北原氏が割拠する加久藤盆地の南まで島津色なんですかねぇ??

当時薩摩半島以外の貴久に従属してた大きな勢力は加治木城肝付庶流家都之城北郷氏、北郷氏から養子に入ったけど伊東氏と肝付氏に圧迫されてもはや風前の灯である飫肥城島津豊州家忠親くらいです。
同盟勢力に後年激戦を繰り広げることになる高山肝付本家の兼続が居て、兼続は岩剣城攻めに貴久方として参陣もしてたりします。

ね? これひどくないですか?(肝付伊東並感
島津家の武将が強いのはいいけど、ありえない広い領土とそこから来る高い国力とかやりすぎでしょ!
桶狭間合戦当時に信長が岐阜城に居るくらいひどい…

コエテクはさっさと見直してどうぞ