私の後継者経験①「理屈が合っていても感情は許してくれなかった」 | 坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

坪井秀樹の起業実験日記 いくつになっても「理由なき反抗期」

反抗しているんじゃない。反抗期が続いているだけなのさ。

先日のブログで、「何かを取れば、何かを手放す」ことがビジネスの前提である、という


内容の記事を書きました。


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http://ameblo.jp/tosboistudio/entry-11744125040.html



例えば、「ウチは商品が他店より安いですよ、でも、サービスは悪いですよ。」


「ウチは百貨店で多くの商品が揃っていますよ、でも、専門的ではありませんよ。」


「ウチの商品はどこよりも品質がいいですよ、でも、高いですよ。」


といった具合です。



実は、これを書きながら、家業後継当時のことを思い出していました。



そして、もし、二律背反するどちらも、無理して取りにいくことができたとしたら、


破壊的な成果を生み出すという事例も思い出しました。


それを書きたいと思います。



結論から言えば、短期的に一つの成果は出しましたが、もともと原則に反した方法は


続くわけがなく、いつか限界はやってきます。


それを自らが知る結末を迎えることになり、結果、廃業へと向かっていくのですが・・・・・。



その過程の中で、もしかしたら、後継に苦しむ人の何かのヒントになるかも知れませんし、


原理原則を越えたウルトラC技は、継続においていつか破綻するという反面教師に


なれるかも知れません。




当時、赤字続きでピンチを迎えていた家業の経営で、あることをやって、


単年4500万の赤字から、3年後に単年2500万の黒字に逆転したことがありました。


その時のお話しです。







私は、1992年~2001年頃まで、年齢にして27才~37才頃まで、


家業の3代目後継者として父の経営する「洋傘メーカー・卸売り」の仕事に就いていました。



国内で、傘を造ったり、仕入れたりして、街の傘屋さんに卸したり、


中国で傘を生産して、東京の傘問屋さんに卸したり、


その他、冬物の小物や、レインコート・学生コート等を扱う会社でした。



私は大学を卒業して、大手アパレルの会社に就職しましたが、家業の業績は悪化の一途


をたどっており、後継者お決まりのパターンで「家業がピンチだから戻ってこい」ということで、


家業に戻りました。



家業は、40年ほどの歴史があって、従業員さんは、私が子供の頃からいてくれた方々も


含めて20名ほど。


本社は実家の近くにある100坪3階建てのビルでしたが、オフィスというものではなく、


商品倉庫のような感じでした。



「業績が悪い、悪いこのままでは潰れる。」


「でも、秀樹に期待している。戻って来てくれたからには、これでもう大丈夫だ」と


誰からも言われるものの、


婦人服ブランドの営業しか経験のない私にとって、「会社の業績が悪い」というのは、


何がどう悪いのか、それに対して「何をすれば大丈夫になるのか」さっぱり分かりません。



1年近く慣れない仕事をしながら、勉強会に参加したり本を読んで、いろいろと調べたところ、


経営数値や会社の状況がだんだんと見えてきました。


過去数年のの決算書を引っ張り出して、売上や経常利益を横並びにしたりして


推移を見たりしました。



直近の決算書は単年度で4500万円の赤字を出すに至っていました。





2代目の父は営業面については全く疎く、でも経理には明るく、お金に関して堅実な経営を続けており、


資金や資産を見るとまだ何とか続けられる状態でした。


しかし、この状態が続けば、当然会社はなくなってしまうのはすぐに分かりました。



分からないながらも何とかしようと色々と動くは動くのですが、なかなかうまく行きません。



当時の組織は、組織らしいのものではなく、10名程の営業マン一人一人それぞれが


自分で商品を仕入れたり、造ったりして、自分の担当する街の傘屋さんに降ろしたりと、


バラバラな状態で長年続いていました。



私が生まれた当時からいてくれて、ダッコして遊んでくれていた10名ほどの年輩社員さん達は、



口々に自分のやっていることの正当性を主張はしますが、そのどれもがバラバラで、


父も長年の勘や感覚で大体の把握はしているものの、


一体、何が良くて何が悪いのかが皆目見当がつかず、一年経って決算が


終わって、ようやくトータルで、どうなっているかが分かるといった状況でした。



何となく悪くなっていく感覚を持ちながら、でも具体的な一手は何も打てずに、日々の


ワークをする毎日が続き、また一年経って、今年も悪い、このままでは会社が潰れる、


社員さん達の生活だけは何とかしなければ、と困る・・・・・。


そんな感じでした。



私は、やや遠回りかと思いましたが、それぞれの部門(人)や、商品別に、分類して


現状がよく分かるように手を打ち始めました。



パソコンを買って、経営ソフトを入れて、膨大な数の全商品を品番化しようと試みました。


「そんなことをしても、何も売上は上がらない。またアホ息子が変な事やり出した。」


と批判はありましたが、何とか一人一人を説得しては半年くらいかけて形を創っていきました。



何が売れていて、何が足を引っ張っているのか?


どこから手を付けれていけば良いのか?


「今を知る」ことで、次の一手が分かると思ったのです。



納品伝票の書き方から変えていくのにも大変な苦労がありましたが、


毎日のようにお願いして、何とか全員が変更してくれるようになりました。



人は慣れ親しんだ行為からの変化を嫌うというのがよく分かりました。


業績を上げなければいけない、と口では言うものの、自分が変わってまで、


業績を上げたいとは思わないものだと知りました。



部門別・商品別に月次で把握できるようになったのは、それから一年を過ぎる頃でした。


この時点で業績は、まだ悪化し続けていましたが、とにかく、「今」が分かりやすく


なりました。



昔、主力商品だった売価3000円~5000円の国産の傘は、在庫金額は多いものの


売上は減少し続け、主力得意先だった街の傘屋さんは衰退していっていました。


明らかに経営効率が悪くなっているに関わらず、これに長年かかわってきた担当営業は


昔と変わらぬ行動をしていました。



逆に、中国で生産していた安い商品、売価にして180円~1980円までのオリジナル商品が


主力商品になっていました。売り先は、ディスカウトショップやホームセンターでした。



商品を分類別に分けて見てみると、全部で30分類ある中で、


1位の輸入傘が年間売上の40%を占めており、その他29分類は当然微々たる状態


でした。



しかし、驚くことに、在庫金額はほとんど同じだったり、


輸入傘を扱っている人は2名程度という有様でした。



個人的な好みはおいといて、効率の悪い分類の商品はやめて、効率の良い商品に


一点集中して全員で売上を上げていく方針を考えました。



今一番売れている商品に、全員の力をシフトさせれば、何とかなると思ったのです。


いろいろ計算してみても、理論的には合っています。


チャレンジではあるけれど、これしかないと思いました。



しかし、うまく行きませんでした。


古株社員さん達が、長年かけてずっとやってきた仕事の仕方、商品や取引先に対する


コダワリや愛着は異常とも思えるほどで、まして輸入傘を売らんが為の新規開拓というなど、


年も取ってしまってからなんて、誰もやりたがらない。



父は、優しい人柄で、祖父の時代から住み込みで働いている社員に強権発動は


できず、


「秀樹は極端すぎる。言っていることは分かるが、そんなことをしたら、無茶苦茶になって、


もっと業績が悪くなる。」


という感じでした。



年下の正当な理屈は、合っていれば合っている程、年上やキャリア組の感情は許さない


のだと思います。



私の最大の難関は、年上でキャリアのある人のマネジメントでした。


そして、説得できるだけの実績も信頼もなければ、やってもいないが故に、押し切る


だけの覚悟も自信もありませんでした。


これはもう何ともできませんでした。



社員さん達は、私が一応息子さんなので、会議をしたり、ミーティングをすれば、


前を向いて話は聞いてはくれますが、心は後ろを向いたままでした。


どんなにいい話し合いができたと思っても、結果、皆の行動は何一つ変わりません。



父とは、会社でも家でも口論が続きました。


父は優しい人でした。業績が落ち続ける中、皆の事を心配して困るものの、


情にほだされて、強いことは言えないし、失敗した時のことを考えると恐い。


そして、ずっと一緒にやってきた古株の社員達に、この年齢から新しいチャレンジを


させるのは忍びない・・・・・。


そんな感じでした。




「結局、オヤジは、業績を上げたいのか、何も変わりたくないのかどっちなんだ!?


好きな方を選べ。その通りにしてやるから!」


「このまま変わらず進んで倒産するか、チャレンジして失敗して路頭に迷うか、


どっちか選べ!」


「あんた達は先に死んでいくからいいけど、負債を抱えたまま一人残されるオレの人生は


どうなるんだ!?」


「商品があるからまだ頑張ろうとするんだ。輸入傘以外はいっそ捨ててしまえばスッキリする。」


などと、困る父に対して心無い暴言を吐いてしまうことが増えてきました。



父もいよいよ感情的になり、


「だったら、もういい!お父さんが何とかするから、お前なんて、もう辞めてしまえ!」


「私が死んだら保険金が入るから何とかなる。もう、お前に心配なんてしてもらわなくて


いい!」


と言ったりする状況で、まったく噛み合いませんでした。




私にしてみれば、育ててもらった御恩を返したいし、自分の会社を何とかしなければならない


という一心で努力しているのに、いざやるとなったら誰も協力はしてくれない。誰も変わろうと


しない。結局、いざとなったら、皆は他人事で自分がやろうとはせず、オレ一人にやらせよう


としているだけじゃないか!、と不満が鬱積していく。



相手にしてみれば、いつの間にか大きくなって、偉そうに帰ってきて、


実績もないのに、批判ばかりしては、突飛なことばかり言ってきて


先輩を認めようともしなければ、理屈と口だけのボンクラ息子が何を言っているのか?


この先を委ねるだけの信頼などない。どこをほっつき歩いているか分からない奴の言う


ことなんて聞けるか。屁理屈こねる前に、傘一本持って売ってこい!



今思えば、双方の心の声は、そんな感じだったのだと思います。



つづく・・・・・・・・・・・・



              正当な理屈が合えば合うほど、感情は許さない。


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 買取王国・坪井副社長の販促実験日記「それって誰が嬉しいの?」