法隆寺「秀吉の嫡子 秀頼による慶長の大修理」 | ドット模様のくつ底

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法隆寺中門と五重塔



「法隆寺

豊臣秀吉の嫡子 秀頼による慶長期の大修理」



天下人として実権を掌握した秀吉は天正14年(1586)に

京都方広寺の大仏造立を発願しました。

この工事には全国から優れた工匠たちが集められたといいます。


そのとき、法隆寺の「四大工」の一人であった中井正吉という棟梁が

大和の工匠たちを率いて参画し、その技量を大いに発揮しました。


この中井正吉は大坂城の築城にも従事したとする伝承もありますが

さだかではありません。


その後、法隆寺の四大工職の株は嫡子の正清が継承したようです。



慶長3年(1598)、太閤秀吉の死去によって、

天下は徳川家康の手中に移りつつありました。


その頃の正清の器量が目に留まったそうですが、


徳川政権の傘下に入ったことにより、


その経緯、秀吉時代の正清の業績は抹消されたのか


わかりません。


関ヶ原の戦いころから、

家康は正清を側近の一人として寵用するようになります。


慶長11年には、家康の駿府城が完成してからわずか二カ月余りで、

天守や本丸が全焼しましたが、


この報せを受けた正清は、

すぐさま駿府城に馳せ参じて復興につとめています。


そのことで正清は家康のますますの信頼を得ることになりました。


しかしそのころ、豊臣家と徳川家は一色即発の不穏な状況下にありました。


家康は秀吉の遺児である秀頼に対し、


秀吉の菩提を弔って畿内一円の社寺の修理を行うように勧めました。


家康は少しでも大坂城に蓄えている黄金を減らす目的だったと言われています。


そのような家康の計略を知りながら、秀頼はあえて社寺の修理に着手します。


この修理には、豊臣家の老臣として知られる片桐東市且元が

修理奉行として資金面の管理を行いました。


法隆寺でもまた早急に修理をしなければならない時に直面しており、

秀頼の修理は願ってもないことでした。


この時期の修理は法隆寺創建以来の大規模な修理であり、


建造物の構造の安全を図るためにで、


崩壊寸前の塔堂は破壊を免れたそうです。


正清が携わった主な建物は、


伏見城、二条城、知恩院、増上寺、法隆寺大修理、


仙洞(後陽成院)御所、江戸城、駿府城、方広寺大仏殿、


名古屋城、内裏、東大寺大修理、茶臼山陣小屋、

久能山東照宮、日光東照宮、江戸紅葉山東照宮などが知られています。


(つづく)

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