mixi麻雀回想録 その2 | 池袋と新橋の事

池袋と新橋の事

池袋と新橋

フィクションです

そして、卒業とともに、東京都北区王子の測量の専門学校にかようこととなる。

夢に見た一人暮らしだ。

少し、脇にそれますが

母には、中学のときに離婚してからは、女手一つで育ててもらった。
かなり、大変だったにちがいない。

自分でいうのも、照れるが、母を尊敬している。
逆らったことなどない。
その母を自分で、お店をやるときに相談をしなかったが為に悲しませてしまう結果に、後になってしまう。

『黙って始めたことはいい。でも、大事な息子の門出にお花の一つ送れない、まして、おめでとうが言えなかったのが、なにより寂しい。』


母の言葉がむねにしみた。


高校時代あまり話せるないようではないが、友達と二人で社会科の教師によばれた。

『ばちーん』
鈍い音とともに友達が殴られた。

その教師の体罰は有名だった。
次の瞬間我に帰ると羽交い締めにされた自分がいた。
教師は血を流し倒れていた。
そう、理由はともかく、殴ってしまった。
一時間ほど、一人にされ、やがて、ははがきた。


開口一番
『あんたは、わるいことしたとおもってるんか?』

「いや、おもってない」

『そうか、わかった。』
すると、退学ちらつかせる教師にひるむことなく最後の最後まであやまらなかった。
教師達はその、毅然としたたいどにひるんだのか、先に手を出した先生がわるいということに落ち着いた。
三日間自宅謹慎で、落ち着いた。
うれしかった。
ありがとう、お母さん。
あなたの息子でよかった。
そんな、家族と別れいざ、東京へ。
しかし、母の思いとは逆に、なるとはこの時の自分にすら、わからなかった。
最初の二ヶ月くらいはまじめにすごした。

なかなか、友達もできなかった。
東京にくるのにあたり、スラムダンクだけはもってきた。おれの癒しだった。
当然ながらのちに俺の部屋はたまり場となり、麻雀が、夜な夜な開催されるのである。
仕送り三万で暮らす方法をさがした。
絶対に、足りない。
智恵を振り絞らねば。

バイトをした。しかし、これまた、しめから、一ヶ月くらい先に振り込まれる。
つぎは、麻雀。
麻雀をやると必ず勝つ。
お金は月末まとめて入る。(なかには働きながら学びにきているので。)

しかし、それまでがきつい。
そこで、目を付けたのが、べらぼうな量の課題の山。
そうだ、いそがしいひとの課題をやって一儲けしよう。
これが、おお当たり。
毎月二十万はかせいだとおもう。
麻雀もかっていたから、三十万近くは稼いでいた。
おもわぬところにビジネスチャンスはあるものだ。
宿題請負業など、あればたよりたい学生もいるはずだ。ここでも、今だ、負けることを知らない田舎小僧に、麻雀と向き合うきっかけがまたうまれる。


読者最強戦だったかな?

錦江荘?
こんななまえだったようなきがする。

優勝する気持ちで、なめた気持ちで予選に
のぞむのであった。


しかし、あまくはない。
ずたぼろ。
なにもできない。
三ラスくったのかも
甘かった。すべてがあまい。修行がたりない。そうだ。フリーでうってみよう。近代麻雀を広げ、デビューに選んだのは、池袋のGー1

順位取り麻雀
ここに
かなり通いまくるのであった。


しかし、なんせ麻雀が好きでたまらない。

長く打つから必ず負ける。

当時ゲーム代で負けてるなんて思わないから、
自分の弱さをのろった。
負けて電車賃すら使い込み。
三十円くらいかな?
足りなくて、あるいてかえったこともあった。
なにをしてるんだおれは
自責の念にかられる。西川口のGー1からも負けたら自分を戒める。
という理由であるいてかえった。
強くなりたいと打ったわけではなかった。
ただ、知らない人と打つ魅力から抜け出せないでいた。
少し上のレートに興味がでるのも、そんなに時間はいらなかった
浦和西高校の裏にある測量会社に、特別枠ではいる。

しかも四月の後半から出社。

一週間後には、初の海外旅行アメリカ、カナダの社員旅行がまっていた。


飛行機嫌いなんです。

私の誕生日は、大きな飛行機事故のあった日だからです。
職場は、お世辞なくみんながいいひとでした。

そして旅行。
行き帰りの飛行機は、ずっと社長のとなり
飛行機嫌いも手伝ってか、かなりのストレス。
この会社でしぬまで働きたくない。
旅行からかえるとやめさせてもらいました。
一週間ただで旅行させてもらい、五万円の会社からのお小遣い。
やめるときも一週間の仕事分の給料。
その節はみなさんすみませんでした。

えっ?
なんでやめちゃうの?
そこは、雲のようにいきるためさ。
と、いうより、かなりの短気。
社長がきらいだからやめたのかも。
でも、うるさいおやじは貴重だよね。人を思うからこそうざくもなる。やさしさのうらがえしだったのかも?


しかしとにかくこのころの俺は瞬間湯沸かし器
しかも、喧嘩っ早い。

ただのおこちゃまですよ。
若いときにこのような自分の未熟さ故におこしたあやまちを思うと、
自分の今のお店のスタッフや、知り合えるすべての若者。
みんなには、社会にでれば大事なのは、可愛がってもらえることや、人脈が大事になるわけで、
いやらしいかもしれないが、嫌われたら、やりづらくなることをしってほしい。
まあ、このころの俺はそんなのおかまいなしの風来坊さ。
しばらくは、ピンジャンにいりびたり。少し勝つとやめるうざいきゃくだったな。ラスハンもいわなかったかも?だって勝ち逃げしたかったんだもん。しかもそのお店はサキヅモあり、無発声。マナー激悪だからね。俺はその辺にはへんなこだわりがあってサキヅモしないし発声もしてたよ。
浮いたお金で大宮のボーイで(点五)朝まで打つのがおおかったな。自分の店にそのときのメンバーさんが、新規できたときには偶然てすごいとおもった。
しかし、そんな生活など長くは続かない。
同じアパートには、専門学校のやつがいた。
二階のやつが、若くしてぱちんこでかせいでいるらしい。
ゴールデンバレリーナ。
ぶったたきのゴト師
生で百万円みたのもはじめてなら、新車で、フェアレディZをかったらしい。
彼から、
『体感器をつかっていっしょにやろうよ』
と、誘われ、楽に稼ぎたい気持ちから、その道に流れていくのである。
そして、彼の一言で、パチンコへの道が開ける。
まあ、かなり不思議な存在に感じてしまうことでしょう。


パチンコを出したい。
勝ちたい。


まあ、プロに(自称)なるまでは、運がすべてをしめる、偶然性の高いギャンブルということぐらいにしかおもっていなかった。

強いていえば、ハネモノと呼ばれる機種だけは、釘や寝かせでかわるということぐらいしか知識はなかった。
わりとパチンコは負けない部類のギャンブルだったのだが、これを期にパチンコは勝てる、いや、比較的勝ちやすいギャンブルということがわかったのだった。悪いことは(ゴト行為)に、手を染めたくはない。むろん、俺に教えてくれたやつは、いろんなみせで、出入り禁止や、しばかれたこともあったらしい。おれは、ちょっとそんな生々しいのはやりたくなかった
当時体感器は、違法すれすれで(当然今は違法なのでやめましょう。)
彼にパチンコの手ほどきをうける
狙い台は
『CR黄門ちゃま2』 この台には、大当り周期の約四秒くらいのなかに、大当り乱数が、3、7、73、と、比較的かたまった場所にあるので、一度大当りを引けば、以降体感器が、大当りをビートでおしえてくれるので、無駄玉をなくし、止め打ちで、効率よく大当りを引き続ける確率があがる攻略方法てあった。
しかし、確率変動突入具合や継続割合は、普通に打つ人となんらかわりはないので、一日の収支は確率変動の引きや継続にかかっているのであるここで疑問があり、
最初の当たりが引けなければ、つぎのあたりはわからないし、ましてやじだいは400分の1が主流の時代。
今でいう花の慶次。
初期投資がかさんでしまえば、お世辞にもおいしい攻略とはいえない。そこをカバーするのが、単純に打つ人間を増やす。
すると、三万円を一台にいれるより
一万円ずつ三台打つほうが、大当りを引ける可能性が上がるのは説明しなくてもご理解いただけるだろう。しかし増やしすぎてもいけない。
目立つからである。
三人から五人が適度な人数だった。
かれから、体感器を格安でゆずりうける。
かれは、もちろん勝ってからお金ははらえばよいという
まずは、信じてもらいたいそうだ。
いざ、初日。
ノリ打ちというほうほうでのりこむのであった。
大当りを彼が五百円で引く、しかし、大当りのばしょがいまいち核心がもてないらしい。
なにせ、すべての保留玉をあたまで記憶しながらまわすのだからそれもうなずける。
しかたがないから、俺も当たりを探しながらうつことに。
しかし千五百円で、俺にも確率変動大当り。
結果俺も場所がわからない。ふたりとも確率変動終了を待つことに。しかし、彼が、20連チャン。
俺が、25連チャン。その後保留玉で6連チャン。
結局いまから、出すには目立ちすぎるから、きょうはかえることに
華々しいデビューであった。