夜中にこっそり、お久しぶりです。

気づけば2013年も半ば、何気に今年初の記事です。
(下手すると今年はまたこれで最後かも?苦笑)


久しぶりに記事を書こうと思った動機は、
相も変わらずインターネット上での出来事について。

いやぁー、ホントだめですね~ジブン。


国内のネットサイトの多くは平気で他者に対する罵詈雑言やヘイトスピーチ、偏見などが飛び交っている毒沼だってことを少なからず理解しているし、特にセクシャルマイノリティに関する記事(第三者が匿名でコメントを書けるサイトは特に)はなるべく見ないようにしているつもりなのだけれど、ニュース関連でネット散策をしていると気づけばついつい目についてしまい、そして毎度のごとくお決まりのように心や自尊心がズタボロになってしまう。

ヘイトスピーチや偏見の恐ろしいところって、気に喰わない個人だけを対象に罵倒するだけではなく、相手の属性そのものを根本から否定することが多いってこと。

そして表面上は匿名だから、日常生活や現実では絶対に言わないであろう言葉遣いや怨念じみた発言が平気で飛び交う。
この事に対しネット上ではよく「現実では我慢してる事が多いからこそ、せめてネット上では我慢せずに言いたい事をなんでも気軽に全て吐きたい」と言う人がいる。
ネットとはいえ、ストレス発散を向ける相手は感情を持たぬコンピュータが相手ではなく、その先には同じ感情を持った人間が存在していることを分かってほしい。


もう1つは、どういった層やどういった人物が発言しているのか分からないという恐怖。
まだ現実で直接言われる方が幾分も救いはある。匿名だと、男なのか、女なのか、年齢層は、国籍は・・・など何も分からないゆえに、対処や対策のしようも無く、むしろ人間不信に陥りやすい。
よくサスペンス系アニメで、悪意ある人物をニヤニヤ微笑んだ黒い影で表現することがあるが、まさにああいったイメージ。現実では面と向かってネット上並に直接批判されることは滅多にないが、「現実は社交辞令の外面、ネット上では本心」という言い回しもあるように、現実で交流してる人も中には性のことであんなにどす黒い感情抱いてるのかなと不信になりがちなこともある。


当事者に明らかな非やマナー・モラル違反などがあって、それで本人のみが批判されるのは分かる。しかしその憎悪感情が拡大して、ここぞとばかりに批判ターゲットと同じ属性を持つ全ての人に対してもヘイトスピーチを浴びせ始める。
「人を憎まず罪を憎め」という言葉もあるが、加害者批判から罪そのものを批判することに繋がることは分かるのだが、罪でもなんでもない属性を批判する。

特定の宗教、人種、国籍に対して、それに該当する者は漏れなく批判対象というのはもはや世界的に日常茶飯事。

国内では最近だと身体障害者と飲食店間のトラブルが元で、その本人のみならず身体障害者全てを批判対象にしていた行為も目立っていた。

セクシャルマイノリティに対しての扱いも例外ではない。
むしろセクシャルマイノリティに対しての嫌悪や憎悪感は、
一部当事者のトラブルが元で全体批判に繋がるというパターンよりも、
当事者がメディア上に出たり、何か些細な事を発言したり、イベントをしたりなど、
ただの芸能行為として目立つ行為全てが批判の火種となっていることが目立つ。

その理由は明快だろう。
「生理的に受け付けない属性で、単純に気に喰わないから目立つ行為されると癪に障って批判する」
たったそれだけの単純で悲しく恐ろしい理由。
子供のイジメ理由にもあるような理由だ。

しかし芸能人という立場は、誰しもがそういった理由で批判される職業だ。
芸能人もそのことを理解して活動しているだろう。

それに特定の芸能人が批判されるときは決まって、その芸能人に限定して集中批判。
しかしセクシャルマイノリティや障害者、その他特殊な属性を持っている芸能人(公人)が批判される際は、高確率でその属性までもが批判され、全く関係のなかった第三者の同属性層も批判されることになる。

その事実がたまらなく憂鬱である。

ヘイトスピーチが嫌なら見なければいいという無責任で自己中心的な発言をする人もいる。
弱肉強食、言ったもの勝ち、悪質な罵倒行為を是としているかのよう。

そもそもヘイトスピーチが、限りなくクローズな場所で行われているならば
わざわざそこまで入っていって閲覧した方にも非はあるが、
近年ネット上に蔓延るヘイトスピーチというものは、例えれば街中の公園だったり道路脇だったりなどの開けた場所で行われている事が多い。
見ないつもりでも偶然通りかかって目に入ってしまう確率は高い。
ならばネットをしなければいいだなんて極論は、外出するなと同義であり、このIT時代無理な話である。

本来はSNSのような、登録しなきゃその中に書かれている事が読めないようなサイトでこそヘイトスピーチが行われるべきであり、それ以外の開けたオープンサイト上においてSNSのような現実の延長線的交流が行われることが望ましい。されど現状はそうではない。
世界的に有名な大手動画サイトのコメント欄でさえ、時折見るに堪えない。

今ではもうツイッターなどのSNS的サービスですらも平然と本人に対してヘイトスピーチが投げかけられるようになっている惨状。ショッピング通販サイトの評価コメントもその場になっている。


少し話を戻すが、最近は本当に定期的にセクシャルマイノリティ批判の書き込みを多く見かけるようになった。
セクシャルマイノリティが表舞台に出てくるたびに、対抗して批判勢力も高まっているのだろうか。
日本の場合は偏見に対抗するセクシャルマイノリティ団体も無いので、批判されたらグっと堪えて我慢するしかない。 批判されることも覚悟してのセクシャルマイノリティなんでしょと見当違いな発言する人もいる。その発言って、明らかにセクシャルマイノリティという存在を見下していて、批判されて然るべきという意識があるからこそ出てくる発言だからだ。

セクシャルマイノリティは、意図せずに"持って生まれてきた"ものなのに、
あたかも職業のように率先して"意識してなっていくもの"と誤解してる人が多いのではないだろうか。
だからそういう発言も出てくる。

セクシャルマイノリティを"自身の性的興奮のための材料"として誤解して見ている人も稀にいるが、その偏見も併せて解いておきたい。



さて、MtFトランスジェンダーに対しての意見の常套句の1つに
だって男だぞ」という一文をよく目にする。


ごくごく普通の一般男性が、ただ女装をしただけの時においてこの言葉が使われるのであれば理解もできる。

例えトランスジェンダーで、女性ホルモン投与もしていて見た目や肉付きが粗方女性的であっても、股間に男性のアソコが残っているならば、それも100歩譲って男と思われても仕方ない。

しかし「男だぞ」のフレーズは、時として性転換もしていて戸籍性別を変更してる当事者に対して使われることもある。
そんなのを頻繁に目にするたび、1つの疑問が浮かんできた。

「そもそも男の定義ってなんだろう、女の定義とは・・・」

身体医学的には性染色体などの遺伝子だけは変えられない。
でも染色体を意識して性別を判断してる一般人がいるとは思えない。

根本的な骨格の付き方も男女差は出てしまう。
しかし世界を見渡せば、骨格など誤魔化してしまうほど見事なプロポーションの人だっている。
そもそも、日常的に骨格で相手の性別を判断してる人なんているのだろうか。

生理や妊娠機能の有無・・・。これも女性の中には病気や体質で生理が無かったり妊娠できない人もいる。じゃあその人たちは男だろうか?否。

憶測だが、「男だぞ」と言わしめる理由はただ1つ。
あらかじめ相手の性別を知っていて、その先入観から来る感情から来る感想なのだと思う。
身体的特徴で粗探しをするのは、あらかじめ性別を知っているからこその後付けに過ぎない。

例え初見で女性だと認識しても、そのあとで相手は生物学的には男性であるという事実を知ってしまうと、それを受け入れたくなかったり許したくないのだろう。また、一度でも女性だと認識してしまった己の感情さえも認めたくないのだろう。
きっとその理由は、そこで認めてしまうと自己のアイデンティティや価値観が崩れてしまい兼ねないという恐怖感があるのかもしれない。

人は己の培ってきた価値観を変えたり崩すくらいなら、他者を否定してでも自己を正当するものだと聞いたことがある。
先入観や感情による否定というのは、とてつもなく厄介なものである。

しかし「男だぞ」という些細な一言は、言われた当事者にとっては生き方や人生、努力などを根本から否定されてるような気がするので、なかなかショックの大きいフレーズである。


嫌悪される感情はこういったものだけじゃなく多種多様、今述べたのはほんの一例。 
中には、「トランスジェンダーは男と女の両性の良い面だけを享受し、悪い側面からは逃げているように見えて腹ただしい」と感じる者もいるそうだ。

確かにそういう当事者も中にはいるだろうが、両性の良い面を享受できずに悪い側面しか体験できないという当事者も存在することを分かってほしい。
それにセクシャルマイノリティは子孫を残したり平凡でありきたりな一般家庭さえも築けないという充分な代償がある。場合によっては血縁関係者や幼なじみに距離を置かれたり縁を切られる代償もある。
それらの人としての根本的な大きな存在価値の喜びを得られない分、社会上において享受できるような両方の性のメリットなんて微々たるもんだ。
恋愛事情以前に、普通の交友関係ですら簡単に危うくなる確率も高い。
あるトランスジェンダー系シンガーソングライターの方が歌っていたが
「大切な人は友達くらいがちょうどいい」というフレーズ、今ならとても理解できる。


私だって、こんな半端な中間の性別は嫌である。
それでもこうなったのは、男として生き続けていたら遅かれ早かれ別の意味で取り返しの付かない事になっていたからだ。現在の性も満足とはいえないが、もし男のまま今も生きていたら、どうなっていただろうと想像もつかない。

しかしできれば、普通の男、普通の女のどちらかに生まれたかった。
普通というのは、男/女として生まれたことに一切の疑問も持たず、その性別で躊躇なく堂々と生きれる人生のことだ。


女というものを分かっていない癖にいっちょまえに女っ顔しないでほしい」と思って嫌悪してる人もいるようだが、そもそも生まれもっての女性には逆立ちしても叶わないし、本当の意味での対等にはなれないということも理解しているので、あまり気を尖らせないでほしい。

偏見や誤解というものは、実際の身の周りにマイノリティ当事者がいなくて
メディアやネットを通じたイメージであったり、
身の周りにいたとしても、自身が直接深く関わったのではなく間接的であったりする印象の湾曲であったりすることが多い。
また、マイノリティという少数特性である以上、たった1人だけと関わっただけでその印象がマイノリティの特性と誤解してしまうケースも多い。はじめて知り合ったマイノリティの印象が良くなかった場合は最悪だ。

男も女も、いろんな人がいる。身体的特徴以外で男はこうで、女はこうだと言えないのはみんなも分かっている。それと同じように、マイノリティも十人十色でいろんな人がいる事を知ってほしい。そして、良いイメージを持てるような印象を持ったマイノリティと直接知り合って打ち解けられる、そういう世の中であってほしい。



様々な思いが交錯して最終的に取り留めのない記事になってしまいましたが、
今回はこの辺にて失礼します。

ネット上においてヘイトスピーチを絶やすことは無理でも、せめてその場の感情任せでぽんっと一言平然と吐き捨てるようなヘイトスピーチや罵詈雑言が少しでも減ってくれることを望む。