ノンストップ新年で幕開けの2018年は「観」の一年へ | とらこ録

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蠍の星のもと、五黄の寅に生まれたO型ど真ん中のとらこ。

歌と映画と温泉と。寺社仏めぐりと言葉遊び。好きなことは山ほどある。
“The earliest moment is when you think it’s too late.”を座右の銘に。前進あるのみ。

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年12月30日、2017-2018年越しツアーはスタートしました。


◼︎ その行程は……
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大阪駅
アベノハルカス
飛田新地
新世界
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大証
黒門市場
道頓堀
USJカウントダウン
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道頓堀
法善寺
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山下公園夜散歩
シーガーディアンⅡ
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ホテルニューグランドブランチ
八景島シーパラダイス
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海外旅行並みの時差に立ち向かいつつの6日間に及ぶ長旅となりました。
新幹線での移動中、元旦ではないものの美しい富士山にお目にかかることもでき、なんとも縁起の良いお正月をすごすことができ大満足。


◼︎ 初詣は天龍山 法善寺
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USJでの楽しすぎる年越しに体力を使い果たし、元旦の本気寝で目覚めたのは夕方5時。
貴重な初しっかりご飯の機会を逃すまじとそこからなんばへ向かい、9割ほどを占めるかと思われる海外からの観光客に混ざって夜ブラを楽しみました。元旦とはいえ激混みな観光地。逃げるように路地裏に入り込むと、大きくなった神楽坂のような風情ある街並みがひっそりとたたずみ、お正月らしい空気感を醸し出していました。
そして偶然見つけたお好み焼き屋さんで舌鼓をうち、偶然見つけたお寺で初詣。


◼︎ 第二十一番 末吉
苔でもっさりと抱かれ心地が良さそうな水掛不動さまに念入りにお水をかけて新年のご挨拶。今年こそ苔寺に行きたい!  と意気込む私にとって、なんとも苔とのご縁に期待できそうな初詣です。
末吉のおみくじは、昨年の「生死は生きがたし」から一命をとりとめ「生きる」にステップアップ。ありがたく頂戴して1年のお守りにします。

なんとなく、春に引越しがありそうな気がしてならない🐅のですが、なんとなくなんとなくな予感もチラつかせてくれていますね。どうなることやら。

このみくじにあたる人は
初め思うこと遂げがたしといえども
後遂にうんせい開く容あり、
何事もしんぱいするはあしく、
心静かに時節を待たば遂に幸き来るべし

観音さまのように自身と世界を静観して
主観と客観を好バランスで採用し
有事に直観に従うための根拠を地道に重ねる。
ーーそんな一年にしたいなぁ、と考えていた私にはうれしい言葉をならべていただきました。
おみくじって大吉とか中吉とか、待ち人来たるなのか遅しなのかとかといったステータスも気になるところなのですが、結構この詩の部分が好きなのです。寝入ってしまった終着駅で起こされるような、ハッとさせられる感覚が病みつきでおみくじってやめられません。


◼︎ どっしりと「観」る一年へ
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というわけで、昨年末からの思案通り、今年の一字は「観」に定めていきます。

「観」の意味をネットで調べてみると仏教用語でもあることがわかりました。どうやら禅にも通じるものがありそうです。

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デジタル大辞泉の解説

かん〔クワン〕【観】

 外から見たようすや感じ。外見。「別人のがある」
 仏語真理を観じること。物事を細心に分別して観察し、道理を悟ること。

大辞林 第三版の解説

かん【観】
①  目に映った印象。物事の様子・状態。 
②  〘仏〙 特定の想念や心の本性などを心の中で観察し、仏教の真理に達する方法。 →  止観
③  接尾語的に用いて、…に対する考え方・見方などの意を表す。 
コトバンク より)
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禅といえば坐禅ですが、年明けから人生初のジム通いを始めました。ジムといっても目的はただ一つ、ランニングマシンで歩き走りまくること。短期集中で減量していきたいと思います。
マシン中はテレビも見れますし、もちろんiPhoneで好きな音楽もきけますが、信号や人影を気にすることなく設定した時間ひたすら歩いたり走ったりする間、心も頭も無に等しく、座禅ほどではないにしろ禅タイムに代用できそうです。

昨年かの永平寺の宿坊体験での講話の中で、坐禅に取り組む意味を教わりました。

「みなさん、救われたい、悩みを解決したい、気持ちを落ち着かせたいーーいろんな目的を持っていらっしゃる方が多いんです。でも私たちがやっている坐禅は、すべてすてるためのものなんです。あれが欲しい、これをしたい、ああなりたいーー願望も含めてすべてすてる。ここに『ある』ことすらすてる。そのための坐禅なんです」

恋愛でも家族でも仕事でもお金でもなんでも、「なくなって初めてその大切さに気づくもんだ」……なんてなんだか中村雅人さんか歌ってそうな字面になってしまいましたが笑、そうですよね。あるときにはもっともっと、となる。向上心が備わっている証でもあるから決して悪いことではないでしょう。でも足元を蔑ろにしては高みは目指せません。足るを知ることができて初めて、身の丈に応じた目標設定ができ、身の丈にあった努力をつめ、身の丈にあったステップアップができ、着実に前進できるというもの。身に余るステップアップでは、立派に見えても衝撃に弱い欠陥住宅のごとく、思わぬタイミングでいくらでも崩れることができてしまう虚弱なハリボテでしかありません。

基盤から強固にしていくために、まずは毎日、骨すらなかったことにして無で走り、血肉骨があることから感謝をして真理を積み重ねていきたいと思います。坐禅ならぬ禅ランニングーー禅ランですね。

学生でもないのに9日間に及ぶ冬休み。ありがたき恵みです。遊びに休養にご挨拶まわりに初詣にジム開始に書初めに……あますことなく活用させていただきました。あと1日、しっかり準備して仕事初めに臨みたいと思います。

さぁ2018年、よろしく!