太田道灌と金太郎 | お試しブログ
2015年12月18日(金)

太田道灌と金太郎

テーマ:謎の出来事

1457 (長禄1) 年
太田道灌 (おおたどうかん) は、武蔵国豊島郡 (今の東京都千代田区を中心部) に江戸城を築いて居城とした。

太田道灌 (1432‐1486) は、室町時代の武将で、相模国の糟谷の館 (今の神奈川県伊勢原市) で生まれた。本名は太田資長、法名は道灌、幼名は鶴千代、あだ名は源六郎と称し、持資 → のち資長と改名。左衛門大夫・備中守・正五位下に任じ、入道して春苑道灌と号した。

太田道灌のフルネームは、
太田備中守資長入道春苑道灌

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そのほか、太田道灌 (太田資長) は武蔵国都築郡太田郷 (今の横浜市都筑区) で生まれたとする文献もある。

道灌の父・太田資清は、武蔵国都築郡太田郷に住み、鎌倉公方・扇谷上杉氏に仕えていた。

鎌倉公方 (かまくらくぼう) に仕えていた扇谷 (おおぎがやつ) 上杉氏は、京に室町幕府を開いた足利尊氏の母方・上杉氏の家系で、鎌倉の扇谷に居住したことから扇谷家の家名が起こった。

鎌倉公方とは、
室町幕府 (足利政権) が東国支配のために置いた鎌倉府の長官。関東公方ともいう。https://kotobank.jp/word/鎌倉公方-46538

当時の関係図、
京の室町幕府 (中央) > 鎌倉公方 (地方) > 扇谷上杉氏 > 太田資清の子が太田道灌 (太田資長)

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また、道灌の父・太田資清は丹波国桑田郡太田郷 (今の京都府亀岡市薭田野町) の出身という。

道灌一族の太田姓は、
清和源氏頼光流多田氏族・源三位頼政の後裔・源資国が丹波国桑田郡太田郷に住んで太田を名乗った。*源頼政の子孫 → 源資国が太田資国に、

まとめ
太田道灌 (太田資長) は、摂津源氏 (多田源氏) の流れを汲み、源頼光の玄孫・源頼政 (源三位頼政) の末子である源広綱を祖とする。

桓武天皇の子孫 → 清和天皇の子孫 → 清和源氏 → 摂津源氏 → 多田源氏 → 源満仲 → 源頼光 ‥→ 源頼政 ‥→ 源広綱 ‥→ 源資国 (太田資国) ‥→ 太田資清の子が太田道灌 (太田資長) → 江戸城に、

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1252 (建長4) 年
丹波国桑田郡上杉郷に住んでいた上杉氏は、鎌倉に下向することになった。*上杉氏は室町幕府・足利尊氏の母方の家系

丹波国桑田郡太田郷に住んでいた道灌の父・太田資清は、上杉氏とともに鎌倉公方 (かまくらくぼう) で働くため、関東地方へ引越したという。


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上記の文を振り返ると、
太田道灌の祖先には『源頼光がいた事が解ります。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/源頼光

『源頼光と言えば、


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あの時 の 金太郎 →

http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11933283599.html

ある日、金太郎は動物たちと隣りの山に探検に出かけました。その時、大きな熊の背中に股がり、鉞 (まさかり / 大斧) を肩に背負います。金太郎の後をネズミやリス、猿にウサギ、キツネ、タヌキ、猪に鹿がついていきます。

崖 (がけ) に近づくと、谷底には激しく川が流れていました。そこで、熊がこう言いました。「あの大きな木を倒して橋を作りましょう。」と、熊は木を押しましたがびくともしません。押しても葉っぱが揺れるだけです。「よし!私がやってみよう。」と‥金太郎は肩に背負っていた 鉞 (まさかり / 大斧) で 大きな木を切り倒しました。するとどうでしょう!これまでびくともしなかった大きな木が傾き、大きな音とともに倒れ、川の上にかかりました。みんな大喜びです。

すると後ろから声がしました。「今のは!ものすごい力だ。」そこには立派な武士とその家来が立っていました。

その武士は:「わたくしは源頼光 (よりみつ) と申す者です。私の家来になりませんか。」

金太郎は:「こんな私でも武士になれるのですか。」

その武士は:「あなたならきっと、すばらい武士になれるでしょう。」と‥答えました。

金太郎は山を去ることにしました。動物たちも金太郎をさびしそうに見送りました。

数年が過ぎ、金太郎は坂田金時という武士になり、大江山に住む鬼も退治しました。

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童謡・金太郎のお話は、
江戸時代に箱根の足柄山 (東国) で定着しますが、金太郎のモデル・坂田金時と源頼光 (よりみつ) に仕えた4人の家来「頼光四天王」は平安時代の西国の人々で、丹後半島、丹波国あたりの大江山が舞台になっていました。