ジュリーがライバルPart Ⅱ(後編) | 最低最悪な矢沢永吉私設ファンサイト管理人のブログ。まともな矢沢ヲタは、来ちゃダメ!
「ぼくがなぜ広島から東京に出て来たって言えば、それは簡単なことですよ。とひかく沢田研二以上の大スーパースターになりたかったからだ」(原文ママ)

「いまも夢はくさるほどあるが、とりあえず、かつてのタイガースくらいの知名度を作りたい。」

「とにかくタイガースの沢田研二は最高ですよ」

「とりあえず沢田研二との共演を···テレビでやりたい···」

このように、溢れんばかりのジュリー愛を語っていた矢沢永吉ですが、ソロになると収入の面で沢田研二を上回るようになっていくんですな。

矢沢永吉は、1976年度に初めて長者番付の歌手部門9位に登場し、翌年1977年度に2位、1978年度には遂に1位となる訳だが、憧れのジュリーより上に立ったという気持ちは、どんなもんだったんでしょうな。




 
でもジュリーも、1977年に勝手にしやがれでレコード大賞を取り、その後もヒットを連発してたので「ジュリーの壁は厚いな···」とか思ってたりして。(笑)

そしてジュリーと言えば、フランスで1975年にヒットチャートのベスト10内に曲をチャートインさせてるし、イギリス盤やドイツ盤、カナダ盤も発売されてるので、米盤だけの矢沢永吉は、世界進出って意味で負けてるような····。(苦笑)

おまけにパナマの投げ方も、ジュリーは手首を効かせたカッチョいいサイドハンド投げだが、矢沢はフリスビー初心者並みのバックハンド投げなので、これまたジュリーに負けている。(笑)

ジュリーの壁は、まだまだ厚いようですな!(爆)

でも80年代に、沢田研二が雑誌のインタビューで「年取ってきたからって『矢沢永吉がライバルです!』って僕が言ったらおかしい。僕は『マッチや俊ちゃんがライバル!』って言わなきゃいけないんだ!」って言ってるのを読んで、「流石はジュリー!カッチョいいな!」と思ったが、「矢沢を意識してくれてんだ⁉」と思った記憶もある。  

永ちゃん良かったね永ちゃん(笑)


そういや矢沢永吉と沢田研二と言えば、糸井重里を作詞家として起用しているという共通点がありますな!

矢沢は一時期糸井と疎遠になっていたようだが、疎遠になった理由は、矢沢の名前を利用してメジャーになった糸井を嫌がったからだと思っていたが、ひょっとすると、TOKIOの作詞によってジュリーと近くなった糸井に嫉妬してたのかもしんないな。(笑)

永ちゃん悔しかったのかい永ちゃん(爆)


それにしても、こんだけジュリーを意識してた矢沢永吉が、成りあがりで沢田研二の「さ」の字も言わなかったのは、合点がいきませんな。

まあ、「高校の時にタイガースを見て芸能界に憧れ」「沢田研二を超える大スーパースターになりたくて広島から出てきた」ってストーリーじゃ成りあがりはあんなに売れなかっただろうし(笑)、熱狂的なヲタも獲得できなかったであろう!
いつも話を出して大変申し訳だが、イカちゃんだってRUN&RUNの中で、「永ちゃんみたいにね、なりたいね!」とは言わなかったでしょうからな!(爆)

成りあがりでジュリーについて触れなかったのが糸井のアイデアなのか矢沢のアイデアなのかは知らないが、ホントに上手く騙してくれたわね、矢沢永吉&糸井重里!(笑)

まあ、成りあがりには沢田研二の「さ」の字も入ってなかったけど、キャロルでデビューするにあたっては、巴山って名字から沢田研二の「沢」の字が入ってる「矢沢」って名字に変えてるしな!(笑)


いつか矢沢にインタビューできる日が来たとしたら、「矢沢永吉が語る沢田研二論」ってのを聞いてみたいですな!

そしてミュージックフェアかSONGSで、矢沢とジュリーの共演を実現させたい!(笑)

まあ、こんなコトばっか書いてたら、無理だとは思いますが。(爆)