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【上井覚兼日記】リンクbase1.nijl.ac.jp

『天正二年 閏十一月一日 から十日 まで『上井覚兼日記』』【上井覚兼日記】base1.nijl.ac.jp『天正二年 十一月 二十一日 から 三十日末日 『上井覚兼日記』』【上井覚兼日記】base1.nijl.ac.…リンクameblo.jp閏十一月上旬はこちら↑



93/1243コマ左側

一、十一日如常出仕申候昨日申上候山田之東光寺

大安寺懸御目候何れも青銅三百疋御茶進上候也

十一日、いつものように出仕した。昨日(用件を)申し上げた山田の東光寺(出家)、大安寺(麟蔵主)を(義久様の)御目に懸けた。どちらも銅銭三百疋、御茶を進上した。


94/1243コマ

一、此晩於濃刕談合候其趣伊地知勘解由左衛門尉拙者

両人にて御前ニ申せと候市成就御挌護之儀地頭職

魯笑斎如㝡前領掌被申候二川名市成へ

付候ハてハと被申候此通得上意候    御意ニ㝡

前二川名典厩御望之时牛根ニ彼名ハ付候ハて

ハと被申も魯笑之儀候又市成地頭職被給候

とて彼方へ堅付候ハてハと被申候ハゝ魯笑ニて候

爰許如何之由候此通御意として魯笑へ

この(十一日)晩、濃州(平田昌宗)のところで談合があった。その内容を伊地知勘解由左衛門尉(重秀)、拙者の二人で御前(義久様)に申せという。(拙者たちから義久様へ)「市成御領有の件については、地頭職の魯笑斎(伊集院久通)は以前のように了承されました。(魯笑斎が言うには)「二川名を市成へ付けなければ」と申されました」。(そして)この件の(義久様の)上意を得た。(義久様の)御意は「以前、二川名を典厩(島津右馬頭以久)が御望みになった時、「牛根にかの名は付けなければ」と申されたのも魯笑の件であった。また(魯笑が)「市成地頭職と給わった」といってあちら(市成)へ必ず付けなければと申されるなら(申されたのも)魯笑であった。これはどうなのか」とのことだった。(義久様が言うには)「この旨を(義久様の)御意として魯笑へ


御老中御尋被成候而可然候御意候即両人ニて

御尋被成候魯笑被申候は尤如上意牛根

地頭之时ハ彼二川名牛根へ御付候ハてハと申又

市成地頭之由候ヘハ彼方へ御付候へと申処言語

道断之儀候然共市成は𢈘児嶋へ自由之儀

二川を挌護申候ハてハ更ニ舩朩難成候其故如此

申上候兎角二川之事ハ牛根へ御付候て可然候

魯笑市成地頭之叓一圓ニ成間敷由被申候也

御老中が御尋ねなされるのが良いだろう」との御意だった。すぐに二人(伊地知勘もし、拙者)で御尋ねなされた。魯笑が申されたのは「その通り、上意の(義久様、御老中が言った)ように、(わたし、魯笑は)牛根地頭の時はかの二川名を牛根へ御付けしなければと申し、また市成地頭とのことになればあちら(市成)へ御付けくださいと申しているのは言語道断の話です。しかしながら、市成は鹿児島への航行の都合で二川を領有しなければ、更に船等出し難いのです。その理由でこのように申し上げています。(義久様、御老中が納得していないのならば)とにかく二川については牛根へ御付けするのが良いでしょう。(その代わり)魯笑(わたし)は市成地頭については絶対に承諾しません」とのことを申されたのだった。


95/1243コマ

此由申上候御意にハ扨は魯笑之儀御差置可

有迄に候先〻移衆朩能〻談合候ハゝ地頭之

事ハ追而御思惟候て可被仰出之由候也

この旨を(義久様に)申し上げた。(義久様の)御意は、「それならば魯笑の件は保留しておくだけだ。まず先に転属する人々などをよくよく談合して、地頭については追って御思慮して仰せ出られるだろう」とのことだった。


一、十三日如常出仕申候従甑嶋御老中迄と候て

被申候巨細は此前被聞召候於甑聊尓申候舩之

唐人此方へ参彼舟ニ候つる荷物朩書付進上申候

以其書甑へ御礼被成候言語道断驚入候従其

嶋内色〻尋申候へ共書載候種〻一種も無是候

十三日、いつものように出仕した。甑島(地頭小川中務太輔有季)から御老中宛へといって申された。詳細は「以前お聞きになられた、甑で無礼を働いた船の唐人がこちら(鹿児島)へ参り、かの船にあった荷物等を書き付け進上し、その書でもって(押収されるべき荷物を勝手に鹿児島へ送り、小川氏に対してはただその書き付けだけで)甑へ挨拶(弁明?)なされ、言語道断のことで驚き入っています。それから島内を色々尋ねましたが、書き付けに載っている種々(の荷物)は一種もありませんでした。


然者其砌聊尓申人衆甑を他出申候て天満宮

国分殿を頼候て罷居候其人衆へも尋候得共かへ(つ)て

不存由申候又其砌小浦片浦市來湊之商人

朩あまた罷居候ツ此人衆中若〻存候哉与

尋候へとも是も不存由申候兎角了簡なき

次第候小川此由不存通神慮なとにても申候

する哉是も御存分ニ不叶候ハゝ一定御上意ニ

そむき申へし候哉彼是小河之身上うかれ候て

そういうことがあって、その時無礼を働いた人々が甑を出奔して天満宮の国分(筑前守定友)殿を頼って居着いています。その人々へも尋ねましたが、(我らの)予想とは裏腹に存じないとのことを申しました。またその際、小浦(南さつま市笠沙町片浦)、片浦(南さつま市笠沙町片浦)、市来港(いちき串木野市湊町)の商人等数多く居ました。この人達の中にもしかしたら存じているかもと尋ねましたが、彼らも存じないとのことを申しました。兎にも角にも手詰まりな状態です。(甑島地頭の)小川はこの件を判断できないので神慮などでも試そうかと、これも(小川の)御本意に叶わなかったので、きっと(義久様の)御上意に背いているのでしょうか(だからこのような結果になっているのだろうか)。あれこれと小川の身の上が動揺して


96/1243コマ

罷居候通塩田民部少輔と申使にて被申候通申上候

上意にハ過去候荷物朩之儀於爰尋いたさ

ぬ通被申候ハ尤にて候従此方㝡前被申条若ハ

よハ/\敷歟候つらん兎角日本迄之覚ニ

あらす候和漢共ニ於御家景(量)中海賊之儀隠

有間敷候小川之分別とハ近国まても聞得

候ハしかと被思召候一途向後之覚ニ成候する様ニ

御老中御談合肝要之由候

おります」という話を塩田民部少輔と申す使いによって申された内容を(義久様に)申し上げた。(義久様の)上意は、「過去の荷物等の件をここで尋ねない方針だったのを申されたのは道理である。こちら(鹿児島)から以前申されたので、もしかしたら弱腰になっているのだろうか。とにかく(この件の対応は)日本だけの評判ではない。日明共に(島津)御家中で海賊の件(島津家が海賊と関係を持っているの)は隠れない(周知の)ことだ。(だから)小川の判断というのは(島津家の評判としても)近国までも聞こえるということは(義久様、私は)しっかりとお思いになっている。専心して今後の(良い対応で)評判になるように御老中の御談合が肝要だ」とのことだった。


一、十四日如常出仕申候出仕は無    上覧候

十四日、いつものように出仕した。(しかし義久様による)出仕の上覧はなかった。


一、十五日如常出仕申候山田萬福寺懸御目候

三百疋進上候同此日鷹巣方山田行司職之

御祝被申候百疋瓶子目籠雑掌にて候

此日伊地知殿より南林寺道場ニ而御老中

迄被申候白濱周刕拙者承候而次候时申上

候へと候まゝ承候意趣ハ當时下之城被下候忝候

然共遠慮候へハ肝付境ニて候間伊地知為に

十五日、いつものように出仕した。山田の万福寺(住持)を(義久様の)御目に懸け、(万福寺住持は)三百疋を進上した。同じくこの日(十五日)、鷹巣(出水郡長島町鷹巣?)方が山田行司職(町行司?)の御祝いを申された。(進上品は銅銭)百疋、瓶子(ヘイジ、酒器)、目籠(目の粗い竹籠)、雑掌(食料品などの贈物)であった。この日(十五日)、伊地知(周防守重興)殿から南林寺(鹿児島市松原町)の道場で御老中宛へ申された。白浜周州(重政)、拙者が承って、次(に出仕が)ある時に申し上げてくださいということで承った。用件は、「現在下之城(垂水市浜平)を下されていて、かたじけないことです。しかしながら熟慮しますと、(下之城は)肝付との境でありますので、伊地知の為に


97/1243コマ

成間敷候と存事候何方へも御くりかへ被成

候へかしと被申候同は本領之事候間伊地知父子共ニ

此方へ罷移下之城を懸持ニ遣度由被申候

ならないと思っています。(なので)何処へでも御所属替えなされていただけないでしょうか」と申された。同時に(下之城は伊地知の)本領の事ですので、(我ら)伊地知父子(重興、重昌)はこちら(鹿児島)へ移り、下之城を掛け持ちにしたい」とのことを申された。


一、十六日如常出仕申候出仕ハ無上覧候本田信濃守御老中迄被申當时門二被下候一ハ言語道断

散〻之門にて候従此前度〻御侘申上候頃同名

紀伊介山田地頭にて被罷移候間彼方へ被召

移候而門一御替候而被下度由候自然信濃守ハ

十六日、いつものように出仕した。出仕は(義久様による)上覧無かった。本田信濃守が御老中宛へ申された。「現在門(かど)二つを下されています。一つは言語道断、散々の門です。以前から度々御陳情を申し上げています。近頃同名(本田)紀伊介(薫親)が山田地頭として移られたので、あちら(山田)へ転属されて、一つ御替えして下されたい」とのことだった。「そうなれば、信濃守(わたし)は



此方へ罷居候へと上意候ハゝ無足にて可罷

居候子にて候民部左衛門尉病者ニ而此方へ御奉公

難成候是を被召移候て可給之由御侘被

申候即御老中へ申入候次第披露申せと候

こちら(鹿児島)へ居れと(義久様の)上意があれば、無足(知行地なし)で居住するつもりです。(私、信濃守の)子である民部左衛門尉は病人で、こちら(鹿児島)へ御奉公は難しいです。彼を転属して(門を)給わりたい」とのことを御陳情申された。すぐに御老中へ申し入れた。(御老中からは)経緯を(義久様に)披露せよという。

(二巻終わり)


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(三巻始め)

天正二年甲戌壬霜月十七日午之日

一、如常出仕申候山寺御参候伊地知勘解由殿

惮入事候之間我朩頼候侭取成懸御目候

いつものように出仕した。山寺が御参りになった。伊地知勘解由殿は案件があったので、我などを頼んだため取り成して(義久様の)御目に懸けた。


一、此日昨日本田信濃守殿被申候条〻申上候    上意候

信濃之事馬乗候其外御用有仁にて候當

方へ召置候ハてハにて候子ニ而候者病者ニ而候間移

之事申候歟能様ニ寄合中談合被申候へと候

殊更門一御替被下候へと被申候是又此方

この日(十七日)、昨日本田信濃守殿が申された案件を(義久様に)申し上げた。上意があり、「信濃については、乗馬の名人であり、その他にも御役に立つ人である。当方(鹿児島)へ配属しなければならない。子である者が病人であるから転属の件を申しているのか。(それについては)良い様に寄合中が談合されよ」という。「とりわけ門一つ御替えして下されてほしいと申されているの(件について)は、これまたこちら(鹿児島)


102/1243コマ

寄〻ニめしかへ候叓歟又は何方ニ茂めしかへ

候する事歟能様ニ談合被申候へと    御意候也

近辺に所属替えするのか、あるいは何処へでも所属替えするのか。良い様に談合されよ」と御意があった。


一、此晩於御犬之馬場御稽古始ニ而候従其御

對面所にて御三献参候御座ニハ主居御次ニ

新納近江守殿其次㐂入摂津介殿客居上

川上上埜守殿其次同名武蔵守殿にて候

武刕御盃いたゝき候时御老中召出候次ニ

太刀御給候青銅二百疋の折帋にて候ツ御三通目ニ

この(十七日)晩、御犬之馬場(犬追物を行う馬場)で御稽古始めであった。それから御対面所で御三献に参加した。御座には主居(に義久様)、御次に新納近江守(武久)殿、その次喜入摂津介(季久)殿、客居は上手川上上野守(久隅)殿、その次同名(川上)武蔵守(経久)殿であった。武州が御盃を頂いている時、御老中が御出でになった。次に太刀を御給わりした。銅銭二百疋(相当)の折紙(書状に使われる紙)であった。御三通り目に


本田紀伊守其次拙者両人召出御酒被下候

本田紀伊守(薫親)、その次に拙者の二人が進み出て御酒を下された。


一、十八日如常出仕申候此日御犬追物御人数之由定候

間河上武刕へ案内申入候

十八日、いつものように出仕した。この日、御犬追物の御人員の次第を定めたので、川上武州(経久)へ取り次ぎを申し入れた。


一、此晩上使江月斎之宿へ為御使被遣候意趣ハ

此度上使として下向被成候殊ニ永〻滞在共

被成候連〻無音のミ候背本慮候頃上国

可有之由候先〻拙者以御礼候由候也乍軽

微白糸三斤被遣候次ニハ寄合中よりと候て

この(十八日)晩、上使(足利義昭の使い)の江月斎の宿(鹿児島の頴娃久虎仮屋)へ御使いとして遣わされた。用件は「(わたし、江月斎は)今回上使として下向なされ、殊更長々滞在なされている(している)。(しかし将軍義昭から)ずっと音沙汰(指示や伝言)がないばかりだ。(無為に滞在するのは)本意ではない。(そのため)近頃上洛するつもり」とのことだった。(そして)「まずは拙者でもって(島津家から)御礼があります」というものだった。少ないながら白糸三斤(約1800g)が遣わされ、次に寄合中からといって


103/1243コマ

中途之用意ニ銀子百目拙者為持渡申候

祝着之由返叓候也同あい志らい申せと候侭

申候爰許三ケ国之儀當家之分國之事無

隠候然處一家中なとへも直    御内書

をなされ又ハ御請を申さるゝ方餘多候歟是又

かやうに有間敷叓候此朩之趣為御意得申候

由申候也返叓ニ右之趣無隠儀候涯分披露

可有之由候也

(帰洛)道中の用意に銀子百目(約375g)を拙者が持参して渡した。(江月斎からは)祝着との返事だった。同時に、よろしく申せというので申し伝えた。(拙者からは)「こちら(南九州)三ヶ国(薩摩、大隅、日向)については当家の分国である事は隠れない(明らかな)ことです。そうであるのに、一家中(島津一門)などへも直に御内書を発給され、あるいは(私的に義昭へ)御返答を申される(一家中の)者が多くいるのでしょうか。これもまたこのようなことはあってはならないことです」。これらの旨を御意として得た内容を(江月斎へ)申し伝えた。(江月斎の)返事は「ここに提示された(鹿児島の)主張は隠れない(明らかな)ことです。(主張が認められるように)力の及ぶ限り(義昭へ)報告しよう」とのことだった。


一、十九日如常出仕申候従豊刕御使進上候御同

名備前守殿貴嶋入道両使ニ而候意趣は

先日日置越後守以御申被成候市成之事

當时典厩さま御挌護候頃御あけ候する様ニ

聞得候左候ハゝ従此前御約束之所ニ候肝付境

にて候間御若輩御望候は如何ニ候へ共今程ハ

無事共候間是非御侘之由候次ニハ大隅東鄕

を朝久御挌護候是を御あけ候ハゝ市成之

十九日、いつものように出仕した。豊州(島津朝久)から御使いと進上があり、(使者は)同名(島津)備前守(忠清)殿、貴島入道の二人であった。用件は、「先日、日置越後守でもって御申しをなされました(申し出をしました)市成については、現在典厩(島津右馬頭以久)様が御領有しています。(しかし)近頃御退去するという様に聞きました。それでしたら、以前からの御約束の所である(市成は)肝付との境でありますので、御若輩(の豊州)が御望みするのはどうかとは思いますが、今の時期は平穏無事ですので、是非御願いする」とのことだった。次に(使者が続けて)、「大隅の東郷を朝久が御領有しています。これを御明け渡しすれば市成の


104/1243コマ

叓成候する様ニ先剋日置越後守へ承候歟

是又由來有在所候間御侘ニ候去夏の比御

給候都名十町之事是ハ無違(辵+麦)儀御あけ有

へき由候此旨御老中へ申入候御談合被成返叓

可有之由候間使者ハ小宿へ返申候同従北鄕殿

使者一人相添候其意趣は愚拙承候趣ハ朝久

市成之叓御侘被成候御老中迄一雲言をくハへ

申せと承候種〻斟酌雖申候度〻承候間難黙止

件を承認される様に、先日日置越後守へ承ったでしょうか。これはまた由来(所縁)ある在所ですので御願いします。去る夏の頃に御給わりした都名(薩摩川内市都町)の十町については、これは問題なく明け渡す」とのことだった。この旨を御老中へ申し入れた。御談合なされて返事があるだろうとのことで使者は小宿へ返した。同じく北郷(一雲時久。庄内都城主)殿から使者一人が一緒に来た。その用件は愚拙が聞き取った。内容は、「朝久が市成について御陳情なされており、御老中宛に一雲が申し添えよ(一雲からも口添えしてほしいと)承っています。色々斟酌していますが、度々承っているので黙っていられない(無碍にできない)


候て穝所方相添被成候能様ニ御頼之由候即達

上聞候豊刕迄御返叓同事たるへき

由被仰出候也同使者御老中及被申候去夏

之比都名之事朝久へ御遣可有之由候之間御あけ候

其打替として小村向之嶋嶽名御拝領候

雖然小村之叓爰迄清水へ公役を申御心元

なき由候也又嶽名御拝領とハ承候へ共いまた知

行なく候至爰ニ御後晦候哉如何候彼是然与

ので、(奏者の)税所(篤和)方が申し添えなされています(税所方にも申し添えてもらっています)。良い様に御頼したい」とのことだった。すぐに(義久様の)お耳に入れた。豊州宛の御返事と同じ内容にせよ(御老中が御談合して御返事する)とのことを仰せ出られた。同じく使者は御老中まで直接申された。「去る夏の頃、都名については朝久へ御遣わしされるとのことだったので(北郷家は)御明け渡ししました。その替地として小村(霧島市国分広瀬)、向之嶋嶽名(桜島武町)を御拝領しました。しかしながら小村についてはこれまで(北郷ではなく)清水(島津以久)へ公役をしており、気がかりです」とのことだった。「また、嶽名を御拝領とは承っていますが、いまだに知行されていないのです。ここに至って御後悔しなければならないのでしょうか。如何ですか。何かしらしっかりと


105/1243コマ

返叓ニ可承候由候也

返事に承わるつもり」とのことだった。


一、此日従伊地知殿南林寺道場にて御申候白濱殿

拙者意趣承候趣は伊地知之事数御敵申候

然處ニ被召出候忝候殊下大隅番(悉)皆進上候

由申候處?下城之事被下候生〻世〻忝被存候

乍去遠慮申候ヘハ肝付境目と申無納心之

忰者共餘多挌護候必竟為ニ罷成間敷候間

何方へも御くりかへなされ候て可給候自然御くり

かへ不事成候ハゝ伊地知父子此方へ罷移候て下城

之事高ミをたゝミ候て麓(林+𢈘)斗人数を召置

かけもちニ申度由候也勿論御くりかへ事成候ハゝ

目出由候左候ハゝかいかた六町の事此前伊地知

別所へ罷居候时もかけもち申候此度も是をハ

由來有処ニて候間被下度由候也即達

上聞今一度も御辞退候する哉又ハ其迄も

入ましく候哉能様ニ御寄合中談合候由    御意候也

この日(十九日)、伊地知(周防守重興)殿から南林寺の道場で御申しがあった。白浜(周防介重政)殿、拙者が用件を聞き取った。内容は、「伊地知(我々)については、(島津家に対して)数々敵対してきました。そうであったのに召し出され、かたじけないことです。特に下大隅を全て進上する旨を申したところ、下之城については下されています。いつまでもかたじけなく存ぜられます(存じます)。しかしながら遠慮(深慮)すれば肝付との境目といい(境目であり)、(また伊地知領減少に伴い召し放たれたことを)承服しないかせ者達が数多く居住しています。必ず為にならない事になる(問題になる)ので、何処へでも御領地替えなされて(替地を)給わりたいのです。当然御領地替えが叶わないならば、伊地知父子(我々)はこちら(鹿児島)へ移って、下之城については引き払って、麓だけに人員を召し置き掛け持ちにしたい」とのことで、「もちろん御領地替えが叶えばめでたい」とのことだった。「そうなれば、海潟(垂水市海潟)の六町について、以前伊地知氏が別の所へ居た時も掛け持ちしていました。今回もここを由来あるところですので下されたい」とのことだった。すぐに(義久様の)お耳に入れた。「もう一度御却下しようか、あるいはそこまではしなくてよいか、良い様に御寄合中で御談合(せよ)」との御意だった。


106/1243コマ

一、本田紀伊守被申候山田へ召移候する由候一莭

御意法第与申上候彼方国境之事候間

誰人にても候へ談合可申御年比之人数一両人召

移候て可給之由被申此旨申上候能様ニ御談合

候へと候也次ニ本田信濃守被申候先日山田へ移

之叓申上候忝    上意おそろしく候然者

信濃之事當所へ被召置候する由候御意法第ニ候

子ニて候者ハ病者にて候間山田へ召移候て可被下候

由候即申上候是も談合次第之由候此門

一山田へ替候ハゝ谷山和田之門之事本田出羽へ

被下候而可然歟与    上意候也此由即御老中へ申候

本田紀伊守(薫親)が申された。「(わたし、紀伊守を)山田へ異動するとのことで、先の折りに(義久様の)御意に従うと申し上げました。あちら(山田。川内平野)は国境の事ですので、誰でもどうぞ(相談役として)談合できる御年輩の人員を一人二人異動して給わりたい」とのことを申され、この旨を(義久様に)申し上げた。「良い様に御談合せよ」という。次には本田信濃守が申された。「先日山田への異動について申し上げました。かたじけない上意で恐れ多いことです。そうであれば信濃(わたし)については当所(鹿児島)へ異動される(異動する)とのことで、御意に従います。(私の)子である者は病人ですので山田へ異動して(異動させて)下されたい」とのことで、すぐに(義久様に)申し上げた。これも談合次第とのことだった。(さらに義久様が言うには)「この門(かど)を一つ山田へ替えれば、谷山の和田(鹿児島市和田)の門については、本田出羽(親綱)へ下されて良いだろうか」との上意だった。この話をすぐに御老中へ申した。


一、廿日如常出仕申候祢らひ物に御出候間出仕衆

無上覧候此日豊刕へ之御返叓伊地知勘もし

拙者して申候市成之事御侘被成候尤御

相談可有候へ共暫は典厩御挌護候へと被仰候

間委細ニ不及候都名之事寄〻へ御くりかへの

二十日、いつものように出仕した。(義久様は)狙い物(狩り?)に御出でだったので出仕衆の上覧はなかった。この日(二十日)、豊州(島津朝久)への御返事を伊地知勘文字(重秀)、拙者で申した。「(豊州は)市成については御陳情なされ、いかにも御相談があるべきですが、(御老中が)しばらくは典厩(島津以久)が御領有くださいと仰せられたので、詳細には及びません。都名については近辺へ御領地替えとの


107/1243コマ

由候是又所領くりかハり之时分談合可有之由

候而両使をかへし申候

ことで、これまた所領繰り替わりの際に談合します」とのことで、両使いを帰した。


一、北鄕殿へも同前ニ返叓候次ニハ小村嶽名之事

委承候清水へ申渡候間彼返叓法第急度

庄内へ是非を可申通候次ニ都名御あけなされ候

砌福昌寺へ所領一町談合なさるゝ子細候

是朩之趣本田因幡守へ委申候如何之由

被申候彼返叓ニハ先〻老名敷中聞置候由候也

北郷殿へも同様に返事した。「次に(対応すべき案件)は、(北郷氏の)小村、嶽名について詳しく聞き取り、清水(島津右馬頭以久)へ申し渡すので、かの返事に従い急ぎ庄内(北郷氏)へ是非を申すべき旨がある。次には、(豊州が)都名を御明け渡しなされる際、福昌寺へ所領一町(について)談合なされる事案がある」。これらの内容を本田因幡守へ詳しく申した。(因幡守は)「どうしたものか」とのことを申され、「かの返事には、まずは重臣たちが聞き届けている」とのことだった。


此晩本田信濃守侘之事御老中へ申入候さてハ

子息之事ハ山田へ移候て可然之由定候也信刕

此方へ無足にて奉公大儀ニ候する程ニ山田へ

少之加扶持被成候ハんハと拙者頻ニ申候可然様ニ

各被仰候也

この(二十日)晩、本田信濃守の陳情について御老中へ申し入れた。「それでは(信濃守の)子息については山田へ異動して良いだろう」とのことを定めた。「信州(本田信濃守)がこちら(鹿児島)に無足での奉公は大儀であるから、山田に少しの加扶持をなされなければ」と拙者は申した。それが良いだろうと(御老中は)おのおの仰せられた。