SHOWBOAT~舞台船~

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   明石智水公式Blog

  役者として舞台を中心に活動している明石智水の仕事の事だったり
  日常の事だったり、考えていることだったり。。。徒然草です(*'‐'*)

6月に久し振りにライブハウスでのジャズバンドとのコラボ公演をやることになりました!


今回はオペラ『道化師』を歌無しのお芝居で、4人の俳優で演じられるようにアレンジ。

ジャズカルテットの生演奏とともにお送りします🎺


会場はお酒からコーヒーまでお楽しみいただける、タコスの美味しいライブハウスです。

出演者の中には終演後にタコス食べたいと狙っている人もいるほど美味しいんです🌮


お芝居の前後にはジャズの生演奏を堪能出来るライブタイムもご用意しています。


お芝居と音楽、そして美味しいお酒やコーヒー、タコスを一度に楽しめる機会をぜひお見逃しなく!






『パリアッチョ〜喜劇役者の素顔〜』


6月21日 18:30〜

      22日 13:00〜

      17:00〜

(開場は開演の30分前)


企画•脚本•演出 

明石智水


出演

樽屋伸(トランペット)

高野真吾(ドラム)

羽立光孝(ベース)

小山大介(ギター)


中村こずえ

近藤眞一(ダブルキャスト)

藤元高之(ダブルキャスト)

石井浩美

村木開


✨ご予約はこちらから✨

↓↓↓

https://ticket.corich.jp/apply/314356/



チラシやチケットを作って入稿したりと言う作業を終え、一段落ついたような気がしてしまっていますが、稽古もまたまだこれから。

この週末にでも劇中の芝居とバンドとの絡みについてバンマスと打ち合わせるつもりです。


今回は過去2回からバンドの構成を少し変え、ピアノの代わりにギターが入ります。

旅の一座の楽隊として芝居にも参加するミュージシャン達と役者陣との絡みも乞うご期待!




これは、実は演技を生徒さんに教えている時にとても気になって指摘する事も多い部分なのですが、最近プロの俳優さん(主にTV)やナレーション、声優さんでも良く起こっており、大変気になっている現象です。


日本語というのは助詞という文法的な意味を持つ語を接着剤のようにして名詞や動詞などと繋ぐ、膠着語という言語です。

英語の前置詞に対し、日本語の助詞は後置詞という位置付けで、多くの場合で助詞の文法的意味はその前の語に掛ります。

助詞の中には格助詞と呼ばれる、前後の語の関係性を表す助詞があり、これらの格助詞は、その関係性によっては省略が可能です。


例えば


「私、明日仕事休みます」



「私は、明日仕事を休みます」


の格助詞「は」と「を」が省略されています。

こういった省略可能な格助詞は、無くても意味が通じるので、略さなかったとしても特別な文脈がない限り、前後の語より強く言うと不自然です。

芝居においては、立てることで別の意味を想起させてしまうため、客に不必要な情報を与えることにもなってしまう上に、その意味が不要なものだと分かりやすいものについては「素人くさい芝居」に映るため、レッスンでは注意して不要な助詞立てをしないよう、気を付けて指導しています。



省略出来る助詞を立てた時に生まれてしまう別の意味とは、例えば「を」の場合「私が休むのは仕事であって、他の何物でもありません」というような意味合いが乗るという具合です。

ちなみに「は」の方は「私」ごとセットで略して問題ありませんが、略さない場合「は」を強調してしまうと「他の人は休まなくても私は休みます」と言う意味合いが乗ってしまいます。

もちろん、文脈によって立てた方がいいシチュエーションもあるでしょうが、そのような文脈に無くその意味合いが不要な情報となる場合は、立てることにより「台本を良く読めていない(文脈のある無しが理解できていない)」であったり「いかにも台詞を読んだだけの素人芝居」と映りやすくなります。


この、助詞を不必要に立てるという現象は、芝居素人に起こりやすいというのも事実です。

台詞をしっかり表現しようと意識し過ぎてしまい、本当に伝えるべき情報ではなく、不必要なところを立ててしまうのはキチンと言語を学んだことのない人には比較的良く起こります。

おかしな節を付けてしまうのと少し似ています。


おかしな節回しとは、通常のイントネーションとは違うイントネーションのことです。

通常、日本語のイントネーションは自然下降と言って

、トータルで言うと高い音から低い音に落ちていきます。

疑問文は文末が上がります。

文章の中で細かい上下はあってもトータルではこの自然下降です。

お芝居での台詞回しは、セリフを歌う必要がある時もあります。

例えば、時代劇での渡世人の仁義や、歌舞伎なんかも普通に喋るのではなく歌うような節回しをする事がありますが、これを「セリフを歌う」と言います。

そう言った芝居や場面でない限り、余計な節回しは極力避けます。

通常立てない助詞を立てる事によりイントネーションとして不自然になる現象を悪い意味で「セリフを歌う」と言うこともあります。


セリフの中でその時の展開に大きく関わるキーワードや、コメディであればその後の笑いに関わるフリになる言葉など、お客様が聞き逃してしまうと楽しめない大切な情報というのもありますので、その言葉を印象付けるという意味でその語を「立てる」または「粒立てる」必要があることもあります。

そのように演出家が指示することもありますが、私が教える時には、台本を読む時にそこまで読めるようになることを目指しています。

特定の言葉を立てると言っても、必ずしもその言葉だけ強くいうという事ではありません。

私達が普段の生活でもやっているように、その語の前に間を作ったり、その語をゆっくり言ったり、あえて声をひそめたりと言った手法も取ります。

これをプロミネンスと言いますが、その状況や演じるキャラクター等を考慮し、どういった手法を使うか選ぶのも役者の腕です。

その演技上で必要なプロミネンスを正確に理解していないと、セリフにおかしな節回しが付いたり、変なところを立ててしまったりします。

そのへんなところを立てておかしな節回し、悪い意味でセリフを歌っているように聞こえる代表例が、不要な助詞立てなんです。


演技を勉強している人には本当に気をつけて欲しいポイントですが、TVのナレーションでさえこれが散見されるというのは日本の芸能界が、言葉を専門とする分野でさえ、国語に無断着である証左であろうと思います。


最近は出版物でさえ助詞の間違いが目立ちます。

もしかしたら、普段間違えて使っているがゆえに、台本に書かれた助詞に違和感があり、そこに意味があるように感じて立ててしまう人もいるのかも知れません。



とはいえ、言葉で何かを伝える時に重要なのは、文法的な意味を示す助詞よりも、名詞や述語の方である確率が高いのは日本語に限った話ではありません。

日本語のような膠着語の要素も併せ持つ英語が、日本人には最も分かりやすい外国語だと思いますが、英語に慣れていない人は、英語話者が強く発音しない語を聞き取ることが出来ず、これを無理して何とか聞き取ろうとすることで全体を理解出来なくなることということが良くあります。

英語では、基本的に推測可能な語は強く発音しません。つまり立てる必要のない語は立てない。


例えば


「I'm going to shcool」


と言う時の「to」はかなり弱く短く発音されます。

これは、聞こえなくてもこう言っていると容易に分かる(この文章で「to」の位置に入り得る前置詞が他にない)からですが、この「to」という前置詞が、日本語の助詞に当たる部分です。この「to」を他の語より立てられると、文章の内容よりも、何故強調したんだろう?という印象を強く与えます。

日本語にすると


「私は学校に行く」



「私は学校"に”行く」


と言うようなもので、日本語でもこの文章で「に」だけを立てることには全く意味がありません。

「私」「学校」「行く」が聞こえれば意味は十分推測できるからです。


意味のない助詞立てがいかに奇妙な現象であるか分かると思います。


これから演技の勉強をする人や、今やっていて台詞回しがおかしいと注意されることのある人は、この不要な助詞立てをしてしまっている可能性がありますので、少し気にしてみてください。

なお、節回しを注意される。

セリフを歌うなと言われることのある人は、無意味な助詞立ての他にも、先に書いた自然下降イントネーションを意識してみてください。

セリフを言う時に文章のアタマの音が低く、そこから音が上がるように、クレッシェンドするような話し方になっている人がそういった注意を受けやすいです。

私も生徒さんにこの点を注意することが少なくありません。

日本語の自然なイントネーションは、文の頭が最も高く、最後が最も低い。

間に小さな波はありますが、冒頭より音が上がることは稀。

この自然なイントネーションを無視すると、不自然であるが故に、いかにもセリフを言っている感が生まれてしまいます。

これが素人くさい台詞回しです。


先月出演した舞台でも演出家に

「芝居では名詞と動詞を立てる」

と指導された若手がいました。

若手がこの罠に陥りやすいのは、演技であることを意識しすぎてセリフを喋っているせいだと思います。

普段の自分はそんなイントネーションで話しているのか?

もししている場合は、自分の周りは皆そんなイントネーションで話しているのか?

と言うことを見直してみると良いと思います。


初めの方で「声優さんにも」と書きましたが、私は漫画もアニメも好きなので良く読んだり見たりする方です。最近見た物の中では『葬送のフリーレン』のデンケンのセリフにこの不要な助詞立てが目立ちました。

目立ったというのは、ずっとそう話しているわけではなく、たまにピョコピョコ文脈上不要な助詞立てがあったので、落ち着いた話し方だけに目立ってしまったと言う意味です。

素敵な声でしたが、恐らくデンケン程の年齢ではない、デンケンよりはかなり若い方が演じていたのではないかと感じました。

デンケンの年齢と宮廷魔法使いと言う、雰囲気的な重厚さを表現しようと意識しすぎていたのではないかと思います。

あれだけ素敵な声ならプレーンに話した方が重厚感が出るのですが、文脈的に不要な助詞立てが目立った為、声的に若手であることはなくとも、デンケンよりはかなり若い人がやっていると言う印象を強く受けました。



この不要な助詞立て問題は、台詞を読む時に癖になってしまうと無意識にやってしまい矯正するのに時間がかかるので厄介です。

若手の方は今から意識して、もししていたら絶対に直した方がいいですよ。



3月29日から公開された『オッペンハイマー』、日本で公開されたら見ようと決めていたので、初日にしっかり観てきました。






180分の長尺でしたが、テンポ良く時間が行き来するのと冗長に感じる所が一切なく、一瞬も目が離せませんでした。

英語が理解出来て良かったと思いました。

字幕を追ってしまって見逃す所が出るのは嫌だったので。


結論から言うと、日本公開前にされていた「広島や長崎の原爆被害が表現されていない」と言った批判については、この映画をしっかり観ていれば、理解しようとしていれば出てこない批判かなと思います。

一場面を切り取って、もしくは作品のテーマを理解しょうと努めることもなく、被害者意識から「これが無いとダメ!」と言うのはあまりにも過剰反応だし独善的。


ここから先はネタバレを含みます。

まだ観ていないのでネタバレは読みたくない!と言う方は読むのを避けてください。


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この作品が見せている核兵器の恐怖は、広島や長崎以上の物です。

トリニティ実験までの間に何度も出てくる「Nearly Zero(ほとんどゼロ)」という言葉は、その低い可能性が起こってしまった場合を想起させ具体的にイメージさせる方向に、表現されています。

それは、世界の破壊です。

原爆制作に当たり、大気への延焼、引火の可能性がNearly Zeroと語られるのですが、地球を覆う大気への延焼、引火は世界が広島、長崎のようになる事、即ち世界の破壊を意味します。

制作チームで計算して出された結果として語られ、それはトリニティ実験直前のオッペンハイマーへの「世界を破壊しないでくれよ」というグローヴスのセリフや、人類初の核兵器実験でボタンを目の前にするスタッフの動揺からも、核兵器を詳しく知っている人達だけが知っている恐怖がよく表現されています。

何も知らず実験の成功に歓喜する人達の中にあって、知っていた者、恐怖していた者だけは喜ぶ事が出来ない。


そして、広島への投下予定日が知らされていたにも関わらず、その前にも当日にも何の連絡がないことに焦りや苛立ちを隠せないオッペンハイマーが、広島に原爆を投下したというトルーマンのラジオ演説を聞いた時のリアクション。

そのニュースを聞いて歓喜する人々の前に立ったオッペンハイマーは、喜んで声を上げる群衆の顔に広島、長崎の被害のイメージを見る。

喜んで笑っているはずの人の顔の皮膚が溶けて剥がれ落ちるようなイメージ。

喜んでいるはずの人々が絶望して泣いているイメージ。

歓声は耳に入らず、本来起こっている現実に合わせるように勇ましい事を言っても、オッペンハイマーの中の被害のイメージは消えないし、群衆の歓喜の声も耳には入らない。

そして、広島、長崎の被害が映し出されなかったと批判される、被害のフィルム見る場面。映像は常にそのフィルムを見る客席が映されており、そこには他の人と違い一人だけスクリーンを見ず目を伏せているオッペンハイマーがいる。

この場面でそのフィルムを映してしまえば、あまりの悲劇に目を逸らしたように映ってしまう。

でも、この映画の中でのオッペンハイマーはそうではない。

フィルムなんか見るまでもなく、作った本人として既に頭の中に被害のイメージは見えている、もしかしたらフィルム以上の物が見えている。だから見ない。

私には沿う感じられました。


というのも、この映画の序盤に、実験は苦手で理論物理学者となるオッペンハイマーの若い頃のイメージの世界が大きく表現されます。

オッペンハイマーの頭の中に強くあるのは数式ではなく、理論という言葉から連想する言葉でもなく、イメージ。頭の中の映像。そのイメージ力の強いオッペンハイマーの頭の中には、フィルムを見る前から被害(もしくはそれ以上のもの)が映像となっていることは示唆されているので、映画を見る側は示されるそのイメージの入口を見て、更にその先をイメージすることを求められます。

演出上、この映画でリアルな広島や長崎の被害を映すことに意味は無いと私は思いました。

オッペンハイマーの頭の中にあるイメージを、与えられた数々のヒントから見る側が想像する事に意味があるんです。



確かにこの映画には、既にドイツが降伏した状態ながらオッペンハイマーが「まだ日本が残っている」として実験を推し進める場面が出てきます。

ここだけ切り取れば批判する人もいるかも知れませんが、ここで日本の降伏に核兵器を必要としないという意見を受けた時、オッペンハイマーはそこに真っ向から反論はしていません。

論点をずらして実験計画を進めるのです。

が、反対派から署名を求められたときのオッペンハイマーは大いに動揺していました。

「日本」はオッペンハイマーにとって実験遂行の為の方便でしか無いと感じる演出でした。



映画ではなく実際の話しとして、オッペンハイマーの弟は兄に関して、現実では使えないような威力のものを見せて戦争は無駄だと思わせたかった、といった主旨の話をしていたそうですが、この要素はこの映画でも表現されています。


原爆開発段階から出た水爆の意見にも積極的ではなく、実験遂行には積極的に見えながらも、Nearly Zeroについて科学者ではなく軍人の立場でマンハッタン計画を指揮していたグローヴス中将に伝える。

映画ではマット・デイモンが演じていましたが、史実では原爆投下の張本人はトルーマンではなくこのグローヴスという話もある人物です。

ルーズベルトの死によりトルーマンが大統領になった時には、既にマンハッタン計画は止められない所まで進んでおり、予想外のタイミングで大統領になったトルーマンが必要な情報を把握するのにアップアップだったことはグローヴスも語っています。投下する都市の候補を検討する会議にもトルーマンは出ていない。

実際には候補から外されましたが、グローヴスは候補に京都は外せないとしていた人物です。

原爆の量産まで考えていたとも言われています。

ここが、予習していた方がこの映画はより分かりやすいという1つのポイントで、映画ではオッペンハイマーは核兵器が世界を滅ぼす可能性がゼロではない事を、実験前にこのグローヴスに伝えるのです。

グローヴスも一瞬表情を変え「ゼロが良いな」とは言いますが、実験では「世界を壊すなよ」と伝え実験を再検討しようとはしません。

科学者のチームでNearly Zeroと言う計算結果を出した本人が、ゼロではない可能性に恐怖して本当に実験を行うのかと不安を口にする場面があるのに対し、グローヴスの「世界を壊すなよ」はなんとも軽い口調で言われる。


トリニティ実験の成功を受けて、笑顔の人達と笑えない人達の対比はまさにその恐怖を現実感を持ってイメージ出来ている人と、所詮これが落とされるのは遠い日本だろ、と現実感をもって捉えることのない想像力の欠如した人たちの差だと思いました。

とてもクリアに描かれています。


そして映画の終盤、水爆開発に反対の立場を取っていたオッペンハイマーは、この反対の意識を持った時期を聞かれ「(世界を破壊しかねない恐ろしい物でも)作ったら我々(人間)は使ってしまうと言うことが分かった時」と答えています。


そこで、弟がインタビューにかつて語ったとされる内容を予習で知っていた人は納得したと思います。

実験に拘ったのは、核兵器を作ることを求めている人こそがその恐怖を知る為に一度見る必要があるから。

その威力を目の当たりにして恐怖を味わう必要があるから。

だからこそグローヴスにもNearly Zeroと言う計算結果を実験前に伝える。

これは当然、その万が一が有り得るならトリニティ実験においても当然有り得るリスクとして説明されたものです。

それ以前にオッペンハイマーはグローヴスがMIT出身の技術将校であり、科学の素人ではない事にも言及しています。

つまり、科学者の考え方が伝わると信じてこの恐怖の可能性を伝えているんです。

それでも彼(軍)は実験を止めようとはしなかった。

それどころか、躊躇なく日本に投下する原爆が用意されロスアラモスから運び出されていく。

その異様な威力を目の当たりにしても笑顔になり、それを人に対して落とすと言う考えを変えることはなかった。

オッペンハイマーの弟は、オッペンハイマーがこの使ったという事実に絶望していたとも語っていますが、日本に投下されるために運び出されていく二つの大きな箱を見送るオッペンハイマーの失望感は、セリフはありませんでしたが良く伝わりました。



この映画を見て私が怖いと思ったのは、グローヴスは悪人には見えない描かれ方をしていると言うことです。

どこか人情的にさえ映るキャラクターとして演じられていたんです。

でも史実を知っている人は、この人がより破壊の効果を求めて京都に原爆投下したがっていたこと、原爆投下に積極的であったことを知っています。

史実だけを見ると冷酷に思える人が、人情的に描かれている事に妙なリアルを感じ、怖くなるんです。

とんでもない悪人や冷酷な人間が核兵器のようなとんでもない物の開発や使用を強く求めたのではなく、根は良い人でも、その結果をリアリティを持って身近に想像出来ない人間は、恐ろしい考えを躊躇なく推し進めてしまえる。

そんなふうに感じる怖さです。

ここに、どこか根の優しさを感じさせるマット・デイモンのキャスティングは、そういう狙いなのかどうかはわかりませんが、絶妙でした。


映画そのものは、戦後原子力委員会委員長となったルイス•ストローズがオッペンハイマーから機密事項へのアクセス権を奪う為に働かせた策略とその審問を軸に描かれていますが、私は個人的にストローズのような分かりやすい悪役が大きく出てくることで、悪意の無い無邪気な笑顔を原爆投下のニュースを受けて見せていた人々や、ヤバさを伝えられてもまるで普通の兵器でも扱うように中心となって計画を進めたグローヴスの方が怖い、と言うか不気味に感じました。

ストローズ役のロバート・ダウニー・Jrはアカデミー賞で助演男優賞を獲りましたが、作品と役に恵まれたなと思いました。

もちろん良い俳優ですが、個人的にはトルーマン役で出演していたゲイリー・オールドマンがストローズを演ったらどんなだったろうかと思ってしまいました。でも、逆にポイント出演のトルーマン役がダウニーJrだったらトルーマンはどうなったかと考えると、やはりあの役はゲイリー・オールドマンの方が良いと思うので、良いキャスティングだったなという結論です。


主演のキリアン・マーフィーは文句無しに素晴らしかった。

素晴らしくて、どこか良かったと挙げるのは難しいですね。良くなかったところを見つけられなかったので。


クリストファー・ノーラン監督の映像表現は見事でした。

見せるのはヒントで、本当に大切な事を想像させるような作りだったと思います。

ノーラン監督はデジタルではなくフィルムでの撮影にこだわり、CGに過度な依存もしない監督だそうですが、トリニティ実験の場面は本当に緊迫感が凄かった。

途中オッペンハイマーに「心臓に悪い」というセリフがありましたが、観てた人は全員「こっちのセリフだ」と思ったのではないでしょうか。

映像と音響効果も相まって凄まじい臨場感があり、爆発の瞬間が無音で後から音や爆風がやって来る演出にも、見てはいけないものを見てしまった感がありました。

あれを見て、投下された場所の被害を想像出来ない人は、想像力皆無なのか?と疑いたくなるほどです。


この映画を観て「被害の描写をしていない」と批判する人達は、あの実験をリアルタイムで実際に見ても「人に使って良い」と考えてしまった人達と想像力の面ではそこまで大差ないと思います。

被害者側にいるからNoと言えているだけで、アメリカ人だったら肯定している可能性もゼロではない。

どんな立場であれ「こんな物使っちゃダメだろ」と、実験の場面だけで十分に思わせる映像でしたし、その想像力のある人には、その場にいた人達のリアクションを見て笑顔で喜ぶ人達に寒気を覚えるほどの恐怖を感じ、とても笑える状態ではなく実験場の方を見つめる人達に共感し、安堵したと思います。

ここでの共感ポイントはこの映画の1つの肝だと思います。

少い知識故に原爆投下を正当化している人達の中にも、この実験の場面を見て「これを人に使うって正当化しちゃダメなレベルの物じゃないか」という感覚が芽生えた人はいたと信じたい。

現実世界で水爆開発に尽力した人の中にはトリニティ実験を見て「この程度か」という感想を述べたと言われる人も含まれています。

自身の持ちうる知識と想像力によってはリスクはリスクに見えないのだな、とつくづく感じた場面でした。

アメリカ映画にありがちな派手な大爆発シーンとはレベルが違います。

爆発させるまでに精神的不安を煽る演出も巧みです。


かなりとっ散らかった感想になりましたが、細かいセリフにもその後の言葉を補完したりする要素に溢れていますし、詰め込まれている要素もとても多いので、映画そのものの理解を深めるうえでももう一度は観たいと考えています。

6月に久々に芝居とジャズライブのコラボ企画第3弾をやるため、ただいま準備の真っ最中。


自分が作る時には出ないので、裏で出来る事は全てやります!

今はチラシ作成中なのですが、色々頭を使っているせいか、気分転換も何故か細かい事をし始めこんな物を作ってしまいました。





肩掛けのバッグです。

自分が今愛用している長財布がスッポリ入るサイズです。

材料は100均で売ってるハギレ(笑)


元々は役者の一人が使う道具が落ちてどこかに行く可能性がある為、予備を入れておく、何ならその予備しか入れないミニミニポシェットを作ろう!となり、実際作り、「あれ?意外と楽しいな」となったのがキッカケです。


全て手縫いで、恐ろしい事に何一つ測ってません。

私の手芸ボックスにメジャー的なものは存在しません!

その為、ボタンの位置とかポケットとかズレてます。。。


やる事は沢山あるはずなのに、もう一枚ハギレを買っていて巾着を作ろうとかしています。


もはや気分転換と言うより、プチ現実逃避かも知れない。


元来、物を作るということが好きなんですよね。

しかも、ミシンでガーっと縫うより地味にチクチク縫っていたい。

編み物もそうですが、同じ事をやり続けるのに頭は使わないので、そういう時間が欲しいだけなのかもしれません。


6月の公演が終わるまでに何個の物が作られるのか?!

乞うご期待❣❣❣



そうそう、6月の公演ではバンドメンバーがこれまでと2人入れ替わるので、新しい人達との作業がとても楽しみです☺

今年一発目の舞台はコメディーです!


実は昨年末には情報解禁されていたのですが、年明け1番にでもと思っていたら、色々と悲しいことが起こったので少し待ちました。



『OH!MY GOD!2024』

2月16日〜18日 博品館劇場にて




A席6500円・B席4500円
販売期間:1/17(水)19時~2/18(日)
カンフェティ(予約時に明石智水をご選択ください)
confetti-web.com/oh_my_god_2024

今回の舞台では、私は1時間のショートバージョンのみに出演します。

コント盛りだくさんの舞台のようで、一体どうなるのか?

楽しみです!