分かると分からないの差 | ☆ピースマンプロジェクト北海道★スタッフブログ☆

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このブログは
赤松 隆滋(ピースオブヘアー代表)さんの活動について広く北海道の人々に知って頂き、来春北海道で初めて行われる講演にたくさんの人に参加していただけるように彼の活動、講演内容についてご紹介していくブログです^^

どうも。まりかです。


実は最近、息子の瑞希が学校に行けません。

去年の12月から

僕は3学期から学校に行かない!

と宣言していたのですが、3学期になって本当に行かない(行けない?)日が多くなっています。

どうやら集団生活の中に何らかの問題がありそうなのですが、誰かを悪く言うことを強く嫌う瑞希は、何が(もしくは誰が)原因で学校に行かないかを話そうとしません。

でも、周りの大人たちは

なぜいけないのか?
誰が原因なのか?

を必死で探ろうとします。
どうにか自分たちの納得できる理屈、理論に当てはめようとします。


でも、果たしてそんな単純なものでしょうか?

何が嫌か。それを説明できるならとっくにやっています。

自分が何を恐れ嫌悪しているのかを説明することで、誰か(自分も含む)が傷ついたり、誰か(自分も含む)が怒られたりするのではないか?

と思うから説明できないのではないでしょうか?


何かに対して「分かる」と判断されるのはどんなときなのでしょうか?

多くの人がそれは妥当だと判断する内容であれば「分かる」なのでしょうか?
多くの人の納得する理論なら「分かる」なのでしょうか?

それとも、

自分が納得したら「分かる」なのでしょうか?
自分の理屈、理論に当てはまると「分かる」なのでしょうか?

もし多くの同意なのであれば、少数派の意見はいつまでも理解されすに殺され続けます。

自分の納得なら集団としての規律は侵され続けることになります。

となればどうするか?

なんとなく多くの人が納得できるだろうと推測できて、かつ自分の心もなんとなく納得できること。

である時に人は「分かる」というのではないでしょうか?

でも、人の気持ちに関しては細かいところまで「分かる」のは難しいことです。

だからこそ、今は瑞希が気持ちを話してくれるまで待ってみようと思っています。
もしそれが多くの人の理解を得られるものではない内容だとしても、せめて私は受け止められるようにしたいと思っています。