ジュリーがライバルPart Ⅱ(前編) | 最低最悪な矢沢永吉私設ファンサイト管理人のブログ。まともな矢沢ヲタは、来ちゃダメ!
前回ジュリーの話を書いた際、ジュリーとキャロルが一緒のイベントに出た話を書いた。

書きながら、「原理主義住民の誰かが、『ワンステップ·フェスティバルもそうなんじゃないですか⁉』とか聞いてくるだろうなぁ····」と思っていたのだが、予想に反して誰一人聞いてきやがりません!(笑)

ワンステップに関しては、矢沢永吉原理主義。用語の基礎知識に書いてあるので、ちょっと勉強すれば共演について頭に浮かんできそうなモノだがな····。
とは言っても、ジュリーは初日でキャロルは最終日だったんで、出演日は全然違うんですけどね。(爆)

一応、原理主義用語の基礎知識からコピペしときますわ〜。

【ワンステップ・フェスティバル (わんすてっぷふぇすてぃばる)】 
1974年8月に福島県郡山市で行われたロックフェス。7日間で10万人を動員し、「日本のウッドストック」と呼ばれた伝説のイベントである。キャロルは最終日に、会場に銃声が鳴り響き、矢沢が血を吹き出して倒れるという派手な演出で登場した模様。
前日まで「出演しない」とキャロルがゴネたり、「ヘリコプターで登場したい!」と、タラちゃん並みの駄々をこねる矢沢の説得に苦労したり(笑)、日本人バンドはノーギャラだった為に、矢沢に何度も「ギャラねぇからな!」とプロデューサーの内田裕也が確認する等(爆)、舞台裏は大変だったようである。
74年NHK教育「若い広場『青春の明日』」というタイトルでドキュメンタリーが放映され(2001年に再放送)、その映像を編集したDVDとCDが発売されたが、キャロルは未収録。権利関係に人一倍うるさいリーダーの説得に失敗したらしい。(笑)  




「矢沢永吉原理主義。なんだから、キャロルの話は関係ねぇ〜っす!」とか屁理屈をこねる原理主義住民もいそうだが(笑)、ならばZ'sは見に行かなかったんだろうな⁉(爆)
見に行かなかったのならOKだが、見に行ったのなら屁理屈など言わず、海より深く反省するように!(マカロニ爆)


さて、ジュリィィーッ!ジュリーがライバルで、矢沢永吉のジュリーへの深い片思いについて触れた訳だが(笑)、「ホントに矢沢永吉は、ジュリーが好きだったんだなぁ···」と思わせるコメントがまだあったので、紹介してみよまい。 

「ぼくがなぜ広島から東京に出て来たって言えば、それは簡単なことですよ。とひかく沢田研二以上の大スターになりたかったからだ」(原文ママ)

矢沢永吉は、「僕が憧れたのは、海の向こうのビートルズよ!」などとよく言ってますが、ジュリーに憧れてたのは200%間違いの無いトコでしょうな!(笑)
沢田研二以上の大スターになりたいって言ってるってコトは、ジュリーはスターなんかではなく、スーパースターだと思ってたコトになりますな!


そしてデビュー当時は、こんなコトも。

「いまも夢はくさるほどあるが、とりあえず、かつてのタイガースくらいの知名度を作りたい。」

もうとにかく、ジュリーみたいになりたかったんですね、わかります!(爆)


実は矢沢永吉と沢田研二には、奇妙な縁があるのだ。
キャロルデビュー直後の紹介記事である。

「彼らには、プロデューサーにはミッキー·カーチス、マネージャーにはタイガースを育てた名マネージャー中江氏がついており、その後には大渡辺プロダクションが控えている。」(原文ママ)

記事内では、中江氏と記されているが、これは誤りで本当は中井國ニという名前である。
もう亡くなられているのだが、沢田研二が「タイガースの6人目のメンバー」と言う程のタイガースにおける重要人物で、内田裕也の初代マネージャーでもあり、そしてガロの名付け親でもある。

ガロのプロデューサーは、キャロルのプロデューサーでもあったミッキー·カーチス。
タイガースを大阪から連れてきたのは内田裕也。
ミッキー、内田裕也、中井國ニ氏のトライアングルの中に、沢田研二と矢沢永吉がいたと言うのが、実に興味深いところだ。

しかし、それ位の近さにいたというのに、何でジュリーは矢沢と近づこうとしなかったのか⁉

やっぱりしつこそうだったのが、嫌だったの☆カナ⁉(笑)

田舎っぺ丸だしだったのが嫌だったの☆カナ⁉(苦笑)

それとも、利用されそうな気がしたの☆カナ⁉(爆)



つ〜コトで、後編に続け!