「自己責任」という無責任な言葉について考える。 | 騰奔静想~司法書士とくたけさとこの「つれづれ日記」

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大阪の柏原市で司法書士をやってる徳武聡子といいます。
仕事のかたわら、あっちこっち走り回ったり、もの思いにふけったり。
いろいろお伝えしていきます。

世によく言われる「自己責任」ってのは、ひじょーに便利な言葉だと思う。
特に「そんなん自己責任やろ?」と他者に向かって、かるーく簡単に言い放たれるとき。
   
その人に起こったこと、その人が抱えている困難の原因と解決をすべて、当人に求める。当人以外は責任をとらんでいい。その困難をどう解消するか、ともに悩まんでいい。「自己責任やろ」と言っとけばよい。
社会の仕組みや国の在り方という、根本的に歪んでいるところがあっても、そこに疑問を呈したり、反対したり、改善を求めたり、声を上げたり、そういった遠大で手間のかかる道を踏まんでも、別にいい。
「責任」という単語を用いつつ、「責任」からこれほどかけ離れた言葉はない。
 
といっても、私は「自己責任」そのものを否定する気は、ない。
よりよい生き方や選択をするために、自分を振り返ってみたり、過去を反面教師に改善を追求していくことは、やり過ぎなければええことやと思う。
司法書士という仕事上、貸金返還請求などの法的トラブルの相談を受けるけど、それが望み通りに解決しなかったとき「私も●●やったな…」と、自分を納得させる材料とするのもありやと思ってる。
 
でも、今、世にはびこる自己責任論は、次元が違う。
「自己責任」が声高に叫ばれれば叫ばれるだけ、国や地方の役割(責任)は小さくなっていく。困っている人は声を上げられなくなる。いやーな図式。