けふもをはりのない旅…
過去への旅も、いつかへる…
もしもの例えで旅をしやう…
白人達と先住民達は最初から喧嘩した訳でもない。
さすがに、最初はお互いに手探りながら交流しただらう。
言葉は違えどお互いの文化や生活の知恵の共通点や相違点なんかを…
探してみたりしたのだらう。
しかし、当然の事だけれどお互いの文化を交流させるやうな事にはならなかつた。
白人からみた先住民文化は文字もないし、全く違う生活習慣や衣服を理解出来ない上に幼稚なものだと判断したのだらう。
一方、先住民からみた白人達の生活も幼稚に見えたのかもしれない。
畑を耕してとうもろこしを育てるのも下手だし、楽しそうに見えない。
開墾している白人の多くは単なる白い肌をした奴隷だつたので当然である。
お互いにお互いの文化が幼稚に見えていたといふ具合…
先住民達の文化は少しでも調べれば実にバランスのとれたものである。
宗教性や知恵や笑いの文化、健康法なども簡素だけれど抜かりない文化である。
勿論、白人の高度な文化からみると野蛮で貧相な面も多いけど…
お互いの文化に甲乙はつけられないが、
お互いの気分には甲乙があつた。
この辺りを精神分析と呼んで差し支えないし、見所である。
そして精神分析が話題になるには理由がある。
精神状態の温度差があるかないか…である。
つまり、空気が違うか…である。
つまり、気分が違う…のである。
ここら辺から、もつと想像力をたくましゆうする。
更に、話を逸脱してみる。
温度差や空気、気分は…基本的に見所である。
恋愛もお笑いもかやうな温度差を感じる事も少なくない。
僅差ながらも温度差により結果反転するし、しそうである。
だから、この温度差は出来る限り感じさせないか、
感じないやうにするべきである。
問題を引き起こす根源らしきものだからである。
温度差を感じたら…
また、感じさせたら…
をはりである。
詰まる所、温度差を感じないやうにする為、
当該同士が一緒にお風呂に入るのは科学的な根拠としても正しい。
すれば温度差を感じることはなくなる。
水は電気を通すことから、電荷的にも等価となる。
白人とインディアンも一緒にお風呂に入れば喧嘩にはならなかつた。
猿なども温泉に入るけれども、
あの喧嘩っぱやい猿でさへ、
お風呂ではしみじみ湯につかる。
謹言