今日は新約聖書の”ルカの福音書”からの引用です。
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「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。
わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招いて、
悔い改めさせるために来たのです。」
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私達がイエスの教えを正しく理解してそれを広報しようとした時に
それを必要とする人間は”善人”ではありません。
ここでイエスキリストが話しているように
創造主の法へと導かれる必要のある人間は罪人であって、
尚且つその自覚のある人間です。
創造主の意志に照らして一切の罪を犯していない真の義人には、
私達の助言や導きは必要ないはずです。
そんな人間が存在すれば、
黙っていても創造主の法へと導かれているでしょうし、
創造主への特別な信仰など持っていなくても
記憶を持っての転生へと導かれる事になると思います。
そして一方では自分を義人としている人間は、
私達の広報する創造主の法は理解できません。
自分は正しく間違った事はしていないという認識を持つ人は
自分の罪を認識する事も出来ないのですし、
指摘されてもそれを認めることもないでしょう。
結果的には実質善人も
自称善人も私達の広報の対象にはならないと言うことです。
私達は自分達の事を顧みれば良いのだと思います。
私は自分がろくでなしの罪人である自覚を持っています。
自分が何も知らない人間である事も
自分が何も出来ない人間である事も
自分が大した物ではありえない事も自覚できています。
そして創造主の方を理解すれば
それに立ち返って自分達の行為を反省する意識も持てます。
多くの覚醒者は私と同じ意識を持っているはずです。
間違っても自分を正しい善人であるとか
何でも知っているとか、大物であるといった意識は持っていないはずですし
そんな意識が創造主の法とは
かけ離れていることも理解してくれているはずです。
自惚れや自尊心の存在が、
私達が正しく物事を理解する機会を奪っている。。。
そして誤った価値観を持つことが
私達の思考や行動までをも誤った物へと導くことになる。
自分を美化しても自分を大きく感じてもいけないというのは、
イエスキリストの幼子の例え話に繋がるものでした。
しかし現実社会では私達の持つべき意識は異なっています。
私達を義とも不義ともする判断基準となる道徳が失われ、
一方では人的戒律としての法律や人為的な組織の戒律が幅を利かし
それを守ることで自分を義であると讃えては、
その視線で他人を量っては裁いている人間で満ちているのがこの現代社会です。
私達が兄弟姉妹として父の元へと導くことが出来るのは
私達同様、自分が罪人である自覚を持っている人間、
その上で自らを改善して生き方を変えようと言う
意識をもてる人間です。
医者を必要とするのは病人であるように
創造主の救いを必要とするのは”罪人”だと言うことです。
ありとあらゆる体験が私達に多くの罪を作りました。
その中で、誤りを誤りと学び反省する意識を持つことの出来る人間こそが
魂の進化を果たすことになるのです。
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イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。
「貧しい者は幸いです。神の国は貴方がたの物だから。
今飢えている者は幸いです。やがて貴方がたは満ち足りるから。
いま泣く者は幸いです。やがて貴方がたは笑うから。
人の子のため、人々が貴方がたを憎むとき、
貴方がたを除名し、辱め、貴方がたの名をあしざまにけなすとき、
貴方がたは幸いです。
その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。
天では貴方がたの報いは大きいから。
彼らの父祖たちも、預言者たちに同じことをしたのです。
しかし、貴方がた富む者は哀れです。慰めをすでに受けているから。
いま食べ飽きている貴方がたは哀れです。やがて飢えるようになるから。
いま笑う貴方がたは哀れです。やがて悲しみ泣くようになるから。
皆の人がほめるとき、貴方がたは哀れです。
彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じ事をしたのです。
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先日記事で触れましたが、
富んだ人間、権力を持った人間、名誉や地位を持った人間は
その状況故に心が心地よい思いをする事に慣れています。
私達の心は不快な思いをすることを望みませんので
そんな人間達はそれを失う事を不快に感じる事になるはずです。
富を失うと、権力や地位や名誉を失うと
彼らは不快な思いをするのです。
一方そんな心を更に心地よく保ちたいと思えば、
其の欲は膨らむ事にもなります。
心は平凡な安定を望みませんし、
同じ状態に慣れ親しむと心はそれを心地良いとは認識できなくなるからです。
結果心が心地よく感じるために
私達は今以上に富や権力や地位や名誉を求める事にもなります。
しかしそのような価値観は
私達が心のエゴを持って作り上げたものに過ぎず
それらに価値を持っている間は私達は心に囚われている事になります。
「財を築き上げる場所に私達の心もあるのだ」
とイエスキリストが語ったように、
物質的な豊かさや人間の作り上げたものに価値を見出している間は
私達の心は三次元社会の誤った価値観に囚われているようなものです。
しかし私達は心のあり方にこそ価値を見出さねばなりません。
イエスキリストが天の国に宝を積めと言ったのは、
魂もしくは心のあり方こそを重視しろと言う趣旨のはずです。
そして今現在、物質的に報われない思いをしている人間は、
心が物質的な価値観に満たされて満足した状態を知りません。
そんな価値観を当初から持っていないのですから
富や権力や名誉や地位が無くとも心が不快な思いを感じることなく
すんなりとイエスキリストの教えを受け入れる事も出来ます。
そんな内容をも含めてイエスキリストが語っているのだと思います。
そして大切なのは私達は其の行動に見返りを求めるのではなくて
それが万物を思っての無償の奉仕であることでした。
現在の社会の中で、富や地位や名誉を与えられている人間は
其の行為に対する報酬を既に受け取っていることになります。
お金と言う形で報酬を受けた上に褒め称えられ
賛美され一目置かれて二重にも三重にも
報酬を受けているかもしれません。
彼らの奉仕・作業は”無償の奉仕”ではありませんし
通常私達の殆どの行動の動機は個人の心のエゴを満たすことです。
しかし私達の行動の動機は、万物に対しての無償の奉仕である事を
求められている事はご存知のとおりです。
そして其の行為こそがイエスが
「天に財宝を積む行為」と例えたものですし
其のことが結果的には私達の魂の進化をも導くことになります。
更にイエスは預言者が
皆この社会で迫害されていた事にも触れています。
聖書の”預言者”というのは、今の社会での預言者のように、
「いつどこにどんなことが起きる」と
”予言”と言われているものを語る怪しげな人間ではありません。
創造主の法へと導くための真理の欠片を与える存在や、
救世主がやってくる前にその整備をしておくような存在こそが
天使達の歴史の中では預言者であったはずです。
イエスキリストの到来を予期して、
其の信仰への整備を進めていたのがバプテスマのヨハネだった様にです。
そしてそんな人間達は
時の権力者によって迫害をされ続けて来ましたが、
そんな立場になる人間は、
結果的には創造主の法に導かれているのだから
幸いだと言う話になってくるのだと思います。
私達は小さな預言者になることが出来ます。
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自分を愛する者を愛したからといって、
貴方がたに何の良いところがあるでしょう。
罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。
自分に良い事をしてくれる者に良いことをしたからといって、
貴方がたに何の良いところがあるでしょう。
罪人達でさえ、同じことをしています。
返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、
貴方がたに何の良いところがあるでしょう。
貸した分を取り返すつもりなら、
罪人達でさえ、罪人たちに貸しています。
ただ、自分の敵を愛しなさい。
彼らによくしてやり、返してもらう事を考えずに貸しなさい。
そうすれば、貴方がたの受ける報いはすばらしく、
貴方がたは、いと高き方の子どもになれます。
なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、哀れみ深いからです。
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ここでの例えも無償の奉仕が大切だと言う話に通じてくるものです。
好きな人に何かをしてあげる。
これは自分が其の人間に好かれたいと言うエゴを動機とする
行動の場合が多いと思います。
自分に何か良い効果を齎してくれる人間に好意を感じて
其のお礼に何かをしてあげる。
これも無償の奉仕ではなくて見返りが伴っている事になります。
しかし自分を敵とするものに関しては、
何かを与えたからと言ってそれに恩を感じて
其の見返りを返してくれることは期待できません。
つまりそれを実践したとしたら
それは無償の奉仕の意識を持っての行為という事になります。
同様の例えで、
「もてなしをするときは親戚や兄弟を呼んで施しするのではなくて
貧乏な人間、お返しを出来ないであろう人間を招いてはもてなせ」
というイエスの例え話がありました。
そこでの趣旨は、
「親族などは持て成せば、もてなし返してくれるが
貧乏な人間達は持て成されても
それに対してお返しすることは出来ない」
と言う内容だったはずです。
つまりはここでも、同じ施しであっても
見返りのないものこそが大切だと言うことを
イエスキリストは例えているわけです。
例えの内容が極端で、しかも私達には実行の難しい内容となっているので
それこそを偽善だと言う人間もいますが
結局はイエスの言葉の中の例えの趣旨を理解できず、
それを額面どおり受け止めようとするから
イエスの言葉の真意を理解できないのだという事になります。
イエスは敵をも愛せと語り
「私達は本当は万人に対して、更には万物に対して
分け隔てのない慈しみを持たねばならない」と
創造主の意志について語っているのだと思います。
「自分を愛するように隣人をも愛しなさい」
と言う言葉もありました。
これに関してはこんな記述もあったはずです。
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しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
イエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。
強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、
彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、
反対側を通り過ぎて行った。
ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、
そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、
自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。
『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。
「あなたも行って同じようにしなさい。」
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ここではイエスキリストは”愛すべき隣人”としての例として
それがどんな対象であるかを具体的に説明してくれています。
イエスキリストが本当に私達に求めたかったのは
真の敵、ここでは強盗をもあわせて、
”すべての人間に対して慈しみをもって奉仕をしろ”
と言うことだと思います。
分け隔てる事無く、誰にでも、万物に対しても持つべき慈しみ、
それはそのまま創造主の意志だからです。
「創造主は罪人にもそうでない人間にも
平等にお日様を昇らせてくれます。」
という判り易いたとえ話から判るように
創造主の法は私達誰に対しても平等に働きかけるものです。
創造主の分身である私達は本来はそこまで
求められていると言うことをイエスキリストは
12使徒には説明しているはずです。
「右の頬を打たれたら左の頬を出しなさい」
「上着を奪うものにはズボンまでくれてやりなさい」
というのは
一切の争いの意識を持たないことと、
私達がすべき無償の奉仕を、
極端な例えで説明したものだと認識できます。
しかし現実社会の私達は、
元々がイエスキリストのような聖人の意識はもてませんし、
これを実践しろと言われても殆どの人間が不可能です。
まして心無い人間のはびこる社会でこれを実践する事によって
悪人と言われる人間達が得をし続けることにもなります。
更には彼らには悔い改める機会もなくなります。
私達は自分達の社会の実情に併せて
出来る限りの範囲で創造主の法を実践するのが良いと思います。
ここでのイエスの例えにあるように
友好関係にある人間はもちろんでしょうし、
例え自分を目の敵にする敵は愛せなくても、
それ以外の一般の人間は差別なく平等に見つめ応対することは出来ます。
自分の心の好き嫌いで分け隔てることなしにです。
心の持つ好き嫌いの感情、不快な感情の全てを
完全に消す事が出来れば
創造主の意識で、自分を迫害する人間をも愛する事が出来るのでしょうが
其の域に私達が達するには一万年はかかるのではないでしょうか。
私達は天使達の社会の劣等生。
一度や二度の生で創造主の法を学んだからといって、
天使達の中の指導者であるイエスキリストの様に、なれるわけもないのです。
今私達が出来ることは、
天使達の世界の一員として仲間入りが出来るように、
彼らの歩んできた道の入り口へと意識を向けること。
魂と言う意識の経路を理解して
それを使用出来るように実践すること、
イエスキリストの例えで言えば、
エゴを捨て謙虚さをもって父の元へと帰る事だと思います。
未だ自覚のない人は父の元へと帰るために、
兄弟姉妹達は其の門から
私達の本来進むべき道を歩み始めるために
私達だけでも創造主の法を日々実践するように勤めて行きましょう。
【貴方の無限なる力の祝福がありますように】