1月に入ってから、腫瘍がある付近の疼痛がひどくて、夜眠れない日々が続いた。
これがかなり辛くて、冗談抜きでさくっと殺して欲しいと頭に過ったりする。
今は少し薬も呑んでいるおかげか少し落ちついている。
おや、痛みがあまりない!と
自覚しながら目が覚める、あの包み込まれるような安堵感と晴れやかさを、何と例えようか。
心の底から「神様、清々しい朝をありがとうございます!」と感謝せずにはいられない。
その足で早朝の遊歩道を歩く。
たくさんのご老人とすれ違う。
めいっぱい腕をふり腿をあげながら快活に歩むひと。
少し歩いては、膝をつき、また少し歩きはじめるひと。
この行き交うご老人の歩みを後押しする力は、単に長寿を願うだけではないはず。
もしかしたら、孫がいる。病の子供がいる。
伴侶がボケている。
など、背後に優しい愛の力を感じずにはいられない。
自分は、何のために歩いているのだろう。
もちろん再び立ち上がりたいという願いや、親より先には死ねないという意地もあるんだが、
それ以上に無意識の中で突き動かす何かがある。
1月は痛みもあって布団の中で過ごすことが多かった。
痛みにうなされ、少し落ち着いたら本を開き、また痛みが出てきたら本を閉じ、じっと耐え、耐えきれないときは、とにかくモジモジと悪あがきをする。
そしてひたすら祈る。語りかける。
ギターが弾けないのだ。
が、それよりも今大事なことを知らされている。
このままギターを置いても心残りはない。
その反面、心残りがなくなり余計な雑念もなくなったからこそ本当の始まりを迎える気がしなくもない。
とにかく今は、音楽をまるで戦場の飛び道具や魔術のようには使いたくない。
戦いたくない。比べたくない。
そういう言葉も聞きたくもないし、言いたくもない。
向き合い方くらい、放っておいてくれ。
音楽だけじゃない。
全ての創造に他人の干渉は必要ない。
それは悪魔の囁きだ。
あなたは天使の顔だが、その言動は肉の虜だと気づいておくれ。
今の自分にとって音楽は願いや祈りだけで十分だ。
浜田省吾が本当に最高なんだ。
僕は学生の頃から大好きなんだ。
無償のロック愛。感じるんだ。
KANさんや岡村ちゃんにも感じるんだが
ハマショーの愛はもはや聖人の域だと勝手な幻想を抱いている。話が変な方向へいったけど。
しかし
この世で多くのものを溜め込んで何になろう。
灰の山をどこまで高く積むのだろう。
それより瞬間の愛を敏感に感じて、優しい気持ちで手を差し出す人間に憧れる。
以前にもブログで書いたが
ある日、神様の声を聞いた気がした。
その日から2ヶ月ほど立つのだが
どんなにしんどい日でも聖書を開いた。
あらゆる立場を想定し、あらゆる角度から眺めてみた。
そして知れば知るほど、深まれば深まるほど、心が苦しくて、ヨハネが夢にまで出て来て、比喩ではあるが、ならず者の烙印を押されるか如き悪夢も見た。
自分はなんて罪深い人間なんだろう。
苦しみを受けるのは当然だ。
悔い改めよう。
翌日になっても消えないように明日も祈ろう。
その毎日の祈りの蓄積は自分の悪魔的側面を破壊し続け、本来罪人として生まれてきた人間的本質を血で洗うような呵責に苦しむ。
最後に、ある日、神父様が僕にお話してくれた内容に少しふれておく。
囚人の方とお話する機会があります。
人間は誰でも防波堤の上を歩いてます。
ほんの少しの風で荒海へと落ちます。
ほんの少しの風で原っぱへと落ちます。
誰も責める筋合いはない。
戦いを挑む筋合いもはない。
弱者を諭す筋合いもない。
富豪を妬む筋合いもない。
創造にまで肉の欲を挟み込む気か。
自由を称え、優しく微笑み返せじゃないか
弱虫よ。
自分の歌が、ただただ真っ白な
願いや祈りとして
人々の心に届けられるようになったら。
そのままで十分だ。