正しい事をしようとしてるか? | 豊永利行オフィシャルブログ「猫視眈々」Powered by Ameba

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僕はその「正しい事」すら定義として疑おう、という考えです。

そして、誰かが自分にとって「正しく無い事」をしたとして。
それが知り合いなら「俺はこう思う」と意思を伝え、大事な人なら「何故そんな事をしたのか?」を問い正すかもしれません。

しかし、どんなときも誤ちかどうかを裁き判断するのは法治国家としての「国」である、とも思っています。
(この法というのも所詮人が作り上げたモノなので、完璧だとは思っていませんが)


自分も誤ちを犯す事があるかもしれないのに、人の誤ちを嘲笑ったり、責めたりする権利や自信は、僕にはありません。

なので、炎上やイジメ、悪口や上からモノを言える人は「凄いなぁ、自分は誤ちを犯さないっていう絶対的な自信があるんだなぁ」と思うと同時に「その誤ちの価値観は人それぞれ違うのだから、"絶対"なんて事があるわけないのに」とも思います。

僕の頭の中には「そういう人は自分にも同じような後ろめたい事があるから攻撃するんじゃない?」なんていう邪推もしますし、まぁ何も考えず周りに乗っかっているだけなのだろうな、とも思いますが、その話はまた今度。


「正しい事」に反した事をしたとして、最も許せず、情けなく、怒りを覚えるのは自分だけ。責めていいのは当人だけだと思います。


皆様の中にある「正しい事」「正しく無い事」はどういった分別がされているでしょうか?
「違法だから?」
「みんながダメと言っているから?」
「自分はそう思っているから?」

どんな考えがあったとしても「だからその人を攻撃していい」という理由になるでしょうか?

そして、犯した誤ちがもし「自分以外の誰かが誘発した事」だとしたら、その人はむしろ被害者なのではないでしょうか?

色んな要因が複雑に絡み合っているからこそ、僕はただただ、行く末を見守りたい。

誤ちは責めて、潰して、社会から消すものじゃない。
誤ちは、人が振り返り、乗り越える事で成長に繋がる可能性のある種だという事を、僕は忘れないでいきたいなと思います。

そして、僕自身も考え方を常にアップデートしていき、間違っていたと思った事は改め、そして人が犯す誤ちを許せる人間になりたいなと思います。

勿論、あからさまに悪意のある人間や、大切な人を守る時など「許せない」ではなく「許さない」時はあるでしょうけど…( ̄▽ ̄)