SHOWBOAT~舞台船~ -2ページ目

  SHOWBOAT~舞台船~

   明石智水公式Blog

  役者として舞台を中心に活動している明石智水の仕事の事だったり
  日常の事だったり、考えていることだったり。。。徒然草です(*'‐'*)

新年から色々と大変なことが起こり、お正月気分が一気に吹っ飛んだ方も多いと思います。


地震の影響を受けた地域の方に心からのお見舞いを申し上げたいと思います。



そして、2日に起こった羽田での事故をきっかけに、ペットを客席に乗せるべきという声が起こっているようですが、無類のネコ好きで実家で2匹の猫を飼っていたことのある私としては、この意見には全く賛同できません。


そもそもペットを飛行機に乗せること自体に反対です。



実家の猫さん達は、私が高校生の頃、まだ目も開いていない状態で我が家にやってきて、長い方で20年ほど家族でいてくれましたが、そもそもペットを飼うということは家族全員が家を空けるような旅行は諦めるということでした。

一度だけ、いつもお世話になっている動物病院に預かっていただき家族で旅行をしましたが、一匹は動物病院でも元気に過ごしていたようですが、もう一匹は落ち込んで食事を取らなかったそうで、迎えに行った時には「何でおいていったの!!!」という勢いで全力で非難するように泣かれました。反省しました。


だからと言って連れて行くという選択肢を考えるかと言ったら、車で行けるところならまだしも、飛行機でというのはまず有り得ない。

新しい家族は環境の変化を好まない、人間のように旅行を楽しむ生き物では無いのですから、その子達を迎えるということは移動の選択肢が迎える前より制限されるということです。



以下に引用するのはANAのサイトにあったペットに関する注意です。


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ANAでは大切なペットが快適に過ごせるよう十分配慮いたしますが、日常生活とは大きく異なる輸送環境は、ペットの健康状態に様々な影響を与え、衰弱、もしくは死傷することがあります。必ず事前に注意事項をご確認いただき、十分にご検討のうえ、ご利用ください。

なお、当該運送中に発生したペットの死傷について、その原因が、ペット自身の健康状態や体質等(気圧・温度・湿度・騒音による影響を含む)、ペット自身の固有の性質にある場合、もしくは、梱包の不備等にある場合は免責とさせていただきます。

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恐らく、飛行機でペットを輸送する際にはここに記載されるようなリスクに同意した旨サインを求められると思いますが、これを人間の都合で航空会社側の怠慢や冷酷な通達のように考えるのは大間違いだと思います。


これらはペットを飛行機で移動させるということにはここまでのリスクがあるのだということを、飼い主自身が再確認するための情報であり、ペットを家族のように大切に思うのであれば、飼う時点から認識しておかなければならないリスクだと思うんですよ。


これは貨物室の場合で客室なら安全というものではないと思います。

客室でも人間の赤ちゃんがギャン泣きする、小さな子どもが不快感をあらわにする程度の気圧の変化はあります。

乱気流で人間の大人が悲鳴をあげる程度に揺れる事もあります。

事故などなくとも。


ちなみに私はこれまでに乗った飛行機で、機内の通路がとんでもない角度の下り坂になるくらい傾いて、そこら中から悲鳴が上がるという経験をしたことがあります。

あまりの揺れにCAさんが「乗務員一同着陸します!」とテンパった言い間違いをしたのを聞いたこともあります。

ケージは固定出来ても、ケージの中のペットにシートベルトはありません。突然の大きな揺れでケージの中のペットがケージの内側に叩き付けられるなんてことは、客室に置いていてもありうると簡単に想像できます。

ケージに入っていなければ、人間よりもパニックに陥って暴れたり大きな声で吠えたりという事も考えられます。

動物が本気で暴れたら、人間1人で押さえておくことは無理だと思います。下手したら人が流血するようなことになりえます。


飛行機は人が移動する時には早く便利ですが、そこにペットを同乗させるのは、飼い主の都合にペットを合わせさせているだけで、ストレスの多さからペットに取っては可哀想な事だとしか思えません。


どうしても移動の必要があるにせよ、今回の事故は国内線です。

日本国内で飛行機でなければ行けない場所ってどれくらいあるんでしょう?

離島の沖縄でさえ、飛行機が唯一の移動手段ではありません。

本当にペットを家族同然に大切に思うなら、どうしても移動しなければ行けない場合、ペットに最も負担の少ない移動方法を選択するべきで、自分の都合に合わせさせる事自体が自分自身のエゴでありペット軽視であることを、飼い主は自覚していないといけないと思います。


旅行でペットを飛行機で連れて行くなんてのは、動物好きからしたら信じられない所業。


そう考えている私からすると、ペットは貨物室か客室かなんて議論がそもそも人間のエゴをどう押し通すか、人間の欺瞞だらけの正義感をいかに満たすかのための議論でしかなく、不毛だと感じます。

議論のスタートがそもそも歪んでいると思うんです。


ペットを飼ったら旅行すべきでないと言っているわけではありません。

例えば私の母は現在猫を一匹飼っていますが旅行もします。

猫さんは旅行に行かない家族とお留守番するか、獣医師の資格を持つ再婚相手の娘さんに自宅に来てもらうなどしています。

先に書いたように、実家に猫さんがいた頃に一度だけした家族全員での旅行では、お世話になっている動物病院にお願いしました。

先述したように、一匹がそれをすると捨てられたと思ってしまうようだったのでそれ以降はしなかったのですが、もう一匹のように他所にお泊りが平気な子もいるので(知っている場所だったのもあるかもしれませんが)、そういう子はペットホテル等もありだと思います。

預けられることでペットは淋しい思いをするかもしれませんが、飛行機に乗せるリスクとは比べるべくも有りません。



ペットを客室に!と飛行機に乗せることにそもそも疑問すら持っていない飼い主さんには

「ペットは家族」

が自分を満足させるためだけの言葉だけで、実際にはペットが自分のためのアクセサリーになっていないか、もう一度冷静な目で自分自身を見直してみて欲しいと思います。


それはペットが望んだことなのか。

あなた自身が望んでいることに過ぎないのではないか。


ここをまず考えて欲しいんです。

実際のところ航空会社が気を付けていても、今回のような緊急事態がなくとも、飛行機輸送によるペットの死はあるようです。

知人には、ペットのワンちゃんが飛行機輸送により障害を負ったという人もいました。

事故等なくとも自分の家族が死ぬ可能性、身体を壊す可能性を容認してまで飛行機にその家族を乗せることを本当に選んで良いのか、まずはそこから考えるべき。


ペットのことを考えるなら、乗せる場所以前に議論すべきことがあるのではないでしょうか?


事故などなくともリスクは有ると認識した上で、なおペットを飛行機に乗せたいのであれば、航空会社の規定に文句を言わず従うべきですし、その規定が気に食わないのであれば、自身がその航空会社を使わなければ良いのです。

一番いいのはチャーター機でしょうね。


その選択をせず、自身の都合で一般の旅客機を選ぶのであれば、ワガママは言わないことです。

ペットとは愛玩動物とも言いますが、それが不要であると考える人間とも同乗する場である以上、例え客席に乗せられたとしても、手荷物として扱われることは仕方がありません。

ペットを避難時に持ち出すことが許されるのであれば、同サイズの手荷物までは他のペットを連れていない客にも許されるべきだということになってきます。

人間は物にも愛情を持てる生き物です。

「命の次に大切な物だから預けず手荷物にしたのだ!」

ということが起こり得ます。

緊急時には皆が一定のラインで我慢しなければ混乱が生まれます。


何にどんな思いを抱いているかは人それぞれ。

緊急時には迅速に対応するため、一律に線を引くことは絶対に重要です。

ペットであれ物であれ、何かを持ってという時点で避難効率は格段に下がります。

今回の事故で乗客全員の命が助かったのは、線引きが徹底された結果でもあると思いますし、結果だけを見てその効率を下げても良いということに繋がるような声を上げることは危険です。

対策をすればいいという人もいるようですが、緊急時の脱出手順は、これまでの経験上対策を練りに練った上での現時点でのベストです。

これまでの負の経験の中には、手荷物を持ち出そうとした事で悲劇になるということは起こっていますし、そこについて考えられた結果が「どうにかして持ち出せる対策をする」ではなく「一切持ち出さない」だったわけで、そこに「持ち出せる対策をすれば良い」というのは極めて無責任な意見です。

多くの人の失われた命や流された血の上に今のルールがあることを、まず考える必要があると思います。


動物アレルギーの人もいるからというのはもちろんですが、アレルギー対策が出来たとしても緊急時の事を考えればそもそもダメなんですよ。


事故は起こらないという前提で考えてはいけないんです。

万分の一でも可能性があるなら、その時に備えたルールが必要です。

その意味で、ペットを客室に置くことは私は反対。

そして、それ以前に大切なペットが負うリスクを考えたら、ペットを飛行機に乗せること自体に反対です。


自分の希望に動物を利用してはいけないと思います。


クリスマス時期にはブログでクリスマスネタを書いたりもしていたですが、ながらくブログサボりすぎました💧


ギリギリですが、まだ24日!

ということで、過去に知らずに驚いたクリスマスのお話を。。。



先日知人に

『赤鼻のトナカイ』って歌に「暗い夜道はピカピカの〜」ってところあるじゃん。

あれ、子供の頃ずっと「暗いよ!道は〜」だと思ってた。

と言われ爆笑したのですが、ロンドンにいた頃、子どもの頃日本語で親しんでいたクリスマスソングを英語で聞いて「え?全然違う歌じゃない?」というような歌詞の違いに驚くことがありました。


前にも書いたと思いますが『サンタがママにキスをした』という歌の最後の「でもそのサンタはパパ♪」というオチに、子どもながら「うちはパパじゃないから」とまさかのクリスマスソングによるサンタネタバレを否定しようと思っていましたが、この歌もオリジナルにはサンタネタバレの歌詞は登場しません。


あちらには、ヤドリギの下にいる女性にはキスして良い的な風習があり、サンタクロースがヤドリギの下でママにキスしたのを目撃した子どもが、「見ちゃった!パパに教えなきゃ!」となる歌です。

日本語になった途端ネタバレソングになるとは…



私がオリジナル英語版を聞いて最も驚いたクリスマスソングは『We wish you a Merry Christmas』、邦題『おめでとうクリスマス』です。

まず驚いたのは、日本語版のこの歌は、同じ歌詞を繰り返し歌うのに対し、英語版は4番まで歌詞があるということです。



歌詞が変わるのは日本語で「おめでとメリークリスマス」と歌っている部分です。

1番ではオリジナルも『We wish you a Merry Christmas』なので、まぁ大きな違いはありません。

「楽しいクリスマスを」という感じですね。

これが2番でいきなり「Now bring us a figgy pudding」「イチジクのプディングを持ってきて」とおねだりが始まります。

イチジクのプディングとは、イギリスでクリスマスプディングと呼ばれる、日本で言うところのクリスマスケーキのようなものです。

ドライフルーツのケーキでとっても甘いです。

なので、2番はクリスマスケーキのおねだりなんです。


そして、3番では「For we all like figgy pudding」「私達は皆イチジクのプディングが好きなので」からのさらなるクリスマスケーキおねだりが続きます。

4番で少し動きが出ます。

「And we won't go until we got some.」「貰えるまでは行かない」

クリスマスケーキ貰えるまではここに居座るぞと。

もはやちょっとした脅しのような…



実はこの歌のオリジナル英語版を初めてフルで聞いたのは、ロンドンで初めて迎えたクリスマス、12月25日の朝です。

家の外で子どもたちが歌うんです。

これに対して、家の人は子どもたちへのささやかな贈り物を子どもたちに渡すのが習わしです。

大家さんいわく、贈るのはお菓子や文房具、少額のお小遣いが定番だとか。


ここでこの歌の歌詞の意味が見えてきます。


この歌はオリジナル英語版でもBメロだけは歌詞が変わりません。

日本語では

「幸せが来るように ひざまずいて さあお祈りしましょう」

ですが、オリジナル英語版は

「Good tidings we bring to you and your kin 

Good tidings for Christmas and a Happy New Year」

日本語にすると

「あなたとあなたの親族にいい知らせを届けます。クリスマスと幸せな新年の良いお知らせです」

と言った意味。


子どもたちが朝やってきて、歌で「クリスマスですよ!」とお知らせにきてケーキをおねだりする歌なんですね。

古い映画なんかで観たことはありましたが、リアルに現代でも行われていることに驚きましたし、外国のクリスマスだ!と実感した経験でした。

24日の16時に店が一斉に閉まったり、25日にはバスも電車も止まってロンドンがゴーストタウンのように静かになるのを体験した時にも外国ならではのクリスマス感は感じましたが、子どもたちがドアの外で歌ってプレゼントをして、「Merry Christmas」と言い合う体験は、クリスマスらしさ満点の経験でした。

この風習は、クリスマスキャロルを原作としたミュージカル『スクルージ』なんかでも観ることが出来ます。

今でもやってるのかしら?


日本語に訳すと、そういう風習が無いので意味が分からないから、日本ではああいう歌詞になったんでしょうね。

個人的には、ハロウィンよりもこちらの風習の方が好きだったりします。

当時のロンドンには、ハロウィンに子どもが家に来るような風習は無かったのもあります。


書いていたらクリスマスプディング食べたくなりました(笑)





連日取り沙汰されているジャニーズ問題を見ていて、性加害問題はもちろん言語道断なのですが、事の本質は、日本の仲介業者の太り過ぎとそれらの圧力、それ故のまわりの忖度にあるような気がしています。

これは、芸能界以外の業界にも同じことが言えるとも思いますが…


私は個人的に、芸能界は芸能事務所がタレントを育て、その分売って回収するためタレントを縛り付けるような、悪い意味での置屋と舞妓のようなシステムをいい加減捨てるべきだと思います。

それでは本当にいい人材は育たない。

タレントは独立したアーティストとして、海外のようなエージェント制を主とすべき。

そして、その為には、「役者は河原乞食」に代表されるような、芸能界は所詮水商売的な見下す思想を止め、若手を育成する機関は独立した存在として整備されるべきだと思っています。


昔、『FAME』という映画があり、舞台化もされていますが、公立の高校でその道を選びたい人が学べて、しかもスターが輩出される。

当然高校が将来的なタレントの囲い込みなどは行わない。

そういう環境が当たり前にならないと、エージェント制を主にしたところで、独立性のないタレントには別の仲介業者が出てきて搾取を行うので、あまり変わらないかなと思うんです。


『FAME』の舞台になっているPAは実在の高校で、その長い歴史の中でライザ・ミネリやアル・パチーノ、もう少し若い世代ならジェニファー・アニストンなど、名前だけではなく実力を伴う錚々たるスターを芸能界の各分野に輩出しています。

そして、作品中に非常に才能あるダンサーでありながら、スラムで育ち、そこまでまともな教育を受けていなかった黒人の男の子が登場し、一般科目について行けず留年するというくだりが出てきます。

一般科目について行けない事で、芸能の才能があっても留年する理由は、大きく2つ。

1つは、良い学校を出れば必ずしも成功が約束される世界ではなく、ダメだった時に別の道に進むことも出来るようにするため。

そしてもう1つが、アーティストは個人事業主のため、契約書をちゃんと読めない、理解出来ない教育レベルでは、たとえ才能があっても食い物にされてしまう可能性がある為です。

これらについては舞台版が分かりやすく表現しています。

「この学校を卒業する生徒の90%は、芸能界では生きられず他の道を進まなければいけない」

であるとか、かなりシビアなセリフが先生から発せられます。



『FAME』舞台版では冒頭のナンバーで、ダンス、演劇、音楽各科の先生と生徒でそれぞれの分野を「Acting/ Dance/ Music is the hardest profession in the world.」と歌う部分が出てきます。

芸能の各分野を「世界で最も難しい専門職」と言っているわけです。

この感覚は日本ではあまり理解されないものだと思いますが、芸能人がアーティストとみなされ、専門教育がしっかりと整備されている国では、現実的に芸能人は最も難しい専門職の1つです。


プロを養成する学校に入るためにはオーディションがありますが、その倍率は極めて高く、合格基準はその時点での技術力だけではありません。その為、必要なレッスンを受けて一定のレベルに達していれば受かるという訳ではないのです。

倍率に関しては何十倍ならまだ良い方で、学校によっては100倍を超えることさえ珍しくありません。

入ったからと安心は出来ず、思ったより伸びなかったなどの理由で進級出来ないであるとか、退学になるといった事もあります。

この作品の映画版では、伸び悩み、学校に「見込み違いだった」と言われ、電車に飛び込んで自殺しようとする女の子も出てきます。


芸能の世界での技術は、努力したら徐々に形になって現れるというものではなく、努力することで技術をものにする為の力が徐々に溜まっていき、それが満タンになったところでフッと、今まで出来なかった技術がものになっているという類のものです。

少しずつ変化が見えるのではなく、努力しても出来ない時間が続いた後に、ある時突然出来なかったことが出来るようになるので、その過程において

「こんなにやってるのに何故出来るようにならないのか?」

「私のしている努力は無駄なのか?」

「やればやるほど出来なくなるような気がする」

「自分には才能がない」

といった思いを、この世界を目指したことのある人なら、誰もが一度や二度は経験していると思います。

この苦しい期間に誰もが耐えられるわけではありません。

途中で心が折れて諦めてしまう人も多い。

そうやって努力して身につける技術は、あくまでも必要最低条件であり、更に個性、感受性、教養からくる理解力や想像力、それらを技術を使って表に出す創造力、仲間とともに作品を作り上げるための協調性等、色々な要素が求められます。

ダンスであれば、スポーツ選手同様、身体的条件や、致命的な怪我をしないということも、一つの才能として不可欠です。

欧米においても、この世界を目指す人の数に対し、学校の中だけでも挫折する人の数はとても多いのが現実です。

だから、最も難しい専門職の1つなんです。


この作品に出てくる、挫折する例の一つとして、主題歌を歌っていたアイリーン・キャラの役があります。

才能はありながら成功を急ぎ過ぎ、甘い言葉に乗ってAV落ちしてしまう女の子ですが、舞台版ではこの役はその後ドラッグに溺れ自殺してしまいます。

映画版には他にも、飛び抜けた才能に胡座をかき、良い気になって遊び過ぎて妊娠し挫折する女の子も出てきます。

私が渡英したのと同時期に英国に来ていた為、幸運にも教わる機会のあった、アントニア•フランチェスキさんが演じた役です。

彼女自身、映画の舞台となったPAで学び、映画『グリース』で、出演には若過ぎる年齢を特別に配慮されてまでダンサーとして採用された才能の持ち主。

バランシンに選ばれてNYCB(ニューヨーク・シティ・バレエ)入りした最後の世代のバレリーナです。

つまりは、バレエをやっている人なら誰もが知っている、バランシンやロビンスが彼女のために振り付けた作品がある、というレベルのバレリーナということになります。

彼女自身、映画の役ように才能溢れるダンサーでありながら、映画の役のように傲慢で浮ついたタイプでは全くなく、輝かしいキャリアに奢る雰囲気すら微塵も感じさせない、とても真っ直ぐで素敵な女性でした。

芸能人になるためには実力や才能だけではなく、個人としてのしっかりした思考力や判断力、地に足の付いた自制心なども不可欠な要素であることが良く分かります。


余談ですが、アントニアは普段はとても穏やかでキュート。FAMEの話をすると「若い頃の話だよ。もう、恥ずかしい〜(。>﹏<。)」となり、バレエレッスンでもコミカルな例えで楽しく教えてくれる人でしたが。

アントニアを連れて来た先生の振付けた踊りを観に行った時には、客席でノリノリの歓声を誰よりも豪快に上げており、映画版『FAME』の、ロッキー・ホラー・ショーを観る生徒達を彷彿とさせる姿に、やっぱりFAMEの人だと思った思い出があります。



話は戻り、もちろん芸能人だけが一流になっても、作り手が甘ければ何の意味もありません。

ジャニーズの性加害問題や不当な圧力に忖度して来たTVは、そもそも自分達の仕事に誇りを持っていないと思います。

誰が出るかではなく、自分達の作るコンテンツで視聴者を惹きつけようという気概がないのです。

だから、自分達のコンテンツのパーツとなるべき人材を自分達で探そうという気も薄い。

何か物を作る時、自分が作りたい物を理想形に近づけるために、色々な素材見て、最も良いものを探し出すのと、自分の利益だけを考えてまわりに使えと言われた物を使い、何となくそれらしいものを作ってみたというような違いです。

視聴者をバカにしたような、無駄な煽りを何度も挟んで尺を稼いでいるバラエティ番組なんてその最たるもの。

本当に良い物を作ろうとか、自分達に誇りを持てるコンテンツを作ろうと思っていたら、大手事務所の圧力には「ふざけるな!」となるはずなんです。

それが、「嫌われたら怖い」なんて、そんな姿勢だからTV離れが進むんです。

そんなコンテンツばかり作っているから、

「この程度なら自分にも出来る」

と勘違いした若者が何の覚悟もなく芸能界を目指したりするんです。

悪循環でしかありません。



先月出演した舞台で、何の訓練を受けたわけでもないのに、自分にも出来そうだと思って上京し、先輩に舞台を経験しておいた方が良いと言われたからと初舞台に挑戦した子がいました。

稽古の合間、プロの人とのあまりの実力の差と、自分の出来なさに心が折れそうだと言っていましたが、「この歳(まだすごく若い)でそういう経験が出来たことを、ポジティブに捉えるべきですよね?」と言っていて、舞台が終わる頃には訓練を受けることを決めていました。

しかも、一朝一夕でどうにかしようというのではなく、10年は頑張るというのです。

ちょっと感動しました。

今、こういう子は決して多くはありません。

逆に、「何かコツさえ掴めば上手くなるはず」とか「ちょっとしたキッカケさえあれば売れるはず」と考えている人がいかに多いことか。



何故こんなことになるかと言えば、コンテンツメイカーが、プロとして必要な訓練を受けた人材よりも、大企業との癒着やお気軽な金儲け、自分の出世、つまりは自分やお金の事ばかり考えて、コンテンツの質を無視してきたからです。

結果として、芸能界が「楽して稼げる」場所に見えているんです。


芸能人を「好きな事だけして楽して稼いでる人達」だと思っている人は少なくないと思います。

そういう風に見せてきたのは、今のメディアでありコンテンツメイカー達なので致し方ありません。

芸能人側が変わった時に、作り手側に「質の悪い作品には出ません」ということや、コンテンツメイカーとしてのメディア側が変わった時に「必要な訓練も受けていない素人は使いません」と言うことは圧力ではありません。

あるべき姿ですし、そうなるべき。


社会的にも、皆が努力の必要な世界だと理解している分野では、芸能界のように見下される事は起こりづらい。


プロ野球やJリーグの試合を観て、何の訓練もしていない人が「あのくらいなら自分にも出来そう」と思うことは無いでしょうし、「ちょっとコツさえ掴めばあのくらい出来るようになるはず」とか、「ちょっとしたキッカケさえあれば自分もプロの試合に出られるはず」なんて、誰も言わないでしょう。

言ったとしても「この人大丈夫?」となるのが関の山かと思います。

プロスポーツもまた、芸能界同様興行で収入を得ている以上、芸能界の「中身度外視でも金になるように図るのが当たり前のビジネス」と言う、圧力や忖度正当化は屁理屈でしかありませんし、退廃への道です。

何の訓練も受けてない素人が有名選手のバーターとして試合に出て、観客は納得しますか?

しませんよ。

芸能界の作り手にはこの考え方が欠如しているんです。



その理由は、演技や音楽、ダンスといった芸能そのものを本当は舐めているから。

タレントを、ホストやホステスのように客を呼んでくる金蔓としてしか見ていないからです。

だからTVは、コンテンツよりもホストやホステス達が呼び込む視聴者の数で稼ごうとし、舞台はホストやホステスにノルマを掛ける。


舞台をやる人間として、演者が集客協力を求められることは、同じ作品を作るチームとして当然とは思いますが、同じような考えで集客協力するスタッフもいるのに対し、集客は演者だけがすべき事と考えている人達にはモヤモヤします。


話が逸れましたが、この芸能人が低く見られることが生む弊害は、ファンと呼ばれる人達にも及んでいると思います。

普通ファンと言えば、そのタレントが好きだからその人が出る番組を見る、CDが出れば買う、コンサートがあれば行くだと思うんですが、中には

「お金落としてあげたんだから」とか「私達が育ててあげたようなもの」

と言うような、ホストに入れ込んで「私がNO1にしてあげたんだから」と言うのと同じような事を言い出す人がいます。

でも、タレント、芸能人というのは基本的には自己の努力で成長するわけで、そこに対価を払ってくれるお客様に感謝はもちろんしますが、過剰な要求をするのはそのタレントなり芸能人なりの提供している芸が、対価に見合っていないと言うのと同義です。

仮にそうだとして、お金を払ってからの後出しジャンケンのような要求は、コンビニで物を買って、物の対価として支払った代金のはずなのに、それ以上のサービスという商品を要求するクレームと同じ。

こういった事は、お金を払う相手を自分より下に見ている事から生じやすくなります。


自分が学んだ英国でこういった事は、ほとんど聞くことがありませんでした。

プロになるための訓練が過酷であることも、その訓練を受ける土俵に乗るだけでも大変なことも、その土俵に乗ることが出来て過酷な訓練を受けたとしても、挫折する人、プロとして仕事を取ることが出来ず諦める人が沢山いる世界だと社会的に知られているからです。

日本だと「演劇をやってる」と言うと、バカにするか憐れむように「劇団員?」等と言われることもありますが、向こうでは有り得なかった反応です。

目指して訓練していると言うだけで、果敢なチャレンジャーのように扱われ、プロになる訓練を受ける学校に通っているとなると、まわりが協力的になったりします。

自分の住んでいた所の大家さんも、学校に受かってからは、試験の前に部屋で歌ったりすることを好意的に受け入れ、そんなことをするとは思わず部屋を貸したはずなのに、試験前の週末に「今日は終日出掛けるから、思う存分やってていいよ」なんて言い出した程。


こういった社会の中での見られ方というのは、そこに関わる人達の努力でしか変えられないと思います。

芸能を見る側の人達に「努力して実力で勝負してる人もいるから見方を変えて」なんて言うのは無駄です。

分かってる人達はちゃんと分かってますから。

全体がそうならないと、一部が頑張ってても結局トータルで見たらそういう世界、と見られてしまうのは当たり前。

全体が変わらないとダメなんです。



ジャニーズの問題は性加害問題から始まりましたが、それを機にメディアも含めて芸能界の膿が表出しはじめたことは、業界にとっては有り難いことであるはずです。

私利私欲のためだけに業界を利用していた人達には、面倒に感じられるでしょうが。。。

ここから先は、声を上げた性被害者への補償を含めた配慮と、太りすぎた仲介業者の業界を悪化させる立ち回りとそこへの悪しき忖度問題については、別の問題として、どちらも重視し対応、改善して行くべきです。

そして、ジャニーズに関わらず、権力によって搾取された被害者や、圧力を加えられ排除された人達または排除する側に回った人達、権力への忖度で道を閉ざされた人達、する側に回った人達で、被害を受けた側は全ての膿を表に出すことが出来るようになることが求められるでしょうし、加害の側に回った人達はそれらを受け止め、楽して利益を得られないのは困ると思うなら身を引くべきですし、そうでないなら、芸能界を本当のエンタメと表現芸術の世界にすべく動くべきです。


ジャニーズだけで言えば、圧力や忖度問題で色眼鏡で見られるタレントも被害者であり、また圧力や選択の恩恵を受けた加害側にいたという、難しい立場にたたされていると思います。

が、彼らが主導して圧力や忖度を生んだと言うことは無いわけで、努力をしていないわけもありませんから、ここまでの努力が、この問題のせいで無にされることはあってはいけないと思います。

既に立場を得ている人達は、ここから何が出来るかですし、まだ立場を得られていない人は、してきた努力を無駄にしない選択をして欲しいと思います。

事務所の威光に甘えて好き勝手やってきた人は、淘汰される可能性もあると思うので、襟を正し足元を見つめ直す時だと思います。



それにしても、一企業としての一大事にタレントが矢面に立つって異常です。

タレント以外の経営陣や社員が元代表以外は一人も、一度も表にも出てこなければ、コメントも出さない。

タレントばかり、表に出ることは仕事にせよ、コメント出して。

元代表の手紙も、何でタレントに読ませたのか?

普通は弁護士だと思うのですが。。。

ジャニーズって、タレントが中心になって社員動かして運営していた事務所なんですかね?

企業として随分と卑怯だし、タレントが可哀想だなと、個人的には感じてしまいます。

タレントを代表にするなら、最低でも問題に解決の糸口が見えてからだと思うのですが。。。



先日千秋楽を終えた『ターニングポイント』に関連し、パンフレットのコメ欄では書けなかった私のターニングポイント(転機)について。



私は小学校に入る少し前にバレエを始め、その後演劇も始めて英国に留学しますが、今も舞台に立っているのはいくつかの転機があってのことです。


私がバレエを習っていて、一番にインパクトを受けたのは、榊原郁恵さん主演のピーター・パンでした。

タイガー・リリーがとにかくカッコよくて「私もタイガー・リリーになりたい!」と思ったのが、1番。

ただ、この頃は、舞台でタイガー・リリーを演りたいのではなく、本当にタイガー・リリーになりたかったので(まだ小1とかでした)、目指すのは舞台ではなく、タイガー・リリーそのものでした。

舞台に出る人になるという考えまでは及ばなかったんですよね。

ダンスを頑張るキッカケになりました。


実は私は、小学校に入った頃とても内気で、人前で話をすることさえ可能な限り避けたいと思っているような子どもでした。

小学校の朝の会で何か話さなくてはいけない場面で、泣き出して話せなかったことも。

バレエの発表会なんかでは人前に立つわけですが、喋らなくて良いと言うのが、ダンスに惹かれた一番の理由です。

この内気だった頃の「喋らなくて良い方が向いてる」と言うのは、大人になってからセリフのない芝居に戸惑わないという利点を生んでくれました。


演劇との出会いは、小学3年生の頃。

クラブ活動が始まった時のことです。

同じクラスの友達に誘われて演劇クラブに入りましたが、その当時「演劇」という言葉の意味も良くわかっていなくて、何をするクラブなのかも分からず入りました(笑)

何をしたのかも良く覚えてません。


それで中学でも演劇部に入ってみるのですが、すぐに辞めます(笑)

実はそこでは初めての発表の時、何故か主役の代役に選ばれてしまいます。

代役だったので実際に本番で主役は演じませんでしたし、本来の脇役の方でいきなり道具を持ち忘れて出ると言う失態をかましました。

が、話すのが苦手だったのに、書いてあるセリフで尚且つ自分ではない人としてその場にいるのなら、案外人前でも平気、という経験をして不思議な感覚を味わいました。

これは一つのターニングポイントだったと言えます。

辞めたのは、同じクラスで一緒に演劇部に入った子とケンカして、その子を中心にみんなにシカトされるという状態になり(もしかしたら、いきなり主役の代役抜擢の嫉妬もあったのかな?)、「ウザッ」と思ったから。

その後は、好きな男の子の部活動を見学しやすかった美術部に入って、「外でスケッチします」と言って、好きな子のいるサッカー部ばかり見てました。

演劇からは離れますが、舞台に立った時の楽しさは覚えていたため、中3の頃親に内緒で日本テレビ音楽学院という養成所に応募します。


書類は通ったのですが、親を説得しきれなかったこととオーディションが学校行事と重なった為辞退。

そこで作戦を練り直して数カ月後に再度チャレンジ。

今度は親を説得しオーディションに行くわけですが、この時の親との約束は「特待生で受からなければこの世界は諦める」という、なかなか高ハードルなものでした。

ちなみに、日本テレビ音楽学院という養成所を選んだのは、俳優科や歌唱科の他にダンス科があったこと、ダンスの講師が著名な振付家である土居甫先生だったこと、どの科に入っても演技、歌、ダンスの全てを学べるという環境だったからです。

実は歌も好きで、小学生の頃担任の先生に「智水ちゃんは歌手になったら良い」と言われたのですが、中学に入った頃、声変わりでかなり声が変わり、自分の声がコンプレックスになりました。

女性としては、しっかり自覚できるレベルで声が低くなりました。


余談ですが、『ターニングポイント』の楽屋で川原美咲ちゃんがスマホで聞いていた日本語の『美女と野獣(ポット夫人の歌。バージョン不明)』を「明石さんが歌ってるみたい!」と言って、他の若い子達もそれに賛同していて驚きました。

そんなふうに聞こえているのかと。

大人になってしばらくしてから、先輩の女優さんに声を誉められた事があり。

声変わり後の声コンプレックスは少し薄まりました。


話は戻り中3の卒業直後、オーディションに行き、面接で「演技の先生たちがとても良い点を付けてます。俳優科なら特待生で取ります」と言われ、俳優科の特待生として合格します。

何とか約束クリア。

ここも一つのターニングポイントですね。



俳優科で入所後、2年目からは複合科(俳優科と歌唱科を兼ね、受けられるダンスレッスンが増える)に移行しました。


当時ダンスは初級、上級共にメインのレッスンを土居甫先生が受け持っており、途中から「上級の方も出なさい」と先生に言われた時は本当に嬉しかった。

俳優科の特待生なのに、ダンス中心にレッスンを受けて、俳優科のレッスンをサボって怒られたりしていました。

ここでは発表会のようなものがあったのですが、土居先生が振付の作品が3つあり、その内初級の子が多く出る作品と、初級と上級混合の作品2作品に出ることになったのですが、ここでさらなるターニングポイントが訪れます。

初級と上級混合の作品において、演技が必要な役から上級の先輩が突如外され


「トモ、お前がやりなさい」


と言われたんです。

芝居だけでなく、パートが変わるためダンスも上級よりに移動です。

稽古の間、緊張と出来なさで毎日肉体的にも精神的にも疲労困憊。。

何か食べたら吐いちゃうから食べられない、水さえ満足に喉を通らない。

そんな時に土居先生に


「キツイだろ?でも、これを乗り越えたらそれが自分の自信になる。あの時出来たんだからと思えるから頑張れ!」


と叱咤激励していただき、本番で踊り終わった後先生に


「良くやったな」


と頭をポンポンしてもらった事は、その後英国に行ってから厳しい先生にあたってもへこたれない私を作る大切な要素になりました。

本当の意味でエンタメの世界に身を投じる覚悟をする為のターニングポイントは、土居先生との出会いでした。


土居先生にはもう一つ大きな思い出があります。

怪我をしてロンドンから戻ってきた後、それでも舞台を続けるのかどうか悩んで、日本テレビ音楽学院を訪ねたことがあります。

土居先生のレッスンをスタジオの外から見て、レッスンが終わった後声を掛けようとしたのですが、黙って私を見る先生の目が


「泣き言なら聞かないぞ」


と言っていました。

結局何も言えませんでしたが、言葉はなくともその目が、私が舞台を諦めることを止めてくれました。

ロンドン行きを決める前、先生には話をしていて、こう言われたことがあります。


「お前には女が捨てられるか?」


これは先生の名誉のために補足しますが、セクハラじゃありませんし女性蔑視でもありません。

甘えを捨てられるかという意味です。

女であることが甘えるための方便として使われることも少なくなかった時代です。

その時にYESと答えた私が、泣き言を言いに来て聞いてくれるわけ無いですよね。

お前、覚悟して海外にまで行ったんだろ?と先生は言いたかったんだと思います。


私が思いの外土居先生の影響を強く受けていると自覚したのはこの後です。

諦めるのを止めて出た舞台で、先輩の俳優さんに言われました。


「お前元バーズだろ?すぐ分かるよ。踊りが土居だもん。」


ロンドンにまで行って踊りを習ってきて不思議ですが、そもそも厳しい土居イズムに育てられたからあっちの学校にも受かったんだと、その時に気付きました。


土居先生と言うのは、生徒仲間からするとお父さんみたいな人で、先生の最後の誕生会、お葬式の後に元生徒と先生のご家族でやったのですが、養成所時代が被っていて参加した数人で、全く同じ経験をしていたことに驚きました。

先生が亡くなったと知っても、実感がないというか「悲しい」とか「淋しい」という、意識できる感情は浮かばないのに、ただただ涙が溢れて止まらなくなって困ったことが何度もある。

これが、本当に大切な人を亡くした時の感覚なのか、と。



ロンドンでの経験はとてつもなく大きかったのですが、その前後で私を支えてくれたのは土居先生の存在でした。

厳しいと書きましたが、イタズラ好きでもあって、新参者だけに一番早くレッスン場に行っていた私に


「背中に乗って」


と、子供の頃親に頼まれたような背中ふみふみマッサージを求められ、やってる内に先輩達が来て


「先生、何やってるんですか?」


と聞くと


「何だよ。せっかくトモと二人っきりだったのに」


と真顔で答え、オロオロする私を見てニヤリと笑う。

感覚としてはドッキリ仕掛けられた感じです。

嫌味でも、いやらしさも無く、テッテレー!という感じ。


あの頃があったから、私は英国で一人でも、厳しい状況にぶつかっても耐えられたし、今でも舞台に足っています。

そうそう、先生のレッスンでは振付の途中に空白を作って2小節程度を自分で振付て、それぞれソロで繋いでいく、なんて事もありました。

ロンドンでのオーディションで、振りが分からなくなっても即興で踊れたのはこの経験も大きいと思います。

しかも、そのおかげで受かってますし、私のターニングポイントには常に先生の存在がありました。

最もエンタメというものを考えていた身近な存在が、先生だったと思います。


有名かどうかなどで人を選ぶことがなく、自分が好きかどうか、自分が面白いと思うかどうかで物事を判断する先生でした。

だからこそ、先生にお世話になった有名人が何人も来てしまうような葬儀でさえ、弔問客の有名無名を区別するVIP席は作られなかった。


英国に行ったことも、そこでの出来事にも小さなターニングポイントは色々あるのですが、大きいのは土居先生一択です。

そもそも、人生なんて何においても自分の選択であって、小さな選択が後に大きな分岐点であったなんてことは珍しくありません。

そういう意味では、人生はターニングポイントの連続ではあると思うのですが、後で心に残っているのは、そこにいた誰かの記憶なのではないかと思います。

『縁』というやつでしょうか?

これからも大切にしたいと思います。


前回に引き続き、舞台を観てくださった方に聞かれたことシリーズ!

最も答えやすい質問No.1で、それ関連のネタも豊富だったのは

「真っ暗になってから人がいなくなったり、出てきてたり。どうなってるの?」


先ず、私は基本的に舞台にお客様を呼ぶとき、出来れば関係者は呼びたくないと考えている役者です。
日本の舞台は、役者に集客を求めるため、申し訳ないと思いつつも同業者に観に来ていただくことが多々あります。
でも、理想は同業者ではない方。
舞台関係者ではない一般の方に多く観ていただくのが一番だと考えています。
一般の方に多く観て頂いて、舞台の魅力、ライブの芝居が持つ魅力を知っていただきたい!
身内の中でのチケットの売買は、日本の舞台では当たり前です。
良くない風習です。
でも、それが仕方ないような状況が、悲しいかな現実です。
この話はまたどこか別の機会にでも…


舞台関係者ではないお客様には、暗転中の出来事が気になるようです。
答えはシンプル。
蓄光テープという、明かりを吸って暗い時に光ってくれるテープを使っています。
役者はこのテープを頼りにして、暗闇の中動いています。
舞台の袖と呼ばれるステージ両脇にある幕の奥には、暗闇の中からはけてきた役者のために表には漏れない明かりを設置していたりします。
小さな劇場では袖明かりと呼ばれる、小さな明かりを利用したり、少し大きめの舞台になると、LEDライトの細い管を床に這わせていたり。
舞台に向かって左(下手)と右(上手)で、赤と青のように色の違うLEDを這わせるのが一般的です。
真っ暗な中、役者は赤い方とか青い方とかを目指して去っているわけです。
舞台監督さんは小さなトーチ(懐中電灯)を持っていて、暗闇からはけてくる役者のために袖中で床に光を落としていてくれることもあります。
私も、舞台で袖明かりが少ない時には自前のミニトーチを持っています。
舞台上に明かりが漏れるのを防ぐため、ライト部分に青いセロファンを貼って使っています。

蓄光テープは、舞台が明るい時にその明かりを吸込み、真っ暗になった時に光ってくれ、舞台上に段差がある時にはその際や、障害物になるもの、舞台上の椅子や机といった道具やそれを置く位置、いわゆるバミリ等に貼って、事故を避けて役者が移動することや、道具の正しい移動を助けてくれています。

この蓄光テープですが、とても小さくカットしたものをポイントごとに貼るので、鳥目の人はあっても見えないことがあります。
そんな時にはどうしているか?
私の経験上、見える人に手を引いてもらっていました。
なので、舞台の暗闇の中では、万が一間違えで明かりが付いてしまったら、敵役同士が仲良さそうに手を繋いで歩いている姿が展開されていたりすることもあります。
過去には、役者が1列に並んだ状態で暗転になった後、全員手を繋いで仲良く一列にはけたなんてこともあります。
それが出来ない場合は、暗くなったらこの方向にどれくらい向いて何歩くらいとか、事前に記憶しています。
とにかく舞台袖の入口が見える角度まで移動することが必要です。
稽古でですが、それに失敗し、袖幕にくるまって暴れていた役者もいました。
袖幕は黒いのでそこに突進してしまうと、予想外に本物の闇を経験することになります。。。

自分一人で舞台の上でスポットを浴びているところからの暗転は、自分自身が明かりの方を見ていることもあり、暗くなった直後は蓄光テープが見えづらくなります。
照明さんによっては、このようなケースでは真っ暗にする前に一度照明の明るさを上げることもあるので(いわゆる目眩まし)、その場合はなおさらです。
お客様にかけた目眩ましは、その明かりを浴びている役者にもかかっています。
当然、暗くなった後目が慣れるまでに時間がかかり、蓄光テープも見えづらくなるんです。
その為、暗くなる前に横を向いている役者は、客に見えない方の目を閉じて、片目だけ暗さに目を慣らしていたりすることもあります。

便利な蓄光テープですが、貼りすぎると逆にどれを見て良いのか役者が迷う原因になったりします。
客席からも、暗転中にキラキラ光って見えるため、役者達はこの状態を『プラネタリウム』とか『星空』と呼んでいます。良くない意味で。
なお 暗い中では蓄光でなくとも白は目立つため、舞台の袖口の床には白いテープを貼ったりします。
暗い中でも真っ白な衣装の人は客席から移動が見えたりします。
一緒にはける役者が白い衣装を着ていたら、それだけでいい目印です。

さすがに目印があるからとはいえ暗闇は怖いので、舞台では本番前の場当たりという稽古で、転換稽古と呼ばれる稽古をします。
場面が変わるために真っ暗になる時の移動を確認する稽古です。
先ず明るい中で導線を確認し、その段階で蓄光テープのある場所を確認して、必要なところになければ舞台監督さんに貼ってもらってから、暗闇の中で動く稽古です。
場当たりでは、早替えなどもチェックされるため、はけてすぐ着替えのために楽屋に戻ったら、暗転で問題が生じていて、着替え直してやり直しなんてことも良くあります。
そのせいなのか、役者は着替えが早いです。

私が初めて演出した『サーカス物語』では、演出として、この真っ暗闇になる暗転は使用せず、ブル転と呼ばれる、暗いブルーの照明を真っ暗にすることに代える転換方法を用いました。
このように、真っ暗闇にならない舞台というのも存在はします。
私がこの時暗転を使用しなかったのは、物語の中で物語が劇中劇のように進行する作品だったため、転換までを演技して見せる演出にしたからです。
それ以外の理由でも、例えばお年を召した役者さんが多く安全のためにブル転にすることなどもあります。

しかし、真っ暗闇になる暗転のある舞台では、リハーサルでも本番でも、事故が起こりやすい状態だけに面白いことが沢山起こります。

リハーサルで、明かりがついたら人は正しい場所にいたのに、出てくる道具、テーブルとか椅子とかが、あさっての所にいたなんてことは稀にあります。
私が経験した中では、暗闇の中で分からなかったけど、暗い間に出ているはずのちゃぶ台が、明かりがついたら無かったということが、10代の頃出た舞台でありました。
明かりがついた時にあるべきものがなかったので、ちょっとフリーズしかけました。
他にも、先に書いた転換稽古中、暗闇の中でゴン!という音と「イテッ!」という声が聞こえて笑ってしまったとか、暗い中退場しなければいけなかった役者が、目印の蓄光テープを見誤って舞台から落ちる等、ハプニングは起こります。
舞台監督さんは暗視カメラでチェックしていますが、いなくなったから退場したと思って照明さんに次の場面の明かりを点ける指示を出し、明かりが付いたら舞台から落ちた役者さんが舞台によじ登ろうとしていたとか、珍しいケースではありますがありました。
次の場面に出演していた役者さんは、その場面にいないはずの人物が舞台に下からよじ登ってくる姿に、相当焦ったそうです。

私は若い頃鳥目気味だった為、暗転は恐怖でした。
今は意外と見えるようになり、なんとかやっていけています。
食べるものに気を使って、夜盲症の対策に努めました。
食べ物って大切ですね。

話は変わりますが、善光寺のお戒壇巡りに行った時、闇の中でも右手を壁に付けていれば大丈夫なのですが、完全に闇で、それ以降舞台の暗転をそこまで闇と感じなくなったと言うことがあります。
舞台前に見る夢の話みたいですが、まだ舞台の暗転の方が見える。みたいな(笑)
そんな経験ばっかりですね、私。

暗転と言えば、暗闇の中での事故で肋骨にヒビが入る怪我を本番中に経験したこともあります。
舞台というのは、意外にも危険と隣り合わせです。
その為、集中力が重要です。
そのせいか、結構ベテランの役者さんで若い頃はTVで活躍したなんて方が「舞台は怖い」というのも聞いたりしました。
やり直しの効かないライブと言うだけでも、スリル満点ですからね。

でも、舞台の人間としては、そのスリルこそが面白いと思ってしまいます。
毎回ドキドキしますが、だから面白いというところにハマると、舞台から抜け出せなくなります。
このライブならではのドキドキは、舞台を観るのが好きな人にもあるのではないでしょうか?
同じ舞台を複数回観た時「この間とここが違った」なんてのを見つけるのもライブの楽しみです。

今稽古している舞台、『ターニングポイント』はダブルキャスト構成なので、2つの組を見比べるというのも楽しいと思います。




http://confetti-web.com/turning-point2023

同じお芝居でも演じる人が変われば、随分と印象が変わるものです。
再演物でもあります。
同じ作品でも、ライブなので毎回どこかが微妙に違う、キャストが変われば更に変化がある。そんなふうに生きているLIVEの良さが、舞台にはあります。
客席の空気でも舞台は変化します。
観客は傍観者ではなく参加者にもなっている。
それが舞台の最大の魅力です。
舞台上の役者は客席の空気を常に感じていますので。


海外はロングランなので、キャストチェンジのたびに同じ作品を観に行くと言うのが楽しみでした。
お気に入りのキャストに出会うと、「次もこのヒトで観たい!」となるもので、そういう手紙を書いたこともあります。
オランダの舞台に出演していたカナダ人の俳優さんが素晴らしく、「次はいついつに行く予定ですが、未だその時のこの俳優さんは出ていますか?」という問い合わせの手紙を劇場に送ったら、その俳優さん本人から、『ミス・サイゴン』というミュージカルでしたが、オランダキャストのCDのジャケットに全キャストのサインを入れたものと返事が届き「君が来てくれたときにはまだ出ていなかったけど、CD出たので送ります。次来る予定だという時にも出ているので終わった後楽屋口に来てください。ぜひ会いましょう」と。
ビックリですよね。
オランダ人の友人の家に泊まって観に行っていたので、その次も2人で観に行って楽屋口まで行き、楽屋でお芝居の話しなど色々聞いたり、その俳優さんが「彼女は日本人だけど、今ロンドンで舞台の勉強をしていて、わざわざロンドンから来てくれたから見せてあげて」と終演後バックステージツアーまでしてくれました。

聞けば、オランダ語も満足に話せずホームシックになっていた時、劇場の人が「こんな手紙が来てたぞ」と励ますために私の手紙を見せてくれて元気が出たので、ぜひ会いたいと思ってくれたそうです。
彼はトゥイという役を演じていて、『ミス・サイゴン』のコンプリートレコーディング、各国の良いキャストを集めたCDでもトゥイ役を演じています。
『レ・ミゼラブル』のマリウス役でデビューし、歳を取ってからは『Cats』のオールドデュトロノミー役などを演じている、実力派の俳優さんです。 
わたしが観た中でのベストトゥイです。
興味のある方は、コンプリートレコーディングを聞いてみて下さい。

話はズレましたが、舞台という世界は、常に観客もそのピースの一つ。
観に行くと言うだけでなく、その空気に参加するという気持ちで来てもらって、喜ぶ役者はいても困る役者はいません。
一緒に同じ空気の中に参加して欲しいと、舞台役者はいつも思っています。
結構体験型エンタメなんですよ、舞台って。