昨日、意識とは何か(3)を書いた後、私のブログ内で異論を述べた意識の謎を解いてみました - 分裂勘違い君劇場 について別解を書かれたブログ:安敦誌様のhttp://antonin.exblog.jp/8523372/ を見つけましたのでこれにも、私の見解を述べたいと思います。


安敦誌様の主張はいわゆる物理学者の正統派的な意見でアメリカの有名な意識ハンターのクリストフ・コッホ、さらには彼の師匠のDNA発見でノーベル賞を獲得されたフランシス・クリックの進んでいる路線になります。


「つまり、脳をニューロンモデルやインパルス伝送ネットワークモデルなどの数理モデルでモデル化したならば、それが本物の脳やそれが実現していると予想している意識の正確に等価なモデルではないにしても、一定の誤差内で近似が可能なモデルであろうという期待を持って科学的思考は対象をモデル化する。」

(安敦誌様のブログからの引用。引用はカギカッコ・以下同じ)路線がそれに相当します。コッホの例ではNCCというニューロン群の追究に当ります。


そして、このモデルの精度・正確さをニューロンレベルまで下げて解析・データの積み上げを要求しています。「神経細胞一つ一つの活動電位を観測しつくしたり、脳細胞間のシナプス結合係数を測定しつくしたトポロジーマップの作成を可能とするような「微視的」な観測技術は確立されていない。」(引用)

というわけです。


また、データ積み上げには、哲学ゾンビの問題を避けるため、自分自身の意識を確認のため使います。


さらに、「そのモデルが意識の厳密無比な真実を表すことを、健全な科学的態度は要求しない。そのモデルがクオリアそのものに到達することを予め放棄している。」つまりモデルによりクオリアに到達できない事を認めているのです。ここまでは私も全く異論がなく、論理的にも筋が通っています。すると安敦誌様と分裂勘違い君とどこが違うのかというと。


「どんなに観測事実を積み上げ、それをある程度高い精度で説明する科学的モデルが得られたところで、それはクオリアそのものと哲学的な意味で等価なものではない。しかしながら、私たちが鏡を見るように、クオリアを想起しながら自分自身の脳の詳細な生体電子情報データが参照でき、またそれを説明しうるモデルがあれば、その観測データやモデルがクオリアと等価なものであると「勘違い」してしまうだろう。そして、それは科学にとって十分に価値のある到達点なのである。」つまり分裂勘違い君は出来ないと言っているのを、安敦誌様は勘違いで事を済ましているように私には思えるのですが、これを読まれたあなたは、どう感じられますか?


私にはどちらの意見も納得が出来ません。両者とも勘違いをしているのです。意識問題は以上の了解の下に存在しており:そんな事はわかってる。そうじゃなく、痛いとか明るいとか感じている感覚がどういうものかを問うているのです。昔からよく言われている言葉に:脳神経をいくら研究しても、得られるのはニューロンの発火現象だけで、意識なんてのはどこを探しても見つからないと言う事です。


私の見解は以上の了解より、もう一歩進んで

①脳内の神経活動パターンが意識と対応している

②これは物理現象で科学の範疇で処理をする

ここまでは同じですが、

③意識と対応している物理パターンを基に新しい世界を組み立てる

④新しい世界の中に意識を求める

というものです。


最近出版された

  「意識の謎」への挑戦  野口豊太著 文芸社

の見解がまさにぴったりとこるように思います。


新しい世界とはどういうものか、の説明がなければ納得されない方もいらっしゃるのではないかと危惧します。新しい世界は、物理パターンからいわゆる意味を見つけ組み立てることから始まります。そして物理パターンから意味が本当に現われるのかというのも問題になります。でたらめなパターンからは当然意味など生まれません。しかしある傾向をもった生命体のパターンであれば可能性は充分あると思われます。

新しい世界が脳内に存在しているのは、全ての人の了解事項ではないでしょうか。その脳内の出来事を傍から眺めただけでは意識は現われてきません。その出来事の中に全てが含まれており(この信念が正しいかどうかは今証明出来ませんが)その解読に膨大な時間がかかるというものです。


するとよく言われるハードプロブレムとイージープロブレムはどこで分離されるのでしょうか。③、④を納得した時点でハードプロブレムは解決し、次に脳内の出来事から意識現象を解読するのはイージープロブレムになるのでしょうか。解読には膨大な時間がかかりますが、全神経活動から新しい意識世界を創り上げる、それは謎解きで後は、やり方・方法を考えればいいだけですから。道筋が見えているようですが。