少しずつ書き進めていきます。

就活、の話ではありません。いつか必ず訪れる「死」のための活動、だそうです。
http://shukatsu.nifty.com/about/index01.htm
を見ていただくと概要がわかります。

とは言ってもボクにとっての終活は、ここで書かれているものとはほぼ全く異なります。
ボクにとっての終活とはまさに、車中泊、というか、旅行、なのです。
ではなぜそうなのか?話せば長い話なのですが...。

3年前、定年退職を迎えました。ただし年金が全額払われるのは65歳からですので、今のところ月から水までの週3日働いていますが、再任用という形で、アルバイトに毛の生えたような立場です。

でこの定年退職を機に、思ってもいなかったほど心境が変わりました。一言でいうと、
「これから先死ぬまでの間は、自分のしたいことをしたいだけしよう。」
と言ってももちろん、経済的体力的限界の範囲内で、ですけどね。

ささやかではあったけれど、社会のためにボクなりに貢献はしてきたつもりだし、社会からは「もう年老いて、お前が第一線でいればかえって迷惑になるんだ。引き下がってくれ。」と言ってもらえたんだから、そうさせてもらっても罪にはならないはず。

さてでは一体何をすれば残りの人生を幸せに過ごせるか?
例えば百年かけて完成するようなものを作るのは馬鹿げている。完成するはずがない。
ということで先ずは残寿命の推定を行った。
糖尿病、高血圧(どちらも軽症ではあるけれど)を抱えているし、掛け捨ての生命保険が満期になるのが82歳で、その年の誕生日までに死なないと大損だから、とりあえずきりのいいところで死亡予定年齢を80歳とした...ほぼ全く意味のない推定だということは分かっているけど (^_^;)

では死んでからあとはどうするか?
ボクは唯物論と無神論者で凝り固まっている人だから、死んだ後は自分は存在しないと信じているので死後のことは一切気にしない。
だから、一般的な終活のように、墓を買ったり葬儀の手配をしたりするつもりは全くない。
すでに家族には「自分が死んでから後の死骸の片付けについては全く何も希望はない。そもそもどうしてくれてもそのことをボクが知ることはないのだから。だから、残された人の好きなようにしてくれ。」と言ってある。家族葬や田舎の墓所、砂岩の墓石を買う程度のお金は残しておくつもりだが、そこらに灰を撒いてくれても一向に構わない。どうせぼくの知ったこっちゃないのだから。
なぜそう考えるに至ったのか、については話すとさらに話が長くなるけれど、要するにこのところの生物学の知見、特に進化論関係の知識を出発点に推論を重ねていくとそういう結論に達せざるを得ない、ということです。

で、カミさん以外に女を作るような甲斐性も体力もないから遺産相続について考えることもないし、年賀はがきでさえうっとおしいと思っているボクがエンディングノートで挨拶を書いておく気にならないのは当然。身辺整理はエッチDVDはあらかた処分したし、ヨットの処分だけは家族には難しいと思うのでぼちぼち行うつもりだけどまだ手放す気にはならない。

ということで、一般的な意味での終活は全く行うつもりがないから、後は遊び倒すだけ!(^O^)/

ではそれがなぜ車中泊なのか?






ドーキンス博士が教える「世界の秘密」/早川書房

¥4,536
Amazon.co.jp