第2回 二人の王様 | お試しブログ

第2回 二人の王様


「しょう子」さん、というと、
かわいらしい名前だと思いました。

(・・! しかし!その名は、
芥隠承琥 (かいいんしょうこ) !

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あらためて、首里城 ≒ 仏教施設 http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-12119779539.html であった事を考えて見ました。

首里城が仏教色を強めた背景には、京都五山派の僧侶・芥隠承琥 (かいいんしょうこ) の影響がかなりあったと思われます。

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1450年 / 室町時代、

第一尚氏王統の5代目・尚金福 王の時代に、臨済宗 (禅宗系) の僧・芥隠承琥 (かいいんしょうこ) は京都の南禅寺より来沖しました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11928221207.html

当時、日本 (室町幕府 / 足利政権) も琉球 (第一尚氏王統) も 「祭政一致」 の国でした。
*日本と琉球は違う国


芥隠承琥 (かいいんしょうこ) は、第一尚氏王統の5代目・尚金福 王の時代に来沖し、第二尚氏王統の3代目・尚真 王の時代に亡くなりました。*享年73歳くらい

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第一尚氏王統 (7代 / 64年間)
5代・尚金福 王 (1450‐53 / 在位4年)
6代・尚泰久 王 (1454‐60 / 在位7年)
7代・尚徳 王 (1461‐69 / 在位9年)

第二尚氏王統 (19代 / 410年間)
1代・尚円 王 (1470‐76 / 在位7年)
2代・尚宣威 王 (1477 / 在位6ヵ月)
3代・尚真 王 (1477‐1526 / 在位50年)

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芥隠承琥が来沖した後、国王が6人交替。さらに、第一尚氏王統第二尚氏王統へと 「王統」 も交替しています。

芥隠は、琉球王府の政治顧問 (ブレーン) として大きな役割を果たし、時の政権交代、王統交替を見届けていました。*芥隠禅師は来沖 ~ 36年、73歳で亡くなったと云われる。

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芥隠禅師は、

浮島 (那覇) と首里の間にあった安里 (あさと) の崇元寺 (臨済宗の寺) の敷地内 (建立前の地) に住んでいました。http://s.ameblo.jp/yuukata/entry-11940434682.html ← 国王の座をも左右していた。

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1492年、

首里城のすぐ近くに、天徳山・円覚寺が建立されました。


円覚寺は、禅宗式七堂伽藍からなる琉球最大の寺院で、円覚寺の開基は第二尚氏王統の3代目・尚真 王 (当時28歳) 、開山は芥隠承琥 (かいいんしょうこ) でした。

1494年、
円覚寺の3つの鐘は未完成のまま開堂供養が急ぎ執り行われました。その理由は、芥隠の健康をおもんぱかり、重要施設、形式上、開堂供養が急ぎ行われたようです。

1495年5月16日
芥隠承琥は、円覚寺落成の祝語を書いたわずか1年後に亡くなりました。

その文献を読むと、いかに芥隠が琉球王府の政治顧問 (ブレーン) であった様子が伺えます。


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円覚寺の3つの鐘は首里城の外にありましたが、首里城 ≒ 仏教施設 の中にも非常に重要な鐘がありました。

その梵鐘 (ぼんしょう) は通称・万国津梁の鐘と呼ばれ、首里城の正殿に掛けられていました。


その 「万国津梁の鐘」には『碑文』が書かれていました。

碑文 (漢文) の鐘銘を書いたのは、 芥隠と同じく京都五山派の僧・渓隠安潜 (けいいんあんせん) と思われ、鐘を造ったのは、藤原国善という鋳物師でありました。

今は違うところに安置していますが、

政 (まつりごと) → 「政治と祭祀」 を行う首里城の正殿に鐘が掛けられていました。

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実は、


今でも?‥


沖縄県の応接室 (来賓場) には、鐘の碑文があるといいます。

政治を行う所に、鐘の碑文 (漢文) があるようです。


碑文の末尾には、明の天順二年 (1458年) 6月19日、鉄の大工 / 鋳物師・藤原国善が鐘を作り、

相国寺に住む渓隠安潜 (けいいんあんせん) が文字を記した ← と、あるようです。

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さらに、鐘の碑文 (漢文) の中には、

渓隠安潜 (けいいんあんせん) に命じて、銘を求む、銘に曰く ← という部分があり、文字を書いたのは渓隠安潜 (けいいんあんせん) 、渓隠に文字を銘求したのは芥隠承琥 (かいいんしょうこ) であったと云われています。

鐘を作ったのは藤原国善 < 文字を書いたのは渓隠安潜 (けいいんあんせん) < 依頼したのは芥隠承琥 (かいいんしょうこ)

また考えて見ようと思います。