苦手な方はご注意くださいませ
Side N
フリだけでもよかったのだけど、本当に手洗いに行って、個室の前まで戻ってきた。中には入らず思案する。
先ほどの口ぶりからすると、
小畑さんとしては、俺が酔いつぶれて眠くなったところを介抱と称してホテルに連れ込みたいんだろうな…
個室の方へ視線をやる。
わざと、襖の隙間を少し開けたままにして出てきたから、中が見える。小畑さんの後ろ姿だ。
ん⁈
小畑さんは何かを俺が日本酒を飲んでいたグラスに入れているようだった。
なんだろ…
酒を注いでくれたようにも見えたけど、小畑さんは手に持った何かをそのままカバンにしまったようだった。
あやしすぎんでしょーよ…
そのとき、廊下の向こうから、先ほど食事を運んできた店員が歩いてきた。個室から少し離れたところで呼び止める。
「ちょっと…」
「は…はい」
髪を短く切り揃えた、真面目そうな若い店員の男は俺を認めて驚いた。
「あのさ、ちょっと助けてほしいのよ」
男を見上げて、声をひそめて、話す。
「な、なんでしょうか」
「さっき酒持ってきてくれた時に、たぶん、わかったと思うんだけど…あの人、俺狙いなの」
男は一瞬だけ目を見開いたけれど、すぐに神妙な顔つきで頷いた。
「いつも、あの人ここでそういうことしてるんでしょ?」
「は、はあ…よく…」
男は苦笑いを浮かべて俺に頷いた。
「ちょっと、確かめたいことがあるからお願いがあって…耳貸して?」
俺は店員さんの服の袖を引っ張って、耳元で囁いた。
「すいません、広くて迷っちゃった…」
個室に戻って、わざと小畑さんの肩に触れながらふらふらと隣に座る。
「そう、意外と広いよね、ここ…大丈夫?」
小畑さんの手が俺の脇腹に伸びて、ぐっと引き寄せられる。
小畑さんは酔っているのか、体温が高い。
ああ…こんな奴じゃなくて、
大野さんにくっつきたいな…
俺は自分のグラスにちらりと目を走らせた。俺のと揃いの、小畑さんのグラスにも同じような量が入っていた。見比べても、見た目には全く異常はない。
そのとき、襖の向こう、廊下側から「すいません、失礼します」と店員さんの声がする。
小畑さんは俺の腰から腕を離すと、「いいよ」と言った。姿を現したのは先ほど俺が廊下で呼び止めた店員の男だ。
「こちら、先週いらっしゃったとき、お忘れになられませんでしたでしょうか?」
店員さんはそう言って、丁寧に紙袋に入れられた何かを差し出した。
「何か忘れたかなあ。ちょっと見せて」
小畑さんは体をひねって店員さんの方を向くと、紙袋を受け取って、中を覗く。
俺はその隙に自分のグラスと小畑さんのグラスを素早く入れ替えた。
店員の男の方に目線を送って、素早くウィンクする。
彼は唇をきゅっと微笑みの形に変えたけれど、すぐにひっこめて小畑さんを見つめた。
「これは…俺のじゃねぇかもな」
小畑さんが紙袋に入った黒い折り畳み傘を見て言った。
「そうですか…失礼しました。では別のお客様ですね」
「おう」
襖は静かに閉まる。
「邪魔がはいっちまったな。ま、飲むか」
「先週も来られてたんですね」
言いながら、俺はすり替えたグラスから一口、ゆっくりと酒を飲んだ。わざとこくっと喉を鳴らして飲む俺の口元に、小畑さんが、さりげなさを装いつつも、視線を注いでいるのがわかる。
グラスをことりと置き、
「飲みやすいですね、この日本酒」
と言って微笑むと、小畑さんの目が満足そうに細められた。