第9回 新たな住まい (北から来た金丸) | お試しブログ

第9回 新たな住まい (北から来た金丸)

その男は、北 (にし) から伊是名島へとやってきたと云われています。

その男は、言葉は通じにくいが⇔さまざまな「能力」を持っていました。

その男は、北の松金 (にしぬまちかに) と呼ばれていました。*沖縄語源では、北 (にし) 、南 (はえ/ふぇー)、東 (あがり) 、西 (いり) といいます。

北の男は、南の男よりも「色」が白く「背」が高い、その上さまざまな「能力」をもっており、まわりの女からは「もてて」いました⇔まわりの男からは「もてて」いませんでした。

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ある年、「干ばつ」により水田が干上がっていました。北の松金の水田のみ水満々しておりました。この田は「金丸の逆田(さかた)」と言われ、普通より小高い所にあり、現在でも伊是名島に残っているようです。

の男たちは、北の松金が夜中に水田の水の盗んでいる。北の松金が「水泥棒」をしている。やっつけてやろうと決意しました。

ある日、北の松金のもとに「謎」の白髪老人が訪れ、「身の回りに気をつけなさい、この島を離れた方がよい」と、忠告をしたので北の松金は妻と弟を連れ沖縄島の北端にある宜名真村へと引越しました。


ところが、その地でも 北の松金が持つ「能力」は回りの人々から嫌われます。


そしてさらに、南走して越来村 (ごえく村/今の沖縄市) の 越来王子 (後の尚泰久 王) と出合い、その「能力」を認められ 越来王子 (後の尚泰久 王) の家来/側近になりました。


琉球の歴史本・中山世鑑には、北の松金 (まちかに) →内間金丸 (かにまる) →丸 (まる) →円 (まる) →尚円 王が誕生するいきさつが記されています。

その言い伝えを、そのまま受け入れると、島の人々に対して失礼になりますが、伊是名島は尚円 王の生まれ島と云われ、 北の松金 (後の尚円 王) が伝えた「金丸の逆田(さかた)」という水田が現在でも伊是名島に残っているようです。 *北の松金 (まちかに) は→内間金丸 (かにまる) →丸 (まる) →円 (まる) →尚円 王という風に名前を替えます。

琉球の歴史本・中山世鑑は、 北の松金 (後の尚円 王) の弟・尚宣威 王の子孫である羽地朝秀が編纂しているので、百姓から王様になったお話→地位が低くとも実力があれば「出世」ができる『金太郎』のお話と非常によく似ています。また、金太郎のモデル・坂田金時の「坂田」と『金丸の逆田』の逆田 (さかた)、坂田金時の金 (きん) 北の松金 (後の内間金丸) の金 (かに) 、山から都に→北から南に、という流れが非常によく似ているようにも思いました。


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おそらく、北の松金 (後の内間金丸/尚円 王) は、治水・灌漑・畦道の作り方を知っていました⇔どうして?‥ その方法を島の人々に教えなかったか?というと「言葉が通じにくかった」ので、島の人々と「コミュニケーション」がとれなかったから‥と、いう説もあります。

北の松金 (後の内間金丸/尚円 王) は、日本語を話せていたと云われています。*当時は室町時代ころ、お話です。自分の「ひいお婆さん」は明治生まれでありましたが、日本語がまったく通じませんでした。北の松金 が持っていた「能力」の中には、日本語 (外国語) →通訳、外交官のような役割を含んでいたと、思われます。

あの時→http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11928221207.html越来王子 (後の尚泰久 王) の側近として、 北の松金 (後の内間金丸) は、首里城に採用されていました。その出来事の後に、 越来王子が尚泰久 王になると、 北の松金 は首里城の北 (にし) にあった西原村の内間という部落を与えられ領主になりました。


*今の西原 (にしはら) 町の語源は、首里城の北原 (にしばる) →西原になっています。


その西原村の「内間」地名から 北の松金 (まちかに)は→ 内間金丸 (かにまる) という名前に替わります。そして、内間金丸 (かにまる) の住まいがあった内間御殿 (うちまうどぅん) は、現在、西原町嘉手苅という住所になっています。

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「水の台所」は竹職人⇔『火の台所』は鉄の民
http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11881176438.html
2つの台所ある考えをしてみました。

台所の扉→勝手口の「勝手」と嘉手苅の『嘉手』は、竈門 (カマド)/釜戸→火→「鉄の民」に通じます。内間金丸 (かにまる) の金も金属 (鉄類) に通じます。*百姓=農民という解釈は間違いで、本来の百姓という言葉には、鉄を使用する農人、海人、山人、鉄の民など‥さまざま含まれていました。 内間金丸 (かにまる) の源 (みなもと) は「鉄の民」とする説もあります。

古くは鉄の町?‥西原町から生まれた「金秀建設/金秀グループ」という沖縄県では大きい会社もあります。http://kanehide.co.jp/k_story.html

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越来王子 が尚泰久 王になると、側近の内間金丸 (かにまる) は、西原村の領主となり、その「能力」を認められ、浮島 (那覇の港) にあった御物城 (うむぬぐすく) という海外交易品を管理する海城/倉庫の担当者に任命されました。*その役職名を、御物城の御鎖側職 (うさすばすく) といいます。


http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11818307813.html 浮島 (那覇の港) には、御物城 (うむぬぐすく) という海外交易品を管理する海城/倉庫がありました。

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御物城の御鎖側職」 という役職は、御物城 (うむぬぐすく) で海外交易品の管理と行政を担当する。今でいう大蔵省 (財務省) 、通産省、外務省など‥諸大臣を兼ねた経済、貿易、通訳に関する要職でした。 内間金丸 (かにまる) 、45歳の時であった。


内間金丸 (かにまる) の仕事場が浮島 (那覇の港) にあった御物城 (うむぬぐすく) で、住まいは西原村の内間になります。

関係しているかは?‥西原町から生まれた「金秀建設/金秀グループ」の本社は、御物城 (うむぬぐすく) のとなりの那覇市旭町という所にあります。


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これまでのお話とは、あまり関係ないお話ですが、西原町には、不思議な名前が集中している所があります。


西原町には、「坂田」という部落 (字/あざ) はないのですが⇔坂田交番、坂田学校、銀行坂田支店、農協坂田出張所、坂田交差点、坂田信号機など‥『坂田』という文字が集中している部落があります。*沖縄県で「坂田」という文字は非常に珍しい名前です。

もしかすると?‥金丸の逆田 (さかた) と坂田金時 (金太郎) の坂田 (さかた) は通じているのかな?‥思う事がありました。


「坂田」という文字が集中している部落の名前は西原町翁長 (おなが) という住所になっています。 翁長 (おなが) の翁 (おきな) という文字には、年老いた老人→「長生きした人」という意味があります。

日本列島あちこちに点在する「金太郎の古里」の中には、滋賀県長浜市という町も含まれていました。


その滋賀県長浜市という町は、むかし近江国の古代豪族・息長 (おきなが) 氏の拠点で「坂田」発祥地という説があります。

古代豪族・息長 (おきなが) 氏
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%81%AF%E9%95%B7

息長 (おきなが) の語源にも、息が長い人→「長生きした人」または、海に潜る人など‥いう人もいます。

どことなく?‥「坂田の息長」と『坂田の翁長』が似ている気がしました。実はというと‥自分の中では「近江国」というのは、存在感の薄い国でありましたので、これまで何も気づきませんでした。


さっそく、近江国の「坂田」があった回りを調べて見ると、驚きべく名前がたくさん出てきました。

意外と、不破の関 (関ヶ原) とも近い事にも驚きましたが、長浜、米原、多和田、伊吹山、信楽焼き、天女伝説など、あれ?‥と思う事がたくさん出てきました。それはとても偶然とは思えない共通点があります。

不破の関 (関ヶ原) 辺りから、東西の人々の「性格」が違う事は、よく知られていますが、ゲンジボタルのひらめき電球点滅ひらめき電球性格が違うといいます。そして、近江国辺りから、東に行くと「杉の木」⇔西に行くと『松の木』が多く、木の性格も違うといいます。

『松の木』は「杉の木」よりも水に強い反面⇔虫に弱い特徴がありました。そこで、ベンガラという朱色の防腐剤→次第に漆 (うるし) 塗りの漆器職人に通じたようです。


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話は飛んでしまいましたが、
とても気になる事がたくさんありましたので、再び「もうそう」と仮説→『もう説』を建てて、「謎」を紐解いて見ようと思います。

おとぎ話、童謡、物語、民間伝承、神話など‥解りにくくも、真実がたくさん隠れていると云われています。