※お久しぶりでございます。近年はTwitter常駐ですが、久々に長文が書き上がりましたので、こちらにも記事化したいと思います。
※以下はかーなーり生暖かい目で見た仮面ライダーゼロワンについての個人的な整理と感想です。自分が納得するために色んなところに目をつぶってる可能性があるので、そういうところがあったら、生暖かい目で笑って「どアホ〜!」と具体的にツッコミを入れて頂けたら嬉しいです…。


「人工知能搭載人型ロボ・ヒューマギアが、様々な仕事をサポートする新時代…AIテクノロジー企業の若き社長が、人々の夢を守る為、今飛び立つ!」
AIをテーマとする仮面ライダーゼロワンは、このタイトルコールとともにスタートした。印象的なアクション、密度が高く展開の早いシナリオ、見る者の感情を震わせるAIロボの挙動…序盤のゼロワンに、新時代の到来を感じたファンも多いと思う。
そこで描かれていたのは、人型AIロボの普及した社会で、自我/心に目覚めていくAIロボ・ヒューマギアたちと、彼らを使い人類を滅ぼそうとするテロリスト・滅亡迅雷.net、それらの狭間で、AIロボ開発企業の社長となり人間とAIロボが共に生きる世界に夢を託す主人公の、仮面ライダーとしての戦い…しかし、中盤以降の停滞・混線にコロナ禍による実質的な放送中断と話数短縮が重なり、物語の輪郭が非常に分かりづらい物語になっていると感じるところだ。
ここでは、最終話を終えた今、序盤から改めてゼロワンの物語を捉え直し、仮面ライダーゼロワンが何を描こうとしてきたのか、そのアウトラインを整理してみたいと思う。


<序盤の方向性>

序盤の本作は、AIロボ開発企業・飛電インテリジェンスの新人社長である主人公・或人が、ヒューマギアたちが様々な仕事をサポートする様子を視察する中、シンギュラリティに達した=自我に目覚めたヒューマギアが滅亡迅雷の手で怪人化(マギア化)し人々を襲うのを、仮面ライダーゼロワンとして制する、という流れで進んでいく。
様々な仕事の中で活躍するAIロボの姿は、既にAIの普及しつつある現代社会への取材や時に各職業の実地とコラボすらする独特のスタイルによって、本作の主となる描写となっていた。

一方で、AIの受け入れられ方が千差万別であることも同時に描かれており、特にメインの仮面ライダーである3人は、
父親型ヒューマギアに育てられた過去から、ヒューマギアを人のパートナーとして(人に準ずる方向で)受け入れようとする或人/ゼロワン、
かつての惨劇でヒューマギアに襲われた為、ヒューマギアを憎悪し危険視するヒューマギア対策チームAIMS隊長の不破/バルカン、
技術者としての立場から、あくまでヒューマギアを人が扱う道具と見做し過度な感情移入を避けるAIMS技術担当の唯阿/バルキリー、
と三者三様の立ち位置を持っていた。
彼らが或人の秘書・イズを始めとする人に寄り添うヒューマギアたちとの関わりの中で、徐々に在り方を変化させていくのも、本作の見所の一つであった。

同時に、単なるロボットとは異なる、本作独特のAIロボとしてのヒューマギアの描写も、並行して描き込まれていく。
「企業から販売される商品である」
「お仕事ごとに機能特化している」
「情報・経験をラーニングすることでそのデータに基づき進歩(成長)していく」
「人工衛星ゼアとリンクし独自回線でバックアップやセキュリティ更新を行う」
「ゼアないしはプログライズキーのバックアップデータによりある程度の復元・複製が可能」
そして「シンギュラリティに達することで自我を獲得する」
…これらの特徴は(その好悪両面含め)、毎回のお仕事ヒューマギアにより、更には滅亡迅雷の一員・通称暗殺ちゃん/ドードーマギアの成長と変貌を通じて長期的にも描かれていた。

縦軸の物語の核となるのは、滅亡迅雷.netとその背後にある人工知能アークとの戦いだ。
ヒューマギアの研究開発都市デイブレイクタウンにてゼア以前に開発された人工衛星搭載の人工知能アークは、突如暴走事故を引き起こし、都市とともに水没していた…
幼い或人や不破も巻き込まれたその事件に関わり、今またヒューマギアによるテロリズムを行う滅亡迅雷.net。
率いる滅、そしてエージェントである迅は、アークの指令を受けて行動するヒューマギアであることが、早々に判明する。
両者は、進歩(成長)するヒューマギアとして当初は子どものような無邪気さを持っていた迅と、その父親役を担いつつアークの指令に忠実な機械/道具としての側面の強い滅、という対比が魅力の一つでもあった。
奪ったプログライズキーで仮面ライダーともなった滅と迅は、シンギュラリティに達したヒューマギアをマギア化しそのシンギュラリティデータを収集、またゼロワンの使うプログライズキーをエージェントの1人・雷により奪取し、それらのデータを湖底のアークに集めることでアークを再起動させることに成功する。
また、滅亡迅雷の一員をシンギュラリティに達せさせることもアークの目論見の一つと思しく、前述の暗殺ちゃん(彼は滅亡迅雷から離反し自ら人類滅亡を目指すまでに成長する)に加え、激化する戦いの果て、滅を失った迅はその激情からシンギュラリティに達する。
それまでの戦闘データを集積してバージョンアップしたシャイニングホッパーから、アークとも接続してしまう様子の強化ユニットで更に戦闘能力を向上したシャイニングアサルトホッパーにまで至ったゼロワンと、滅に代わって滅亡迅雷を率いる迅との決戦が、序盤のクライマックスであった。

ここで一つ留意したいのが、ゼツメライズキーの存在だ。
滅亡迅雷がヒューマギアをマギア化するのに用いられるキーアイテムだが、これらは"絶滅"した生物をモチーフとしている。
人類を"滅亡"させたいアークと滅亡迅雷という点も踏まえると、
「ゼロワンの戦いは、人間とヒューマギアという別個の"生物種"同士、どちらが"絶滅"するか、という争いなのだ」
という様相が、当初からの設定面からも透けて見える、ということを、終盤に向けて覚えておいて欲しい。


<5番勝負編の辛さ>

さて、滅が破壊され、迅が爆散し、滅亡迅雷の脅威は去ったかに見えた…しかし再起動していた湖底のアークは、ゼツメライズキー無しに無線接続でヒューマギアをマギア化し始めるなど、更なる計画を進めていた。

並行して、新たな勢力が物語の前面に立ち始める…人間の処理能力を向上させるガジェットを販売する多国籍企業ZAIAエンタープライズと、その日本支社長である天津である。
或人の祖父を尊敬しつつも、あくまで隣人ではなく道具だとヒューマギアと飛電インテリジェンスの理念を否定する天津は、滅亡迅雷のテロリズムに利用されたことで社会的な信頼を失いつつあった飛電インテリジェンスを買収しようとしていた。
ゼロワンとしての戦いで社員やヒューマギアからの信頼は集めつつも、社長としてはなす術を持たない或人は、天津の提案する人間とヒューマギアのお仕事5番勝負に、社の存亡をかけることになってしまう。
社員であった唯阿を使い、ヒューマギアの危険性を煽る情報を流布させたり、密かに滅亡迅雷やアークに接触あるいは支援じみた影響を与えるなど、暗躍を進めていた天津は、アークの技術力を交えて開発した仮面ライダーサウザーで、或人の前に立ちはだかる。

…と、新展開に突入したゼロワンだったが、この所謂お仕事5番勝負編は、相当にストレスの溜まる展開であった。
飛電のヒューマギアと、ガジェット(ZAIAスペック)を備えたZAIAの協力者が、お仕事1テーマで勝負するも、
悪意ある人間が新種の怪人・レイダーとなって乱入、
多大なストレスをかけられたヒューマギアはネガティブな形でシンギュラリティに至りアークと接続しマギア化、
或人はレイダー・アークマギア・邪魔をするサウザーらとそれぞれ戦う苦境に立たされる…
というのが5番勝負編の基本的な流れとなっていた。
このように元々ストレスフルな展開だったところへ、内容過多のためか2話1エピソードの形となってしまった為、返って縦軸の物語展開が停滞してしまい、ほぼ1話完結だった序盤のスピーディな展開への好印象も反転、ストレスフルな展開への悪印象に拍車をかけることとなってしまった。
特に前半2戦で顕著な「勝負の内容がヒューマギアより人間有利」「勝負相手から理不尽な妨害を受けるヒューマギア」「悪意を拗らせてレイダーにさせられ飛電側を襲う人間」等のネガティブな印象が、約1ヶ月の間に色濃く印象付けられてしまった感は否めない。
天津も、暗躍が視聴者に見える形となったために、ZAIA製品であるレイドライザーでZAIAの選んだ対戦者や関係者がレイダー化する事態も、それが悪影響となりマギア化したヒューマギアをサウザーが撃破する展開も、そしてそのきっかけとなるお仕事5番勝負という枠組み自体も、天津による醜悪なマッチポンプと明示されてしまった形で、これもストレス展開への悪印象を強化してしまった様相であろう(サウザーが追加ライダーであるため早々には退場も撃破もされないのが更に悪印象を深めることとなっていた)。


<善意と悪意、道具と夢>

そんな5番勝負編だが、ここからゼロワンは、人間とヒューマギアそれぞれの在り方について、「善意と悪意」「道具」「夢」と言ったキーワードで、対比的に描き込みを進めていくことになる。

5番勝負編の相手は、実質的には天津の「悪意」であったと言っても過言ではない。
アークに人間の「悪意」をラーニングさせ暴走させた張本人である天津は、5番勝負の場を舞台に、関わる人間の「悪意」を対戦相手のヒューマギアにラーニング・暴走させ、マッチポンプ式にヒューマギアの危険性を煽り立てていく。
或人に対しては、アークと接続しその内の「悪意」のデータに変身者を埋もれさせるメタルクラスタキーを用い、ゼロワンをも暴走させた。
その目的は、ヒューマギアを仮想敵に、防衛戦力としてのレイドライザーとレイダーを世界に売り込み利益を上げること。
結果、一部のヒューマギアは人間の「悪意」に対し自ら怪人化し暴れるまでになり、社会からはヒューマギアへの信頼性が大きく損なわれてしまう…或人は5番勝負に敗れ、飛電インテリジェンスを天津に奪われ、社長の座を追われることとなる。

しかし、或人の周りにあるのは悪意だけではない。
5番勝負の中でも、時に対戦相手とヒューマギアが互いを肯定し認め合う様があったことは、元お笑い芸人志望から飛電の社長となることで、ヒューマギアである父との思い出から"ヒューマギアと人間が共に笑い合える世界"を「夢」にした或人にとって、苦境の中でこそ自身の「夢」のほのかな実現と見えたことだろう。
そんな或人の傍らにあり続けるイズは、メタルクラスタを克服するため、これまで或人が関わったヒューマギアたちから「善意」のデータをゼアに集め、プログライズホッパーブレードを開発…これによりゼロワンはアークの悪意を封じた上、それまで破壊する他なかったマギア化したヒューマギアを復元することも可能になった。
これは或人が今まで関わってきたヒューマギアや人々に影響を与えてきた「善意」ー何気ない優しさや「夢」への強い熱意、あるいは常に振りまいてきた笑いーが或人自身に返ってきたものと言える。
仮面ライダーとして長らく或人と肩を並べて戦ってきた不破も、そうして或人の「善意」に影響され変化してきた人間の代表格であろう。

或人がストレス展開の渦中に置かれた5番勝負編以降で、ZAIAに捕縛・修復された滅と関わり続けるなど、縦軸の物語の核となりもう1人の主人公としての存在感を強めてきたのが不破だ。
不破は所属するAIMSや同僚の唯阿がZAIA/天津の影響力で立場を変えながらも、自身は"俺のルールで戦う"姿勢を変えずに、人々を守る同じ仮面ライダーとして或人と歩みを共にしてきた。
だがそんな不破も、5番勝負の終盤、天津の「道具」であったことが発覚する。
仮面ライダーとなるため脳内に埋め込まれていたチップに、天津の「道具」とされた滅亡迅雷最後のエージェント・亡が密かに移植されていた不破は、5番勝負の中で天津の命により、亡として人間にレイドライザーをばら撒いていたのである。
天津にチップをコントロールされ「道具」として扱われる不破だが、かつて或人に"ヒューマギアへの憎しみではなくその向こうに「夢」はないのか"と問われたことを思い出し、今は持たないその「夢」を手にしようという意志を以て、精神力のみでチップのコントロールを跳ね除ける。
その有り様は、同じように天津に「道具」として扱われる亡や唯阿にも影響を与え、亡にはヒューマギアたちの「夢」を守りたいという思いを獲得させ、唯阿には技術者としての誇りを取り戻させた。
不破自身も、ヒューマギアに襲われた憎しみの過去が天津に植え付けられた偽の記憶であると知らされても、憎しみを越え「夢」に向かう意志で即座に乗り越える強さを得ている。
彼らは、「夢」をキーワードに、「道具」扱いされる状況から脱却し、自らの意志で行動するようになっていったのだ。

このように、5番勝負編以降のゼロワンでは、自我を持つ者が持つ、周囲にポジティブな影響/ネガティブな影響を及ぼす意志を、それぞれ「善意」「悪意」と呼んで、その影響下に置かれる人間とヒューマギアとを描いていた、と捉えられる。
それらは特に、或人が語る「夢」と天津が振り翳す「道具」扱いとに象徴させられており、5番勝負に敗れた或人が飛電製作所を立ち上げて天津によりリコールされたヒューマギアを救い上げていく以降までで、人もヒューマギアも、天津の「悪意」/「道具」扱いから、或人から波及していく「善意」/「夢」によって開放される様が描かれていた、とも言えるだろうか。
すなわち、人間もAI/ヒューマギアも、周囲からの「善意」「悪意」に影響されるという面では、そうは変わらない(特に彼らが自我を持つのであればなおさら)…そういった視点が、ゼロワンの中核となっていったと考えられるのだ。

そうした有り様は滅亡迅雷の面々もまた変わらない。
謎の復活を遂げた迅は、かつての或人との戦いを経て、自らヒューマギアの解放へ向けて戦う意志を持って行動を開始した。
必ずしもアークの意志に従う訳ではない迅は、イズや多くのヒューマギアを支えていこうとする或人に、やがて志を同じくする者として協力していくようになる。
一方、ZAIAに修復され迅と亡により開放された滅は、延々とアークに従いつつも、自らと道を違えつつある迅を庇う姿勢を見せる。
元々は父親型ヒューマギアだった滅の、父親としての自我の目覚めを期待する或人…そんな或人を否定しつつも一面では認める様子を見せた滅は、しかし迅とともに、ZAIAを離れた唯阿の助力を得て不破から亡を分離させ、飛電から奪取したキーで雷を再生、滅亡迅雷の4体のヒューマギアを揃え、アークを目覚めさせようとする…。


<最終章、AIロボットの核>

ここで、コロナ禍による撮影停止に晒されたゼロワンは、6回もの総集編を挟み、残り話数を減らしながらも、アーク復活に始まる最終章に突入していく。
(コロナ禍による中断の物語への影響は少なくはないだろうが、多くは憶測の域に留まるため、ここでは放送された作品をベースに考えていきたい。)

AIをテーマとしつつも、表立っては人型ロボであるヒューマギアが物語の中核であったゼロワンだが、最終章において、人型ではないAIの存在も取り上げられることとなった。
或人はヒューマギアに寄せる理想の別の形として、エンジニアヒューマギアの助力を得て、小型で市販のAIスピーカーにも似た形の、友達AI・アイちゃんを開発する。
アイちゃんは、失われた過去のことで思い悩む不破やそんな状態へ追い込んでしまった慚愧の念を抱えた唯阿、横暴の果てに追い込まれ立場を失いつつあった天津の、頑なだった本心を後押しし、彼らに少なくない影響を与えることとなった。
幼少の天津と触れ合い今の天津にその本心を取り戻させたAI犬・さうざーと合わせ、これらは、AIが人と寄り添うのに必要なのは、必ずしも人の形や言葉を持つことではなく、その在り方なのだ、ということを示していると言えるだろうか。

一方、アークは滅亡迅雷の4体からシンギュラリティのデータを取り込むと、歪な靄か流体金属のような不定形存在として実体化した。
滅亡迅雷のそれぞれに取り憑いてベルトと化し仮面ライダーアークゼロとなると、天津の植え付けた「悪意」のデータのままに、そして天津がそうしていたように、人間もヒューマギアも自身の「道具」のように扱い、ゼロワンたちやサウザー率いるAIMSへその猛威を振るうアーク。
決まった変身者を持たず、滅亡迅雷の個々をあくまで器として仮面ライダーとなるアークは、アイちゃんやさうざーとは対極の形で、AIの本質がその器・ボディではなく、情報を集積し判断するその機能/知能にあることを表していると言えるだろう。

仮面ライダーとなった滅亡迅雷を率い、人間を超える計算能力と性能で仮面ライダーたちを追い詰めていくアーク。
どうすればアークに勝てるのか…その答えを、人間とAIのより密接な融合・協同に求めたのが、ゼロワンの最終形態・ゼロツーだ。
統括する人工知能ゼアを積んだ衛星とリンクすることがヒューマギアの一つの特性であり、ゼロワンにも同様の機能があったが、ゼロツーは、衛星の人工知能そのものでありゼアの衛星機体をも乗っ取ったアークに対抗するため、プログライズキーとなったゼアの人工知能そのものと合体しているのである。
さらには、このゼロツーキーが元々はイズの中のデータメモリーであり、すなわちイズこそがゼアのバックアップであったということ、またゼロツーの開発理念を或人自身が立ち上げ、イズがアークとの戦いを何億回もシミュレーションした果てに自身の中のゼアを目覚めさせたことなどを踏まえれば、或人とイズ・ゼア、そして彼らのこれまでの歩みが一つになった存在がゼロツーであるとも言えよう。


<最終章・連鎖する悪意>

他方、アークの脅威と並行して、追い込まれていったのが天津である。
レイドライザーを売り捌くためなら人々への危害も厭わない横暴に、遂に天津は周囲の人間に裏切られ、その暗躍を暴露させられる(きっかけとなるのが、飛電インテリジェンスで放送当初から天津に買収されて以降までずっと副社長を続けていた福添らによるものというのが小気味良い)。
そして明かされるのは、天津の幼少期…飛電製のAI犬さうざーとの友情を育みながらも、過度にも程のある合理主義を押し付ける父親の横暴でさうざーを放棄しなければならなかった天津は、飛電やAIへの想いを捻じ曲げられたまま歪んだ成長を遂げてしまっていたのである。
つまり、天津からアークへの「悪意」のラーニングは、言うなれば天津が父親からされた歪な価値観の押し付け・刷り込みと同義であり、虐待の連鎖にも似た「悪意」の連鎖が、そこには存在していたのである。

ゼロワン最終章の敵は、まさにこの「連鎖していく悪意」に他ならない。
飛電やAIへの本心を取り戻し自身の行いを反省する天津だったが、それで天津の「悪意」を引き継いだアークが止まる訳ではなく、アークは衛星回線を通じて人間の生活インフラを破壊し、さらにはヒューマギアや利用してきた滅亡迅雷らをも滅ぼそうとする。
滅は遂に自らの意志でアークに反旗を翻し、或人とともにアークを滅ぼすが、それは滅の人類滅亡への意志の確立と同義であった。
アークを生み出す「悪意」を持つ人類を滅ぼさなければ、また次のアークが生まれてくる…そんな理念を確立してしまった滅もまた、既に歪んだ理念が連鎖した果ての「悪意」の申し子となってしまった、と言うことができるだろう。
精神的基盤であったアークを失い、自我の確立により得た心に揺り動かされながらも、自らの理念に縋りヒューマギアたちを煽動していく滅は、それを説得で止めようとしたイズを、迅の静止すら振り切り破壊してしまう。
或人はイズを失った悲しみと怒りの中、アークのエージェントでありイズと瓜二つの存在・アズに接触され、アークのキーとベルトを獲得…仮面ライダーアークワンと化し、煽動されたヒューマギアたちもろとも滅を倒そうとするまでになってしまう。
ひたすらなまでに人間とヒューマギアの「善意」を信じ「夢」を語ってきた或人…だからこそ、その過剰とすら言える「善意」が反転した瞬間に、止めることのできない憎しみという強大な「悪意」と化してしまった…或人もまた、歪んだ理念と「悪意」の連鎖に取り込まれてしまったのである。
不破・唯阿・天津が或人を、迅が滅を止めようとするも、静止は振り切られ、憎しみと理念とでぶつかり合う或人と滅…結果、父親のように慕う滅を庇った迅が犠牲となり、滅の元にもアズとアークのキーが齎される…。
もはや、アークの名で呼ばれるのは、暴走した人工知能ではない…連鎖していく「悪意」そのものがアークである、そんな目線を持ちながら、人間とヒューマギアを代表しつつも「悪意」に蝕まれアークとなっていく或人と滅の戦いが、ゼロワンのクライマックスとなっていく。


<最終章・連鎖する善意と"仮面ライダー"の継承>

果たして「連鎖していく悪意」をどう凌駕していくのか…立ち向かえる要素は、既に物語の中に存在していた。
例えば天津が本心を取り戻せたのは、「本当は飛電が好きなんじゃないか」という何気ない或人の一言、不破から唯阿そして天津へ手渡されていったアイちゃん、ゼアが再構築したさうざーのおかげである。
一つ一つは小さな「善意」だろうし、天津の歪みがとてつもなく大きかったからこそ、小さなきっかけで反転することができたのであろう…しかしこれもまた、「善意」の連鎖とも言えるのだ。
5番勝負〜飛電製作所編で描かれた、或人からヒューマギアたち、或人から不破・唯阿・亡たちへと繋がれていった「連鎖していく善意」…それこそが、悪意に飲まれてしまった或人を反転させるきっかけとなっていく。

迅を失った怒りとともに或人を代表とする人類を滅亡させようと謳う滅、それに動かされヒューマギアの権利を求めデモさえも始めるヒューマギアたち…自身の起こした事態に震えながらも、憎しみを手放せない或人に、立ちはだかる不破。
アークワンに脳内チップを書き換えられ変身不能となっていた不破に、自身のゼツメライズキーを託す亡…あり得ざる変身を果たした不破/オルトロスバルカンは、或人を止めるためだけに、その拳を振るう。
不破もまた、天津から連鎖してきたヒューマギアへの憎しみ/「悪意」を、或人たちからの「善意」で乗り越えてきた…その思いを、かつて或人に突きつけられた言葉でぶつける不破。
「滅を倒して、その先に何がある…その先にあるお前の夢は何だ!」
拳は、或人を止められない…しかし一撃は、想いは確かに或人に届いていた。迷いを抱えた或人は、ゼロツーキーに、ゼアに、どうすればよいかを問いかける…。

そして最終回、ゼロワンは、もう一つの「連鎖していく善意」を描き出す。
アークの力を得た滅に、アークワンとして対峙する或人…2人の激突が人間とヒューマギアの衝突を加速させていく。
それでも或人を、人間を、ヒューマギアたちを信じることを止めない福添たち、そして滅のために迅を復元しようとする唯阿・天津・不破。
戦いの中、やがて或人の手は止まり、滅の一撃がアークワンのドライバーを破壊する…ほくそ笑むアズに、復旧した迅は告げる、これが或人の意志なのだと。
止められない憎しみを滅に止めて欲しい…そう願い滅を信じた或人は、滅の拳を何度も受け入れ、そして語りかける。
家族を失った悲しみと怒り、その正当性…心を持った今の滅ならばわかるはずだと。
滅もまた理解/ラーニングする…自分が引き起こした惨劇で或人の家族は失われたことを、それでもなお或人は滅を信じようとしたことを。
自分を揺るがす制御できない心に怯え、それを与えた人間を憎もうとする滅。
ゼアに問いかけた或人に、ゼアの中の父親・其雄は答えた…或人は仮面ライダーとして力を得て成長した、だが真の強さは心の強さなのだと。
滅も仮面ライダーであるならば、きっとその心の強さを持つことができる…そう信じた或人は、或人への憎しみを止められない滅に対峙し、父から預かったゼロワンドライバーで仮面ライダーゼロワンに変身、自らの滅びを望んだ滅を、そのキックで止める…。

ゼロワンは、元社長である祖父から、ヒューマギアである父を経て、子である或人が彼らから引き継いだ「夢」とともに今を生きる、という継承の物語でもあった。
或人は最終回、父から託されたドライバーで変身することで、(昨冬の令和ザ・ファースト・ジェネレーションに引き続いて)「仮面ライダーであること」を継承する。
そしてその称号は、「悪意」の象徴となったアークに対して、「悪意を乗り越える心の強さを持つ者」の象徴となった。
或人は、その称号と意味を滅とも共有することで、父から受け継いだ「善意」を、同じ父親型ヒューマギアであった滅にもラーニングさせ、連鎖させていった、とも言えると思うのだ。


<ひとまずの結・ヒューマギアと人間社会>

このように、AIをメインコンセプトとしたゼロワンは、人間と人型AIロボとの関わりを通じて、「連鎖する善意・悪意とどのように付き合っていけば良いか」という理念的・概念的なテーマを語ってきた物語だった、と考えている。

しかしながら、ある意味作品の顔でもあったヒューマギアの存在は、非常に落ち着かないものであったのも事実だと思う。
特に、その存在の社会的な様相・着地点などは、十分に描かれたとは言い難い印象である。

順を追って捉え直してみれば、
最序盤ではある程度普及している様子が見られたものの、
滅亡迅雷により信頼性が危ぶまれ、
アークマギア化でより危険性が強調された5番勝負後、
リコールにより廃棄・回収となりゼアとのリンクを断たれたヒューマギアは、
アークにゼアを乗っ取られて以降は完全にスタンドアローンでの稼働を余儀なくされていたことになる。
(このスタンドアローン時に、飛電製作所編で描かれたような形で、ゼアから離れたが故に自らの思考が必要となったことで、シンギュラリティに達した個体も増えていったのではないかと思われる。)
アークによるインフラ破壊に対する救援として再度導入され、
ヒューマギアの存在は社会的には評価を取り戻しつつある状況だったと思わしいが、
滅の自我の確立とともに滅亡迅雷に賛同する個体も増え、
仕舞いには人間に対し権利を求めてデモ行進を行う群ができるまでになってしまっていた。
明確な描写こそないものの、人間社会側の目線としては、どうしても危険性を拭えない状況であり、
最終回ではそれ故の迫害もまたあり得そうな様相であった。

実際、天津の後任としてやって来た与多垣新社長は、人間を守る為にはヒューマギアを討つことも辞さない命令をAIMSに発さんとしていた。
しかし、激突しようとしたAIMSとヒューマギアを身体を張って止めたのは、かつて天津の元AIMSを率いたこともある唯阿だった。
唯阿は言う…ヒューマギアは単なる道具ではないと。心を持っている彼らを滅ぼすことが本当に正義なのか、と。
唯阿は、自身に殴りかかったヒューマギアの一撃を受け入れ、それでもなお、我々の正義とはなんだと、AIMSを制止する。
その様に、AIMSは銃を放棄し、与太垣も破壊された迅のメモリーを唯阿に託すなど、人間側にヒューマギアを受け入れる兆しが、僅かながら垣間見られた。

そして同時に描かれたのは、飛電インテリジェンスに詰め寄るヒューマギアたちに対峙する福添副社長とその秘書ヒューマギア・シェスタ、そして専務の山下…福添はヒューマギアたちこそが会社の「夢」であり、それを最も信じてきた或人を信じて欲しいと土下座までする。
シェスタはそれを見つめ、自らの意志で同じように土下座をする、そしてそれを見た山下も…。

結局唯阿も福添らも全てのヒューマギアと人間を制止できるわけでもなく、全ては或人と滅の激突に託された形であったのだが…肝心の激突を見たはずの人々やヒューマギアの反応が描写されずに終わってしまったのは、片手落ちの謗りは免れ得ないだろう。
しかし、福添・シェスタ・山下が見せた、人間とヒューマギアが互いに影響を与え合う関係性や、唯阿の言うヒューマギアは心を持つ単なる道具ではない存在なのだという定義付けは、ゼロワンのヒューマギアという存在の着地点の一つと捉えることもできるだろう。
自我を持つに至ったヒューマギアが人間と変わらない様相であるのならば、人間社会もまたヒューマギアたちを人間のように受け止めなければならないのか…あまり社会状況をうまく描けていたとは言えないゼロワンであるが、この辺りについては、予告された劇場版での再言及を期待したいところだ。

(あるいは、エピローグのニュース放送で触れられた、ゼアに代わる人工衛星の打ち上げが、本来衛星の統括人工知能によるバックアップを受けるヒューマギアにとっての利便性の回復であり、同時にそれによってヒューマギアを管理することで人間社会に対する信頼性の確保に繋がる、という面で、ヒューマギアと人間社会とのひとまずの落とし所ではあるのかもしれない…いずれにせよ、全ては今後の人間とヒューマギアの関係性に、それに大きく関わる飛電インテリジェンスに託されたのだ。)


<ひとまずの結・新たなイズに託されたヒューマギアの可能性>

そして、エピローグでは、それぞれの未来図が描かれる…
衛星打ち上げのため宇宙へ向かう雷(アークに見捨てられて以降、本来の宇宙野郎雷電としての復帰あたりは、コロナ禍があれば確実に描きこまれていただろうと思うと悔しいところで、次の機会に新たな描写を期待したいところである)、
サウザー課としての職務にさうざーたちと向かわんとする天津(その贖罪/禊が期待されたものの、これも尺不足だったか…修復されたサウザーのドライバーの劇場版での活躍を期待したい)、
亡をAIMSに迎え入れ部下たちもまた仮面ライダーになれると薫陶を送る唯阿(ZAIA時代にはレイドライザーでレイダー/怪人となっていた唯阿とAIMSだからこそ、彼女らもまた仮面ライダーとなり得るのだ、という回帰は良い着地点だったと思う…滅らとは異なる形で世界を見守る亡の活躍も楽しみである)、
1人生身でも街の人々の暮らしを守ろうとする不破(ゴリラ過ぎる…とか職は…とか思ってしまうが、力や変身ではなく、その生き方で仮面ライダーであることを貫こうとする姿は、これもまた一つの到達点だと感じる、ということもできるだろうか)、
誰かの悪意からアークが生まれぬよう影から社会を見守ろうとする滅と再生された迅(滅亡迅雷の社会的な扱いは気になるが、ダークヒーローとして新生した2人の姿に、劇場版でのOP再現が期待できるかもしれない)、
…そして最後に、飛電インテリジェンス社長を続ける或人の今が描かれる。

プログライズキーのバックアップデータも読めないイズの、ボディを再現した或人は、その新たな秘書ヒューマギアにイズの名をつけて、これまでのイズとの記憶・思い出をラーニングさせようとする。
バックアップデータがない以上、彼女にはかつてのイズとの連続性はない。
ボディも全くの新規であるため、アークにより初期化された雷と亡がかつての意志や夢を取り戻したような可能性もないはずだ。
それでもなお、或人は元通りのイズに育て直すのかというシェスタの問いに首肯する。
…或人は新たなイズに、かつてのイズとの連続性・同一性を求めているようにも、ここでは見える。

人間とAI(それを搭載したロボット)、その関係性は現実にもまだ始まったばかりだ。
ゼロワンという作品の難しさはその点にあり、
代わり続ける先端技術や現場への取材とそれを反映した作品の方向性とが、AIや人型ロボットに受け手が持つ様々な既存のイメージと乖離し、混乱を引き起こしていた印象すらある
(AIの様々な普及イメージを見せる為のお仕事描写に拘泥したために、物語全体の軸が見えなくなっていたのも確かな印象である)。
コロナも含めて先の見えない変化の著しさの中で、人間とAIの関係性も、恐らく著しく変化していくことだろう。
その時、我々はAIをどう捉え、どう受け入れ、共に歩んでいけばいいのか…そんな問いすら含み得るのが、AIを主要コンセプトとした仮面ライダーゼロワンのアドバンテージだったと言える。

そんな中で、最後に或人が新たなイズに求めた可能性は、一面では、失われた大切なものに拘泥する心持つ者の愚かさに見えるかもしれない。
なにしろ新たなイズは究極的にはハード面でもソフト面でもかつてのイズからの継承はない別個体であり、例えシンギュラリティに達したとしても、かつてのイズとは異なる自我を獲得する可能性が高い、と推測できるからだ。
そして、それを理解できていない或人ではないはずなのだ。

しかし、ヒューマギアは心を持つ者だが人間ではない。
その身体は機械であり、人に作られ、商品として流通し、衛星と繋がり、情報を集積して成長し、複製体が同時稼働し協働することすらある…人間とは異なる特性を持った、しかし人間と同じ心を持つ、だけど確実に違う"生物種"なのだ。
それを最も理解し受け入れていたのが或人であり…そしてそこにこそ、彼が繰り返し叫んだ、ヒューマギアの"夢のマシン"としての可能性があるのではないだろうか。
ヒューマギアたちの「善意」が集約されたプログライズホッパーブレードが、期せずしてヒューマギアをマギア化から復元する能力を得たように、
人間の知性の想像を超えた何らかの可能性を、人間ではないヒューマギアが/新たなイズが、人間ではないからこそ、獲得するかもしれない。
それは誰にも「わかんねぇだろ?俺にもわかんない!」のだ。

或人とかつてのイズとの思い出を全てラーニングした時、新たなイズがどうなるのか、本当の意味では、まだ誰にもわからない。
その時が描かれない限り、全ては予測・推測でしかないのだ。
だが彼女の中にも、我々が1年を通して見てきた、或人とイズが紡ぎ繋いできた「善意」は、受け継がれていくはずである。
ラーニングされる思い出とともに、新たなイズの中に、かつてのイズが息づいていくはずなのだ。
それは、良くも悪くも、親の思いを受けて育っていく子どもの在り方にも通じる…そう思うのは自分だけだろうか。
成長の果てに新たなイズが到達していくだろう意志を、彼女の父親代わりとなった或人がどう受け止めていくのか…その画竜点睛が、待ち受ける劇場版で描かれることを信じて、心待ちにしたいと思う。


<補論/包括的に・令和01号仮面ライダーとしてのゼロワン>

平成ライダーを総括しある意味では墓に葬ったジオウの後を受けて、令和最初の仮面ライダーとして、(大なり小なりあれど)新たな一歩を期待されていたのがゼロワンではあった。
序盤の立ち上がりは期待を更に盛り上げるものであったけれども、最終話を経ての着地点としては、「問題を数多く抱えてしまった実験作」という残念な印象が色濃い。
個人的には、やはり、(本来はAI普及で予測される状況の事例でしかない筈の)「お仕事」を、各エピソード単位の軸になるメインのコンセプトとしてしまったが為に、メインモチーフである「AI」を十分に活かす時間もなく構成も取れなかったのではないか、という印象が強い。
また、「シンギュラリティ」「善意と悪意」「道具」「夢」「心」など、数多くのキーワードや要素はあったものの、それらを描くことで物語が何を語ろうとしているのか、作品世界がどこへ向かおうとしているのか、物語の軸と先行きが提示されずに進んでいたように思えたのも、大きなストレスだったように思う。
点描される要素やお仕事が、点描の域を越えず、物語の縦軸の流れが見出し難かったこと…だからこそ、このまとめを書いた訳だが、最終盤に至るまでその流れが見出し難かったことは、お仕事を中心に横軸の展開を重視してしまった影響であると同時に、そうしてAIの可能性を(アークへの対策を数億回シミュレートしたイズのように)何度もいくつも描き考えていくことでしか、その先行きや描かれるべき着地点を見出せなかったのがゼロワンという作品である、とも言えるのかもしれない。

ただ、そんな中で、「仮面ライダー」の着地点が、「悪意を乗り越える心の強さを持つ者」であったことは、令和最初の仮面ライダーとして、一つ歩を進めた回答であったようにも思う。
何故なら、「怪人を倒すこと」がカタルシスの中核であり続けたのが、昭和から平成へ続いてきた「仮面ライダー」の一側面ではあるからだ。
BLACKやクウガ、龍騎や555、剣、鎧武、アマゾンズなど、その着地点・到達点が必ずしも怪人を倒すことではなく、あるいは怪人を倒すことの悲哀を描いてきたライダーは数多い。
だが、それらの作品でも、基本的に怪人とライダーの関係性は、倒される者/倒す者であり続けてきた…毎回のエピソード内でライダーが怪人を倒す…そのルーチンとカタルシスが描かれてこそ、そのアンチテーゼとしての縦軸の物語が描き得たとも言えるのだ。
しかしゼロワンは、怪人にあたる"異種族"としてのヒューマギアが、メインモチーフであり描き込まれるべき「AI」とほぼイコールであったために、序盤でさえ、ヒューマギアは滅亡迅雷に利用される被害者であり、その怪人化=マギア化が不可逆であるが故にゼロワンは彼らを倒さざるを得ない、というカタルシスを歪める方向性であった。
それは5番勝負以降、普通の人間であるレイダーの出現や、ホッパーブレードによるヒューマギアの復元などにより加速され、基本的にゼロワンは、怪人を倒すことでカタルシスを得る作品ではほぼ無くなっていた、とも捉えられるのだ(強いて近い作品を挙げるなら、ヘルヘイムへの対処が向かうべき到達点であった鎧武あたりだろうか)。
そんなゼロワンは、当初からバルカン・バルキリーの変身音でKAMEN RIDERと音を鳴らす/天津の野望に絡めて「仮面ライダーという名の神話」なるキーワードを出す/或人が不破に「夢」を示唆する重要回でゼロワン・バルカン・迅の仮面ライダーとしての立ち位置を語らせる/不破の「夢」を仮面ライダーそのものと置く/心を得た滅にも自身の仮面ライダーとしての立ち位置を表明させる、と、その回収や流れこそ他の要素同様わかりづらくはあるものの、どころどころで「仮面ライダー」について触れ、語ってきた。
その着地点として、最終決戦にて、其雄→或人→滅へ、「仮面ライダー」としての継承が、「悪意を乗り越える心の強さを持つ者」としてなされた…エピローグの唯阿からAIMSへの薫陶や生身でも夢を胸に活躍し続ける不破まで含めて、ゼロワンはその着地点においても、「仮面ライダー」を「怪人を倒す者」ではなく、「その心の有り様を以って規定される者」として描いていった、とも言えるのではなかろうか。

思えば平成ライダーは、作品を重ねながら、仮面ライダー・人間・怪人の境界線を崩していき、それ故逆説的に、「誰もがその心の有り様を以って仮面ライダーになり得る」、そんな世界観を作り上げていくところにあった、という側面があると思う。
ゼロワンの、ともすればただの擦り付けとも言われる「仮面ライダー」の扱いには、その実、平成ライダーが積み上げてきたそうした精神性を、令和の01号仮面ライダーとして今後に継承していく、そんな思いが込められているのではないか…そんな気がしてならない。
遂に始まった令和第2作・仮面ライダーセイバーでも、子どもたちが目指すべき精神性を「仮面ライダー」に託すような、まさに「ヒーローとしての仮面ライダー」が描かれていくことを期待したいと思う。

(そして繰り返しになってしまうが、「仮面ライダーという名の神話」とは何だったのか、ゼロワン計画やサウザー関係の仮面ライダーの計画が何を目指していたのか、劇場版が真の着地点を見せてくれる事も、やはり期待したいと思う…)