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歴史とゲーム好きの小人族の一人がなにやらもそもそするブログ

●1060年康平三年、(伊佐平次)平兼輔(伴兼貞の子で季基の娘婿?)の子・兼重が大宰少監に補任される。

●平兼輔が肥前国神埼郡神埼荘の荘官となって子・

●968年安和元年、(右兵衛督)伴仲用が薩摩掾に補任される。

●969年安和二年、伴仲用が薩摩国神食(上伊敷)に下向して居館を構える。
〇(右馬頭)伴仲兼(仲用の子)の時。
〇(判官代)伴兼遠(仲兼の子)の時。
●1019年寛仁三年、刀伊の入寇。平(伊佐)為賢(常陸平氏、伊佐氏)も活躍し、その子孫は鎮西平氏に派生し、更に薩摩平氏に派生。
●1023年治安三年、藤原惟憲が従三位太宰大弐に叙されて大宰府へ赴任する。
●1024年万寿元年、赴任の労により藤原惟憲は正三位に昇叙される。
●1024~1028万寿年間、従五位下大宰大監平季基(鎮西平氏・伊作平次貞基の子?)が日向国諸県郡島津院を中心とする荘園を関白藤原頼通に寄進して島津荘が成立する。
●1026年万寿三年、平季基が島津荘に荘官として移住する。その後、伊勢神宮を勧請して神柱大明神(現・宮崎県都城市梅北町益貫黒尾神社の地)を造立して祠官を務める。
●1029年長元二年、平季基は大隅国庁を襲撃し藤原良宗宅を焼き討ちする。太宰大弐藤原惟憲は季基に賄賂として絹3000余疋を要求し、季基はこれを贈って府解(大宰府から朝廷への上申書)に記載されるのを免れた。(『小右記』)
○同年、惟憲が大弐の任を終えて帰京した際は九州一円から収奪、貿易あるいは略奪した財宝を携えていたという。(『小右記』)
●1036年長元九年、薩摩掾大宰大監伴兼行(兼遠の子。子に行貞)が肝属郡弁済使として下向する。
●(無官大夫)伴行貞(兼行の子)の時。

兼重と共に赴任する。兼重は神埼名字を称する。(平姓神埼氏)

●平季基の子あるいは娘婿・兼輔に代わり(検非違使右兵衛佐)伴兼貞(行貞の子)が島津荘官となる。
●(新大夫)伴兼俊(兼貞の子)の時、肝属郡へ入部。初めて肝付名字を称する。(伴姓肝付氏)
●1197年建久八年、鎌倉幕府により作成された大隅国図田帳より2代河内守兼経が当主との記録あり。
●3代弾正大夫兼益(兼経の子)の時、高山へ入部?
●1274年文永十一年、4代河内守兼員(兼益の子)の所領譲与案あり。
●兼員の時、道隆寺(蘭渓道隆開基、高山城前)造立。
●1283年弘安六年、5代河内守兼右(兼石。兼員の子)の所領譲与案あり。
●兼右の時、盛光寺(肝付氏菩提寺)造立。
●1291年正応四年某月十一日、鎌倉幕府より大隅肝付郡地頭・名越(北条)高家に、高家祖父公時の侵地を弁済使・肝付尊阿(6代周防守兼藤)へ返付するよう命じる。
●尊阿と地頭代盛貞(盛真)の相論(係争)が続く。
●1293年正応六年四月三日、幕府は和与状を発給。
〇同年五月二十四日、幕府は裁許後に任知状の通り処理するよう命じ度々御教書を発給。
●1293~1299年永仁年間、未だに地頭北条氏は押領地を返還せず。
●1320年元応二年三月十一日、押領に関して遠江前司(鎮西探題・北条(阿蘇)随時)より相模守(北条)高時と前武蔵守(北条)貞時宛の下知状が発給される。
●1323年元亨三年二月四日、係争の件で鎌倉まで出向していた尊阿(兼藤)は地頭代盛貞に殺害される。
●7代河内守兼尚(兼藤の子)の時、鎮西探題により押領地が返還される。
 
【応永】1394年~1428年
●1419二十六年六月、兼元が盛光寺阿弥陀堂を再興。
 
【永享】1429年~1441年
○六年六月二十二日付、伴兼政・兼直から島津好久(用久)への契状あり。同日付、肝付兼元・兼忠・貴重も同内容の契状あり。
 
【文明】1469年~1487年
●1471三年十一月、1473五年、1475七年、1476八年十月にかけて向島(桜島)の大噴火が連続して発生する。大量の降灰は主に北東方面に伸び、大隅国府・庄内(都城盆地)・山東(宮崎平野)などが被害を受け、30~50cmの「文明ボラ」と呼ばれる地層となっている。(この甚大な自然災害は南九州に政情不安を呼び起こし、文明期の争乱ひいては南九州における戦国時代のきっかけとなる。)
●1485十七年六月二十一日、飫肥城近郊の楠原(くすばる)で激戦となり双方被害多数。伊東勢は
●1487十九年二月二十五日、兼久十五歳のとき高山城を逐われる。
○九月二十三日、兼久が高山城に復帰する。
 
【長享】1487年~1489年
【延徳】1489年~1492年
【明応】1492年~1501年
【文亀】1501年~1504年
 
【永正】1504年~1521年
●1509六年十二月十九日付、伴兼家(姶良地頭か)が若宮八幡御廟営(姶良か)を成就により再興。奉行・検見崎兼堯、作事奉行・坂元良次。
●1511八年、兼興の子・兼続生まれる。
●1527十五年、伴兼宣が高隈八幡大明神(万八千神社)を建立。
●1520十八年二月七日から三月十七日までに北原久兼、菱刈重副、祁答院重武、名和武顕のそれぞれから兼興に書状が送られる。島津忠兼(勝久)に対し、上の四家に加え伊東氏、相良氏、阿蘇氏、薩州家、相州家、豊州家、新納家、頴娃氏、禰寝氏なども含まれる多重同盟の結成。名和武顕の正室は兼久の娘で、兼興の正室は相良長毎の娘。
 
【大永】1521年~1528年
●1523三年、兼続家督を継いで肝付氏16代当主となる。
●1524四年十二月三日、兼興が串良を知行。
 
【享禄】1528~1532年
●1530三年五月二日、兼興が鹿屋今城を知行。
○三日、兼興が肝付武蔵介兼賢を鹿屋院地頭にする。
 
【天文】1532年~1555年
●1533二年四月五日、兼興が死去。享年四十二。
●1535四年、兼続の長男・良兼誕生。
○三月一八日、姶良地頭・肝付伊勢守兼清が奉行として姶良若宮八幡御廟営を再興。
●1538七年、新納忠勝が没落。
一月二六日、兼続が高岳(高隈か)を知行し、禰寝堯清改め清年と同盟して高岳を譲渡。
●1542十一年二月、省釣と禰寝清年が断交したため、省釣が肝付武蔵守兼賢・河越丹後守家実・大野伊賀守源加等を派遣して高岳(高隈か)・百引を略取。
○三日、続けて平房を略取。
○二十一日、省釣が救仁院乗陣まで出陣。
○二十三日、省釣が大崎を略取。
○閏三月三十日、島津豊州家忠広と禰寝清年が共謀して肝付領に同時侵攻する。忠広は肝付領蓬原を略取。省釣は北郷忠相に援軍を求め、北郷左馬介が派遣される。肝付北郷軍と禰寝軍が鹿屋で交戦し、禰寝軍は敗走。園田将監・禰寝八郎左衛門長門守等50余人戦死。『田代宝光寺古年代記』では二十九日とし、禰寝衆33人戦死という。
〇四月二十日、省釣が安楽を略取し、島津豊州家忠朝と同盟して安楽を譲渡する。
○六月十七日、種子島衆と交戦し、36人打捕る。『田代宝光寺古年代記』では46人。
〇七月十三日、省釣が蓬原を略取。
○十六日、省釣が恒吉を攻略。
●1544十三年八月二十二日、兼続が三十四歳で入道し省釣を号する。
●1544十三年十二月二六日、省釣が西俣を知行。同日、野里も知行。
●1545一四年七月、省釣が市成を知行。
●1546十五年二月二日、省釣が大姶良を知行。
○七月十三日、省釣が蓬原城主・救仁郷蔵人介頼世を降し、大野出羽守源加を蓬原地頭とする。伊集院筑前守久利が地頭とも。
●1548十七年正月、北郷忠相が恒吉を攻略。
○四月、省釣が牛根・辺田・二川を知行。
●1551二十年、伴兼周が高熊八幡大明司(万八千神社)を建立。
●1552二十一年五月一四日付、近衛稙家から肝付河内入道(省釣)宛の御書あり。(※年次は筆者が比定。壬年・河内入道の表記から。)内容は馳走のお願い。時期的に足利義藤が三好長慶と和睦して同年一月二十八日に近衛稙家等を伴って帰京してから三ヶ月ほどのこと。
●1553二十二年八月十三日付、恒吉地頭・肝付加賀守兼吉が恒吉投谷八幡宮に立願。同日同宮社壇を成就のため造立。
●1554二十三年六月、肝付郡司職・検見崎常陸介兼書が盛光寺阿弥陀堂を修造。
○九月、渋谷氏と島津氏による帖佐合戦に省釣陣代・伊集院三河守が援軍として派遣される。
○十月一八日、鹿屋地頭・肝付武蔵介兼賢が鹿屋院高隈上村若宮を再興造立。
●1555二四年十二月一九日付、姶良地頭・肝付伊勢守兼清が姶良若宮八幡社壇を成就のため造立。
 
【弘治】1555年~1558年
●1556二年十月五日付、省釣への法印位の後奈良天皇口宣案あり。上卿・中山大納言(孝親)、権大僧都省釣、宜転任法印、蔵人頭左大弁・藤原(葉室)頼房。
●1557三年八月十九日付、省釣への法印位の後奈良天皇口宣案あり。上卿・中山大納言(孝親)、権大僧都省釣、宜叙法印、蔵人頭左大弁・藤原(葉室)頼房。
 
【永禄】1558年~1570年
●1558元年三月、恒吉城近辺の宮ヶ原(大隅町大谷)で北郷家・豊州家連合軍と肝付軍が戦い、北郷久厦、豊州家日置久範、平田宗仍らが戦死し肝付家が大勝する。
●1559二年二月、肝付治部左衛門兼名が恒吉投谷八幡宮へ懸仏を寄進。
●1561四年、省釣の末子・兼道(兼護)誕生。
○五月四日、省釣が廻を知行。廻地頭に肝付治部左衛門尉兼名を据える。
〇七月十三日、廻城の戦い。島津右馬頭忠将等が討死し和睦。島津軍は撤退。
〇十四日あるいはそれ以降同月中か、薬丸兼将から伊地知美作守(重矩か)宛書状あり。内容は「昨日廻から報告がありました。御屋形様(省釣)の活躍は伝説になるでしょう。(島津氏と敵対関係になったので)今回伊地知重興様の御訪問は延期して、国境の牛根・廻など各所の警戒をお願いします。今のところ薩摩方(島津氏)の動向は落ち着いています。」
●1562五年四月五日、省釣が松山を知行。
○五月二十八日、省釣が救仁院を知行。安楽前下総介兼之が省釣に従って移住。同日付、嫡子・下総介兼朗が某社を造立。作事奉行・安楽和泉守。
○六月、省釣が安永を知行。
●1564七年か、島津薩州家義俊(義虎)家中の市来民部大輔良純・竹田越中守信元・猿渡伯耆守家諸の連署で薬丸出雲守(兼将)宛書状あり。内容は島津薩州家陽久(義虎)が去年から上洛しており、足利義輝に拝謁して一字拝領した(義俊)ことの報告。
○二月六日付、北郷左衛門尉藤原時久から左馬頭良兼宛和睦の起請文あり。
●1566九年三月二十六日付、高隈地頭・河越丹後守平家実が高隈中津宮大明神に立願。助成人・大野伊賀守源加。
○十一月十五日、省釣が志布志で病没。享年五十六。
●1568十一年、姶良地頭・肝付伊勢守兼清が後田村で新たに二所神社を建立。
〇四月、良兼が伊東氏と共同で島津豊州家忠親領へ侵攻。良兼は福島を、伊東義祐は飫肥を攻囲。
〇四月あるいは五月以降か、年月日不明だがこの時期と推定。良兼から禰寝重長宛書状あり。内容は「先日十一日櫛間で刈田を行いましたが敵勢は出て来ず、無事に終わりました。肥前国彦山の山伏から情報提供があり、島津氏は水軍を準備して高洲を攻略するつもりとのことです。きっとその通りでしょう。敵船一、二艘が高洲坂本へ四、五度も来ています。夕方からは妻子達を避難させて男達は用心するように申し付けています。そちら(禰寝)の浦々も十分に御用心してください。」
〇四月あるいは五月以降か、年月日不明だがこの時期と推定。良兼から伊地知重興宛書状あり。内容は「昨日櫛間で軍事行動をしました。伊地知美作守殿を始めとした援軍感謝します。」
〇五月三日あるいは十二日、良兼が豊州家勢を退け福島を知行。
〇五月以降か、年月日不明だがこの時期と推定。薬丸兼将から入来院家中の山口筑前守・入来院河内守・東郷宮内大輔宛書状あり。内容は「肝付家が福嶋を知行したことへの御祝いの御使者を遣わされたことを嬉しく思います。今後も御味方であることに変わりありません。現在は櫛間に居るので御使者との対面ができません。」
〇七月以降年内か、老中・薬丸出雲守兼将から土佐国長宗我部家中・江村備後守親家宛書状あり。内容は「島津豊州家方と肝付家は合戦の最中で水軍を展開していたところ、長宗我部御領浦戸の船が通りかかりました。夜中に豊州家水軍と射掛け合い、既に勝負は決していたところ、土佐の船というので退きましたが、その船に三矢射込まれました。それはある一人の落ち度とのことで言語道断なことです。なのでその(落ち度ある)船頭は帰国を許さないことになりましたが、(今回のことは)合戦中の混乱で力及びませんでした。その船頭は土佐へ出頭して申し開きをするよう申し渡したので御了承ください。櫛間湊まで長宗我部御領の船の出入りはありませんでしたが、その地は去る六月以来肝付家が領有したので、これからは互いに出入りすることを希うところです。」
〇七月十三日、島津豊州家忠親は子・朝久を都城へ遣わして出奔。
〇八月八日、島津豊州家忠親入道泰心斎と北郷時久の要請により、肝付家中の肝付左兵衛尉・渡邊隠岐守惠(松山地頭)と北郷家中の北郷右衛門尉・土持美作守と豊州家中の餅原越後守入道一路などが国合の末吉にある館で会盟。
〇二十日、良兼の使・肝付刑部少輔兼利休古が都城で祝賀。北郷時久はこれを西丸で饗応。
〇二十四日、北郷時久から北郷弾正右衛門尉久蔵が串良に来て返礼。
○八月二八日付、肥前国彦山の福泉坊・成円坊・思石坊・二階坊・般若坊の連署で検見崎(兼泰か)殿・薬丸(兼持か)殿宛書状あり。年次がないが内容から大友宗麟により彦山が焼き討ちにあった永禄十一年頃と考えられるためここに記載。
〇九月、良兼が内之浦に高屋(鷹屋)廟を新たに建立。
●1569十二年三月二日、左馬頭良兼が平房石牟礼大明神へ、二度の合戦勝利成就のため大崎水田一反と薬丸新左衛門作の「田ノうと」(独活のことか)を寄進。
 
【元亀】1570年~1573年
●1571二年五月一五日、左馬頭良兼から宗太首座への日向国大慈寺住持職の書下あり。
○七月三十日、良兼死去。享年三十七。
○十二月二十二日あるいは二十六日付、安楽地頭・安楽兼朗が安楽山宮大明神御宝殿を成就のため造立。
●1573四年一月六日、兼亮陣代・伊集院三河入道(肝付竹友)が肝付軍を率いて北郷氏と末吉で戦い敗戦し、伊集院三河入道・安楽因幡入道など多数討死。『末吉口討捕頸注文』あり。
 
【天正】1573年~1592年
●1573元年一月二日、肝付兼名が日向国南郷で討死。
●1574二年三月、肝付九郎(治部左衛門兼名の子か)が恒吉投谷八幡宮へ懸仏を寄進。
○十一月二十七日、肝付家臣・竹田山城入道笑我を島津氏へ遣わす。
●1575三年六月七日付、肝付十郎次郎(兼名弟・十郎兼見の子か)が恒吉投谷八幡宮へ懸仏を寄進。
●1576四年五月、安上彦五郎が恒吉投谷八幡宮へ懸仏を寄進。
●1588十六年、兼護の子・兼幸誕生。
 
【文禄】1592年~1596年
●1595四年二月六日、新納忠秀の子、新納姓肝付氏初代・兼康誕生。
 
【慶長】1596年~1615年
●1600五年九月十五日、兼護(兼道)が関ケ原で戦死。享年四十。
●1606一五年十二月十一日、兼幸がアイガ島(福岡県相島か)近海で溺死。享年十九。