前回は自由意志を述べましたが、今日は自己意識について述べてみます。


意識の基本は自己性にあると言う事は誰もが納得する了解事項ですよね。よく言われるクオリアも自己性の基に成り立っていますし、ホムンクルス(脳内小人)説も同様です。すると自己性のない意識はあまり問題にならないのでしょうか。それとも自己性のない意識などないのでしょうか。このあたりを少し考えて見ます。


さて意識の本に必ず出てくるのが自己性です。特に哲学をベースに研究されている学者は能弁です。デカルト以来の伝統がそうさせるのでしょう。「我思う故に、我有り」です。そこから二元論が出てきました。いずれにしましても、意識には主体が存在します。主体が外界を認識することが出来ることが意識であるとの共通認識があるのです。


ここで、日本の脳科学者として有名な茂木健一郎の書籍から、彼の考えを拾ってみます。


  脳内現象 茂木健一郎 NHKブックス

「(神経細胞の活動の)関係性が主観性の枠組み(「ホムンクルス」)をつくり、ホムンクルスを生み出す神経細胞の活動と前クオリアを生み出す神経細胞の活動が相互作用することによって、「<私>が感じるクオリア」が生み出される。」と神経細胞の活動の関係性・相互作用が主観性の枠組みを作り出すと言っています。神経活動がどのような活動をして主観が生み出されるかの説明はありません。

しかし別の箇所では「粒子と粒子の間の相互作用に現われる私秘性にこそ、意識のもっとも原始的な萌芽があるのかもしれない。すなわち、二つのものの間の関係性を第三者的な視点から見るのではなく、その関係の内部から見るということの中にこそ、私秘的な視点のもっとも原始的な種があるのかもしれないのである。」と意識の主体を「内部から見る事に」求めています。



私は、意識とは前に述べたように「気付き」がスタートであると考えています。朝起きたときに一番に気が付く明るさの感覚。哲学的に言えば西田幾多郎の純粋経験その物と考えます。その気付きには<私>は表に出ているのでしょうか。私という概念はまだ備わっていません。ただ「明るい」という感覚があるという認識です。ただ「明るい」という意味だけです。「気付き」そのものも現われていないかも知れません。でも、これがそもそもの意識の主観となります。<私>のない主観。原始的な意識はこのようなものであったと思われます。


すると<私>という自己性は後から現われてきた、進化した概念であると考えていいでしょう。意識の中に<私>が入ってきたのは人間に進化してからのことかもしれません。昆虫などの意識には、主観があったとしても自己<私>はないでしょう。ひょっとすれば、主観もないかも知れません。


ひねくれて考えてみれば、<私>はたまたま都合がよくてできあがったのであって、進化の過程で第三者の意識に変化できたかも知れません。つまり意識の主体が第三者になってもおかしくは無かったと言う事です。でも進化は必然ですから、結局は(私>に落ち着いたでしょうが。


「明るい」という主観と一体になった原始的な「気付き」をどう考えたらいいのでしょうか。それは「明るい」という脳内情報の「意味」の表れと考えたほうがいいと思われます。この考えは以前紹介した書籍


   「意識の謎への挑戦」

に書かれてある考え方です。原始的な意識に現われる主観が<私>の根源で、原始的な主観は、生命体としての脳システムが創り上げた情報世界内(モザイクボール情報世界)の意味の現われ方の一つと考えられます。


「明るい」と感じたときに活動する脳神経グループがあり、「明るい」と必ずその箇所が活発に活動をするとなれば、情報的にはその活動と「明るい」に対応性が現われてきます。物的活動と生命的意味の対応です。この対応の延長線上に、「明るい」の意味が現われてきます。この「明るい」という意味は情報世界でしか意味をもてない異次元概念です。意味には存在場所はありませんし、意味を理解する主体はいりません。ホムンクルスは不要です。意味自身に主観・主体が存在するのですから。


そして、この意味その物が、意識その物なのです。だから意識は別次元の概念であり、物理的に存在しないのだが、物理的に存在を証明できる私秘的なものなのです。