夜話 1766 さだまさしと石橋秀野 | 善知鳥吉左の八女夜話

善知鳥吉左の八女夜話

福岡県八女にまつわる歴史、人物伝などを書いていきます。

夜話 1766 さだまさしと石橋秀野 


さださんがことあるごとに父と慕う山本健吉の初めの妻が秀野である。

山本健吉は筆名。

本名は石橋貞吉。生地は長崎市。

両人ともに健吉の父君石橋忍月らとともに 八女市の浄土宗無量寿院の「石橋氏累代之墓」に眠る。

これらのことはこの場で数回語った。

同寺には善知鳥の恩師 画家坂本繁二郎も眠り また善知鳥の菩提寺でもある。

その縁で石橋秀野のことを知り得た都度 この場を借りて発表していた。

健吉・秀野の息女が随筆家の筆名 山本安見子である。

健吉は残された幼子 安見子のため静枝と再婚。

廿数年前の健吉死亡時 安見子より秀野のルーツしらべを善知鳥は依頼された。


知り得た資料の発表がさださんの目に留まったらしい。

以来 さださんは秀野の才能あふれる句に心奪われ 先夜の「関ジャニ∞」との共演となりTV放映となったものだろう。


そのさい 山本健吉には触れなかったが 

秀野の「蝉時雨 子は担送車に追ひつけず」の説明は観るものの心を打った。

丁Vの秀野の写真は安見子の誕生祝いの三人像からからカットされたものだった。秀野は三十四歳だった。

その美貌は匂うばかりだった。

そして その五年後 秀野は京都市宇多野療養所で亡くなるのである。

ここは戦時中 陸軍病院だったところ。

当時コンクリートむき出しの廊下を粗末な担送車で運ばれる親子の別離の哀れさを想像あれ。

その際 遺された秀野の絶句が上の句だった。

その句に心奪われたさださんに深く善知鳥は感謝し また共演の若年のみなさんの感激もこの善知鳥には強く響いた。

出演のみなさんや企画されたTVスタッフの皆さんに厚く感謝致します。

なお秀野が残した句中の「児は」は健吉により「子は」に変えられているる。

健吉の一万二千余点の遺品とともに秀野の遺品も現在福岡県八女市立図書館の「山本健吉資料室」に納まっている。

この資料室設立についても さださんの一働きがあったことを付けえる。 なお秀野についてのご質問がありましたらメッセージをください。できるだけ お答えいたします。(敬称略)