表現者を志す人へ | 豊永利行オフィシャルブログ「猫視眈々」Powered by Ameba

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すっかりご無沙汰になってしまいましたが、久しぶりに真面目な事を書きたくなったので更新。

以前から芝居をするにあたって、正解の無い世界だという事をさんざん言いまくってきている豊永です( ̄▽ ̄)

そして最近、芝居をする事が楽しくてしょうがない。

本当に芝居は奥が深くて、飽き性な自分を飽きさせないのが「凄いなぁこの世界…」と思う。

一口に芝居、と言ってもとにかくアプローチや選択肢が多い。
例えばアニメ作品という括りで考えると、ファンタジーと日常系ではそもそも芝居の根本の考え方を自分は変えている時が多いと感じる。

距離感やその場に置かれている自分の状況を頭の中でイメージして、その台詞、言葉が何故そのキャラクターから発せられたのか、その時の心情を考えビジョンを膨らませるのだけれど、その膨らませる倍率、みたいなものを変えている気がする。

日常系はよりリアルに、非現実的なものはより大きく膨らませる。みたいな。

そして、どちらにも言える事はその時の心情を理解するのに自分の人生経験が本当にモノを言う、ということ。

昔は悩みに悩んで頭では分かっていても、結局心の中では理解出来ず、「こういう事なのか…?」と半信半疑で出したアプローチも少なからずあった。
こんなことではダメだ、と後悔した事もあった。

それが今、歳を重ね、家庭を持ち、30を越えた今、新しい刺激をまた受ける事が出来て、より一層その時その時の本の読解力や心へのインプットが前よりも凄くスムーズになったと感じる。

思春期の中学生に、大人になったら分かる、と言ってる時に似ているかもしれない。




そして、ここからは表現者、役者を志す人へ伝えたい事。


大分深い事、人によってはもしかしたらキツい事を書いてるかもしれないので、ここから先は見たい方だけご覧くださいね。

ちなみに、この記事が書きたくなった理由は、これからの表現の世界を豊かで楽しいものにして、より自分も楽しみたいから、です( ̄▽ ̄)























時代の流れはとてつもなく早くて、今のこちらの仕事の情勢や常識が、現在役者を志す人達が実をつける頃には、もしかしたら通用しなくなっているかもしれない。

僕が子供の頃のアニメ業界を先輩方から聞いたりすると、収録形態も違えば1クールモノなんてほとんど無かった。

そういう意味では、長寿番組を常としていた先輩方からの「そのキャラクターへの理解度が足りない」とか、「キチンとそのキャラクターをモノにする」「キャラクターの個性が弱い」という言葉は、1クールが主流になり、作品数も激増した今では非常に酷な言葉に聞こえていた時期もあった。


芝居の種類も、アニメの平面に乗せるための誇張の手法もそもそも変わってきている。

だから、先輩方のアドバイスも、今に通用するモノとしないモノを、自分で判断し取捨選択してきた。


ただ、そんな変化のうねりにあっても、心を作る事だけはいつの時代も変わらないんだなと、強く感じる。




心を磨いて下さい。


それは、キレイに見えるようにする、という意味ではなく、良い事も悪い事も、自ら経験した事と照らし合わせ、自分で考え、その時に思った感情を覚えておくという事。

例えば、犯罪や性描写。
これはその行為を助長しているわけではありません。
ただ、僕は娯楽作品にこそ必要だと思っている派です。
人はそんな高尚な生き物じゃない。
愚かな生き物だと思っています。
犯罪は勿論いけない事です。
じゃあ何故いけない事なのか?
法律で決まっているから?
何故法律で決まっているのか?
人が愚かな行為をしないように?
じゃあ法律で決まっていない事なら人に迷惑をかけていいのか?
言論の自由という意味を履き違えて、人を言葉で傷つけてもいいのか?

僕は、愚かな行為を覚え、その過ちを二度と繰り返さず、また人の世に出て、更生し、強く優しく自分にとって正しく生きる事の方が大事だと思っています。
頭ごなしに罵倒する人は決まって第三者な事の方が多いです。
僕は、その人達の方がタチが悪いし、同じように愚かなんじゃないかと思います。
陰で悪口を言ったり、ネットに書いたり、メッセージでやりとりする事も同様です。


人は愚かな生き物です。
繰り返さないと決めても、心が動いてしまうかもしれない。
そんな愚かな心を満たす為の1つの逃げ道として、または脳内欲求を満たす為に娯楽作品は存在しているのではないかと思っています。
もちろん、その登場人物に必要な描写だからとか、一概に決めつけは出来ませんけどね。
ただ、こういった描写は「スゲー、自分もやってみよう」と思わせる為にあるわけではないという事を、理解してもらえたら幸いです。



少し脱線しましたが、つまり役者を志す人たちに僕が伝えたいのは、もしそういう役が来た時、自分ならどう考えるのか?という姿勢が必要だという事です。
他人事だからと頭ごなしに否定し罵倒する第三者の感情を持ったままでは、そのキャラクターは恐らくスクリーンには「生きてきません」
罪の意識をもっと深く考える事、どんな理由があったのか、自発的なのか誘発されたのか。

その感情で、自分が経験した中で一番近いものを探すことが、大事だと思います。
例えば、家においてあった家族のアイスを内緒で食べちゃった時の罪悪感を増幅させる、とか。

今書いてる事はほんの一例ですが、こういう考えを膨らませて、その心を作って、声帯を通りアウトプットする。
それがバチッとハマった時、役者をやっててよかったと凄く思いますし、それが評価されたら尚更幸せです。

それを考えるのが楽しくて楽しくてしょうがないです( ̄▽ ̄)



心を磨いて下さい。



そして、自分の人生で見るもの聞くものを疑い、考察し、体験出来るならば体験してみて下さい。
体験してはいけないものならば、それに近い娯楽作品を見ましょう。
そして考察しましょう。
知識だけを蓄えて、口先だけの人間になるくらいなら、自分が経験し、得た感覚を信じましょう。
知らない事は悪い事ではない。




人は愚かな生き物です。

でも、心を動かし、意思の疎通をし、それぞれ異なる想いを伝えあい、共有出来る素晴らしい生き物です。


願わくば、その作品を見た視聴者の皆様の心も動かす事が出来る、考え方を改めて振り返らせるパワーを持った役者さんが1人でも多くこの業界に来てくれることを願います。