行政が「普通に」仕事するだけで救われるのに…。 | 騰奔静想~司法書士とくたけさとこの「つれづれ日記」

騰奔静想~司法書士とくたけさとこの「つれづれ日記」

大阪の柏原市で司法書士をやってる徳武聡子といいます。
仕事のかたわら、あっちこっち走り回ったり、もの思いにふけったり。
いろいろお伝えしていきます。

気がついたら3年ぶりの更新です…。

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3月11日(日)

朝から2件の打ち合わせを経て、午後からは、NPO法人CPAOの定時総会に監事として参加しました。
 
 調理ボランティア(ときに借金整理相談)として参加していましたが、その後はなかなか活動自体に参加できず、かなり久しぶりの関わりとなりました。
 子どもの貧困の最前線での一年間の活動報告、それから今後の活動計画を聞くにつれ、お母さんや子どもへの支援の難しさを感じます。そこを「困難を抱えた」とか「課題を抱えた」と、書くのは簡単なんだけど、実際の状況はそれどころではない。
 ただ、生活保護を主なフィールドとしている私からすれば、少なくとも生活保護の運用がしっかりしていて、経済的にほんまに最低限度の部分でも保障されていれば、あるいは、もっと使い勝手の良い制度であれば、解決する部分も少なくない、と感じます。というより、そこが機能していれば、お金のストレスはかなり軽減されます。
しかし、いまもって、生活保護の水際作戦はなくならない。行政の窓口の知識と経験と自覚の欠如が、制度を機能不全に陥らせ、困った人を助けない。
 総会の後のぶっちゃけトークで聞く、そんな機能不全の窓口は困った市民に対応する部署全般に及んでいて、生活保護だけでないようです。
 
 支援、支援と言うけれど、マイナスからゼロに持って行く支援をなぜ民間がしなければならないのか。せめてゼロの状態から下がらないようにするのが、「健康で文化的な」生活を保障する国・地方の役割なんじゃないでしょうか。同じ力を尽くすなら、ゼロからプラスになるような支援をしたいもの。運動でも同じ。制度改悪に対抗する守りの運動より、より制度を使いやすくする攻めの運動をしたいものです。
 マイナスからゼロへの支援が嫌だとか、いうことではないです。国が役割を果たさず、自治体も責任放棄するその尻拭いをさせんなや、ということです。
 
 なにも、特別なことは望みません。
その役割にふさわしい知識と経験と自覚をもって、フツーに。ほんまにフツーに仕事してほしいだけです。それだけで、助かる人は沢山いるから。
  
 窓口にいる人たちだけが、責められることでもないです。フツーに仕事ができるような行政での人員配置や予算確保、行政がそうできるような市民の理解、阿呆な公務員バッシングをやめること、自己責任論ではなく社会全体で困った人を助けるという意識作り、なにより子育てを母親だけに押しつけない、ついでに言えば離婚した子の父はちゃんと養育費を払わんかい!というところまで、話は大きくなったり身近になったりしてますが、こういったことを感じた一日でした。
(半分くらいは感じただけじゃなくて、ぶっちゃけトークでぶちまけましたが…)