TALK TIMK~市川雄太の創作活動公式ブログ~ -7ページ目

新作小説とこれまでの自分

 こんばんは、お久しぶりです。昨日pixivに小説を書きましたのでこちらを読んでいただければ幸いです。面白ければ感想をよろしくお願いします(笑)。

①〈1989(昭和64)年1月7日の僕〉



②〈2005(平成17)年6月5日の僕〉



③〈2012(平成24)年9月16日の僕〉



④〈2016(平成28)年5月2日の僕〉



⑤〈2017(平成29)年11月9日に30歳の誕生日を迎えた時の僕〉



⑥〈2018(平成30)年1月30日の僕〉




⑦〈ちょうど2018(平成30)年5月9日に30歳になって半年を迎えた僕〉



⑧〈2018(平成30)年5月31日夜22時前の僕〉



⑨〈2018(平成30)年6月1日の僕。〉



市川雄太の詳細

 市川雄太 wikipedia


 市川雄太(いちかわ・ゆうた、1987年11月9日-)とは大阪府羽曳野市出身の新聞専売所業務主任であり、兼業作家でもある。大阪府松原市在住の30歳男性で右利き。


 〈概要〉


 編集中

 〈経歴〉


 1987年に大阪府松原市にて生誕(※1)。1992年に羽曳野市立恵我之荘幼稚園に入園。上級生の作った砂場の山を崩して先生に怒られ、山を作り直したことがある。当時の将来の夢は『ケーキ屋さん』と『電車の運転士』だったという。


 1994年に羽曳野市立恵我之荘小学校に入学するも翌年4月に羽曳野市立埴生小学校に転校し、更に小学6年だった1999年には夏休み明けの9月に羽曳野市立西浦小学校に再転校した。そのお陰で広島への修学旅行には行けなかったばかりか転校先では既に修学旅行は愛知県に6月に行っており、どこにも行けなかったことをが非常に悔しかったという。学生生活は何度も転校をしているためか人間関係を深めることが出来ず、西浦小学校時代に至ってはほとんど交友関係すら築けなかったという。小学4年からクラブ活動もあり、卓球を一年とパソコンを二年していた。


 1995年夏にはじめて祖母の故郷の高知へと行き、曾祖母と初対面する(曾祖父は1992年11月12日の68回目の誕生日に癌で死去しており雄太達曾孫とは対面していない)。その後高知には数回訪問している。


 2000年に羽曳野市立峰塚中学校に入学。大リーガーのダルビッシュ有は一年先輩にあたり、同級生には松竹芸能所属のお笑いコンビ・たつみなみのみなみがいる。

中学時代は美術部に入部するもすぐ退部してしまい、一年生の頃からいじめに遭うなど不遇であったが後に振り返るとすぐに泣いたり、教師に報告するなどといった弱々しい面や勉強・運動ともに出来ないといった無能ぶりが原因だったのだろうとしていじめられるのは仕方なかったのかもしれないとのこと(※2)。尚、三年生の時には不登校(というがサボりみたいなもの)も経験している。この頃将来の進学を考えておらず、新聞店に住み込みで働くことまで担任と検討していたという。またこの頃は勉強よりもゲームに夢中で学力が低下していた。


 2003年に大阪府立農芸高等学校定時制入学。校内では人間関係はやや良好で大阪農業クラブに所属して農業の勉強もしていたが、埴生小学校時代の同級生と再会してからは彼らに引っ張り回されてその悪友関係が最終学年の四年生の夏休み前まで続いてしまったという。同年に定時制課程の廃止が決まり、9月27日に近鉄河内松原駅前で学校の皆と必死に署名活動をしたが実らなかった。


 一年生時の冬休み中だった2004年1月に大阪市阿倍野区の近鉄百貨店で『バファローズアワー』の収録が行われており、収録に参加出来た上にそこでクイズに解答したことがある。


 2005年頃から悪い交友関係が広がり、一時は家庭崩壊の危機もあった。特に小学時代の同級生からは学校へ行くのを阻止されるなど散々だったという(※3)。後に母親や母親の同僚の協力で彼らとは2006年7月7日に縁を切ることが出来たという(後に復縁)。その後は卒業まで何もなかったという。別の同級生と『オセロ同好会』を開くも会員は二人だけであった(二人とは別に顧問として仲の良い先生がいた)。なお2005年には『野球難民』(長崎出版)のインタビューを受けている。


 2006年は定時制高校が4年制のため残り1年通学をするが同級生達は大学に進学するために浪人しており、度々市川を遊びに引っ張り回しては登校妨害(ついには学校にまで行かせなかった)までするほど悪質さがエスカレートしていた(それもあって前述の通り絶縁)。4月から7月までは藤井寺市内の『コープ陵南店』でドライ・日配のアルバイトを、8月には早朝に松原市の弁当屋『浜乃屋』と日中は藤井寺市の『前田製菓』で掛け持ちしていたが同月中旬に共に解雇されている。その後は同月に一度だけ祖父の営む研磨工場に行ったのみで学生生活に専念していた。余談だがこの頃は『ちょこっとシスター』という深夜アニメが好きだったという。


 2007年春からは祖父の営む八尾市の研磨工場で勤務する。高校時代にオセロをしていたからかオセロで世界を目指そうとするも定例会が近隣に無く断念している。一方で休日は野球観戦、ボランティアスタッフ(※4)、カラオケや草野球を楽しんだ。草野球チームでは補欠だったためにスコアラーや臨時のブルペン捕手を務めた。同年3月6日の大阪日日新聞に初の投書が掲載されたことから後の投書の幅が広がった。また同年8月29日には仕事中に右目に塩酸が入り、あわや失明の危機になったこともある。11月1日に同僚との会話中に(同僚に対してではないが)暴言を出してしまう。12月30日に大阪市内の占い横丁で「30代で成功する」と言われたという。


 2008年も引き続き研磨工場に勤めたていたが9月30日に工場を辞めて翌10月9日から松原市内の産経新聞松原南専売所にて勤務する(※5)。同月16日に原付免許を取得するも翌月27日に羽曳野市内で人身事故を起こして相手に怪我を負わせてしまった。事故を機に安全運転を心掛けるようになったはずだがその後も翌年に破損事故を2度起こしている。尚この年の1月の読売俳壇(森澄雄選)と11月の朝日歌壇(佐佐木幸綱選)で入選。短期間だけだが陶芸にもチャレンジしていた。


 2009年5月6日にカラオケ店で撮影した『祭男爵(ORANGERANGE)』を歌う動画が再生回数一万を越え、「ORANGERANGE」でユーチューブを検索すると本家より先にこの動画が出たという(※6)。ただしアカウントはカラオケマシンのものであり、市川のアカウントではない。同年12月27日に羽曳野市内で開催されている『はびきの市民川柳会』に入会。


 2010年6月9日に職場から一回目の逃亡をする。家へと逃げるも同僚に連れ戻されてしまった。同年8月7日から9日までの間に祖父母の住む高知へ行く。


 2011年6月9日にも職場から二回目の逃亡。仕事前に逃亡し、職場近くのバス停からバスで近鉄河内松原駅へと移動してあべの橋へと向かうも電車内で親友からの電話で説得されて戻る。ちなみにお咎めはなかったという。同年8月より川柳結社『川柳塔』の誌友(会員)となる。


 2012年は川柳の活動を行い、10月7日の阪南市内で開かれた句会で有名な川柳作家から『京阪神で有名な若手』と評されている。同年10月の川柳塔の句会で130Rの板尾創路の父・板尾岳人と初対面した。尚、2018年4月21日現在市川と創路はまだ対面していない。


 2013年は5月31日に処女作である『聞いて下さい僕の人生』(デザインエッグ社)を協力を得て出版。11月10日に淡路島で行われた職場の10周年パーティー(※7)にも参加した。


 2014年8月24日のはびきの市民川柳会にて選者(審査員)を務めて他の題は全て入選した(※8)。同時期から広島の大雨の件等で政治に関して不信感を強め、12月の休刊日を選挙で無くされた怒りが爆発して世界観が変わったという。同時期に奈良にも自身のルーツがあることが判明した。


 2015年の初頭から精神世界に興味を抱くようになる。同年6月14日に市川家の一族の地である奈良県広陵町に一人で初訪問した。同8月23日から25日には5年ぶりに高知へと帰省して曾祖母とも再会した。しかしこの時曾祖母からもらったお小遣いを同年11月2日に前述の同級生に騙し取られている。


 2016年3月28日に「千雄履」名義で『日長くなりぬ』(デザインエッグ社)を出版。また同年5月8日から『アルファポリス』で「市川雄一郎」名義で『ヒナの国造り』の連載を開始。他にも作品多数。


 2017年6月18日よりアルファポリスにて『とある高校生は世界を滅ぼす破壊兵器を奪還するはめになりました。』の連載を開始。同年11月9日に『市川文学会』を創立(2017年12月8日時点で会員は2名)。同月にKindleより出版される『~非日常の世界~日常という概念は存在しない』にて短編小説『夏の思い出と僕』を発表する(※9)こととなり11月25日に販売される。現在、『夏の思い出と僕』の宣伝用の音声を制作中(※10)。同年12月14日からpixivにて『いっちゃん』名義で初の二次創作小説『ここたまの魔法使いサリーヌ』の連載を開始している。また12月10日には同日誕生した『よっちゃんB級グルメ食事会』の初代副会長となる。そしてツイキャスを12月19日に配信して『ヒナの国造り』のキャラクターのカラオケパーティの配信を発表(※11)。


 そして2017年12月28日付のツイッターでデザインエッグ社(自費出版)より2018年5月29日に『おたすけ通信簿』と時期未定の『人生前向きになるための本』(共にムゲンブックス系)に加えて出版予定の『だます人、だまされる人~あなたは欺かれている~』(発売日及び出版先未定)の3作品の発売予定を発表(ただし3作品とも小説ではない)。


 2018年春に2作品発表と同時に新作のプロジェクトを起動予定。同年3月に川柳塔社の同人会員となる。4月1日付で『B級グルメ食事会』の2代目会長に就任。8日にはアルファポリスで『NACHIGO~猫耳娘・菜苺の異世界アドベンチャー~』の連載を開始し、12日にはデザインエッグ社より自費出版『人生前向きになるための本』をAmazonで発売。



 ●川柳作家として


 【名前】市川雄太(いちかわ・ゆうた)


 【雅号】同じ


 【活動期間】2009年12月27日ー


 【川柳歴】9年


 【生年月日】1987年11月9日(30歳)


 【出身地】大阪府羽曳野市


 【職業】新聞専売所業務主任


 【地域】全日本川柳協会近畿地区(大阪)


 【主な参加句会】川柳塔〈同人〉、はびきの市民川柳会、川柳藤井寺、あかつき川柳会等


 【著作】『川柳で見える人生の楽しみ方』(デザインエッグ社、自費出版、2016年11月8日発売)


 2004年の【広報はびきの】にて川柳が入選したのと同時期に学校で川柳作りを嗜んでいたことから5年の時を経て2009年12月27日の【はびきの市民川柳会】句会に初参加する。


 2011年8月発行の【川柳塔】9月号にて『誌友』となる。当時は23歳であり、期待の若手と評された。同年10月の【川柳塔まつり】に初参加。この時に【川柳マガジン】に写真が掲載されて市川のことが紹介された。


 2014年8月24日のはびきの市民川柳会で句の選者を務め、全部の作品が入選している(※12)。


 誌友になる前の2011年7月19日に大阪日日新聞読者欄で川柳を嗜んでいることをはじめて明かした他産経新聞の文芸欄に2012年7月から2014年2月までよく登場していたという。


 川柳塔社の誌友になってから6年間は何ら動きは無かったが2017年12月24日のはびきの市民川柳会句会にて『同人』昇格の打診を受け、2019年5月以降の昇格を希望していたが2018年3月の川柳塔社常任理事会で同人会員になることが承認され、同月『川柳塔』4月号に新同人として紹介される。誌友会員となってから6年7ヶ月目のことであった。この時将来の『常任理事』の就任に意欲を見せた(※13)。


 大阪の『あかつき川柳会』同人でもある。一方ではびきの市民川柳会では若いのと経験の部分もあって役員経験はない。


 全日本川柳協会が発行する名鑑の2013年版に参加している。2018年版にも参加予定。


 川柳に関しては生涯現役で叶うならば80歳を越えるまで続けたいと考えているという。また将来は現在在住する松原市に句会を創る夢もある。


 曾祖父は朝日歌壇に投稿する等して短歌を嗜んでいたことから市川に3世代を経て同じ短文文芸の心が受け継がれた。川柳と短歌と違えど市川自身もまた曾祖父の歩んだ道に進んでいる。


 世の中の流れから若手川柳作家の育成に関して「人材が出てくるだろうか」と危機感を抱いている。



 〈来歴〉


 ●1987年11月9日 大阪府松原市にて生誕


 ●2008年10月9日 産経新聞松原南専売所勤務


 ●2009年12月27日 はびきの市民川柳会に初参加して川柳をはじめる。


 ●2011年8月下旬 川柳塔社誌友(『川柳塔』2011年9月号発表)


 ●2018年3月7日 川柳塔社常任理事会で同人会員になることが承認される。同月の川柳雑誌『川柳塔』4月号で新同人として紹介された。



 〈家族・親族〉


 高知県宿毛市のすくも湾漁業協同組合参事・河原宣人は外祖母の従弟(母方大叔父の子)にあたる。宣人の祖父・父は漁師だったという。


 曾祖父の一人の市川与一郎は短歌を朝日新聞に投稿していた経験があり(※14)、雄太の川柳活動に影響を与えている。


 実弟は有名イラストサイトの人気絵師だった。しかしSNSが無くなったらしく2014年以降から活動が見られないとのこと。



 〈家系〉


 市川臣命は第5代天皇である孝昭天皇の第一皇子の天足彦国押人命から7世代目の子孫にあたる米餅搗大使主命の子とされている。市川臣命が神主を務めた石上神宮は奈良県天理市にあり、市川家が近鉄大阪線の松塚駅から徒歩30分の場所にある広陵町であることから雄太は市川家と市川臣命との関係は強いと見ている。



 〈サークル〉


 ●市川文学会(創立者、初代会長。初代幹事、初代編集、初代会計、初代人事、初代ネットメディア戦略部長兼任)2017年11月9日創立。会長以外は2018年2月9日に市川が人事を成立させた。


 ●インターナショナルB級グルメ食事会(市川雄一郎名義・初代副会長〈2017年12月10日ー2018年4月1日〉、2代目会長〈2018年4月1日ー〉)



 〈外部出演〉


 ●『魔王少女物語』第60話(2017年12月12日更新分予定、市川雄一郎名義)



 〈補足〉


 (※1)出身は羽曳野市だが、出生は松原市である。午前3時31分生まれだという。


 (※2)『聞いて下さい僕の人生』の「中学時代編」より。


 (※3)2006年時、既に高校を卒業していた同級生達は大学進学の為に浪人であったが雄太はまだ四年生だったために学生の身分であるにも関わらず夜遅くまで付き合わせたとのこと。そのために登校できなかった日もあったそう。


 (※4)Jリーグ・セレッソ大阪のスタジアムでのボランティアスタッフ。スタジアム内のごみを拾ったり、マッチデープログラムの配布等をする。


 (※5)理由は一緒に働いていた祖母と喧嘩したからで後に「酷いことを言った」と反省している。


 (※6)同年11月に職場近くのガソリンスタンドで「動画を見ましたよ」と声を掛けられたことがあるという。


 (※7)2013年に経営者が所長となってから10周年ということ(2003年から2017年10月30日現在まで現役)。


 (※8)ただし、大会の多い時期のためにたくさんの会員が大会に流れたこともあり参加者が少なかったというのもある。また当日は大雨だったという。


 (※9)市川の子供時代の思い出をベースとした作品である。また当初短編作品『マサトと月の女王』を製作していたが時間が少なくなったので『夏の思い出と僕』を作ったとのこと。


 (※10)宣伝と主人公・竜太の幼少期の声の担当は声優の樋口まゆみである。またシェリル役は七瀬真結に決まった。音声自体は完成済みである。


 (※11)ヒナの国造りからの登場人物は東住吉(高直)竜太と日紙直露(初期のメインキャラクター)で声はいずれも作者である雄太本人が担当する。


 (※12)ただし(※8)でもあるように同日は大会の多い時期で欠席者も多く、参加人数が少ないという事情もあった。またこの時以外に全作品が入選した経験は一度もない。


 (※13)川柳塔の常任理事になるには『誌友』『同人』『理事』の順を経て他の作家の推薦を受けてから就任することになる。2018年3月時点で市川は『同人』である。


 (※14)祖父曰く掲載したかどうかは不明。また雄太本人も2008年11月に朝日歌壇に入選している。



 (最終更新)2018年4月21日

漫画家は顔出ししないの?


 おはようございます、市川です。今日から天気が崩れるとのことで少し憂鬱です(笑)。


↑写真は今日午前6時44分撮影。

 一つ思うことがあるのですが最近の人気漫画家はなぜ顔を出さないのかと疑問に思います。顔出しするかしないかは自由です。しかし僕はその点について色々思うのですがやはり『僕が書きました』と自分の素顔を出すことが大切ちゃうん?と思うんです。昔から徹底して出さない人ならまだしも前はしていたのに最近はしないとかちょっと誠実さに欠けてますよ。作家さんは結構出してる人がいるじゃないですか!

 よく顔出しする人はナルシストと言う声がありますが僕からすれば顔を出さずに『俺ってミステリー!』的なことをする方がナルシストだと思いますよ。知人とかしか知ることが出来ませんからね・・・まさしくナルシストだわこれ。

 僕はこれからも時々顔は出していきますよ!その方が『この人が書いているんだ!』と親しんでもらえるし、また元気かどうかだと分かるので近況報告代わりにもなりますしね。これからも自分をさらけ出していきたいなと思います(ただし内緒事は誰にもありますけどね)!


 さて3月もいよいよ後半に入り、終盤間近!新年度に向けて皆さん、頑張っていきましょうね!