意識の謎を追究するには、考えられる方法・手法全てをトライすべきです。我々に与えられているメソッド、ツールは限られているのです。ほとんど何もないと言えるかもしれません。


また、意識に直接アプローチ出来るのも自分の意識だけです。第三者の意識はわかりません。ツールでは意識に直接アッタックできません。
以上のようにかなりの困難が予想されます。


そして、私は物理的脳を観察出来る立場にはいません。従って思弁的にならざるを得ないのです。かといって、従来の哲学的・心理学的アプローチでは限りが有ります。そこで、科学的・工学的な思弁法をとるべきです。ではこの思弁法はどこが違うのか、それはただ物理的因果関係をふくむ物理現象を思索の原点に置くことです。予想するにも科学的根拠を持ってあたかも仮説を組み立てるようにします。全体で矛盾の無い予想をします。



前置きはそれくらいにして、今回のテーマとして「なぜ生命は進化の過程で意識を必要としたのか」、理由・目的は何であるのかをかんがえます。

私は、進化の過程において生命は自分に必要な機能を創り上げていったと解釈しております。染色体に依存する個体の継承、葉緑体の活用、動物の移動活動、昆虫の擬態等全てが進化の賜物です。進化にはそれほどのエネルギー・能力・潜在力があるのです。進化にこれほどの力を与えたのは、ほかならぬ物理現象が与えたのです。


すると全ては現実の物理現象のみが解決の糸口を与えてくれそうです。しかし我々人類は全ての物理現象を理解していません。手の内が分からない相手と戦っているような状況です。


私が直接アプローチできる意識とはどういうものでしょうか。この意識を色々な角度から観察して存在理由を追求しようと企みます。


意識は必ず記憶と密着しております。無意識は記憶できず、意識に現われた記憶は、記憶できた意識以外ありません。

意識は自己・主体を作り上げます。この主体は自分・私とは異なります。「私が何々をしたいとか、の”人の主体”」は、進化の後半で生まれてきたものです。同じく「人の心」なども同列と考えられます。

主体の本質は感覚の主体であって、感覚と完全に密着しています。例えば目が覚めたあとに聞こえる鳥の声など、西田哲学で言うところの「主客未分の感覚・純粋経験」に本質がありそうです。これらの経験は犬にも鳥にも昆虫にもあっておかしくはありません。これらの経験の有無が意識の有無に結びついています。

動物は行動決定に最重点を置きます。行動が全てです。捕食、異性との接触、逃避、生命に直接関係しています。

そこで行動の決定と本質の意識との関係に注目せざるを得ません。「行動の決定に意識が必要であるのかないのか」を追究します。

よく言われる哲学的ゾンビの話がここで思い出されます。意識がないのにありますと主張する人間です。つまり脳の活動が同じで(行動も同じ)あっても意識がある人と、ない人の差。そのような想定は可能だろうか。この想定は哲学的には意味があるのでしょうが、物理的・科学的・工学的にはあまり意味がありません。なぜなら脳で生起している現象は意識があろうがなかろうが一つだけです。意識のある人はこう、ない人はこうであるとかの差が無いのです。物理主義を掲げるには、そこ(脳活動)に意識が存在するならばその物理的根拠及びその実証が得られればいいのです。従って我々は哲学的ゾンビを無視します。意識が存在するという認識で話を進めます。


以上の理解から意識の存在理由を求めていきますと、「私」とか「心」とかは対象外になります。意識の本質はそのようなものでなく、感じる主体とその感じが一体で、それが記憶になっている。その状況において生命が活動しているという単純な想定で話を進めます。


まず、「行動」を生命体はどのように決定しているのか、どのように決定すべきなのかという生命体の戦略を調べる必要があります。そこで調べる対象は「自分の意識」と「想像できる生命体の意識」しかありません。全ては思弁的になりそうですがひるみません。


行動には無意識的行動と意識的行動があります。ここで話を単純にするため意識的行動を例えば痛いと感じたから逃げる、無意識的行動を痛いと感じなくても勝手に足が動くのレベルに設定します。


行動の基本は利益です。「痛いと感じることが出来る事は、生命体にとって何か利益があるのか」という設問に変わります。つまり、無意識行動ではなく、意識がある場合の行動意志決定に生命体に利益をもたらしうるかと言う事です。


そこで意識と記憶の関係を調べます。意識は記憶出来ると言いました。本当でしょうか。「赤い苺」は記憶出来ます。苺の形が目に浮かびます。赤い色も夢に出てきます。しかし痛みはどうでしょうか。痛みそのものは記憶できるでしょうか。夢で痛みを感じられるでしょうか。私は感じられませんが、感じる人もいるかもしれません。「痛み」と「赤」とは異なる経験なのでしょうか、進化の過程が異なっているからでしょうか、このあたりはよく判りません。「痛み」がないのに「痛み」を感じる「玄肢痛」という現象は有名です。一応感覚は全て記憶の中に包含されるとします。


すると意識を使い行動判断・決定が記憶機能を使った行動判断・決定に変わってきます。今感じた感覚もすぐ記憶情報になりますし、意識がすぐに記憶情報になると考えます。生命体の判断には必ず記憶機能が必要です。なぜなら生命体は時空の中に生きているのですから。記憶情報を基にした行動が意識的行動と同じであるという根拠げす。

行動判断は基本的にはシャノンの情報理論じゃないですが二者択一処理になります、どちらを選んだほうが生命にとってプラスになるかという判断です。この判断を記憶に含まれる情報で行なうのです。


この判断機能を確実にする為に記憶機能が必要になります。色々な要素を比較する必要があるのです。何度も同じ情報を使います。記憶できなければ出来ない機能です。情報をテーブルの上にのせて比較するイメージです。


すると、判断の為の記憶はコンピュータ的な記憶ではだめで、その物を記憶しなければいけません。色々な要素を何度も比較しなければいけません。コンピュータ的記憶は赤なら赤に相当する信号を割当てます。赤ではなくコンピュータ内で再生が出来る象徴的な信号が使われます。


一方脳の場合はそうではありません。赤なら赤の信号そのままが記憶されているはずです。苺は苺の要素をもって記憶されます。少なくとも意識に再生する場合そのまま出てきます。そして判断するためにはは一つの要素だけを使いません、種々雑多な要素が使われます。


この様な行動判断が生命体に求められる場合、生命が持っている記憶機能・意識現象が最適な設定になっているのではないでしょうか。生命体がイメージとして記憶できる情報およびイメージとして感じられる情報(痛みをも含め)を脳システムが作り上げていると考えればいいのではないでしょうか。


このような情報が脳内に出来上がると言う事は、脳内に記憶機能をベースにした情報世界が出来上がり、またモザイクボール情報世界ができあがり、意識を生み出すと考えられます。つまり、記憶の出来る感覚の絡んだ情報パターンを用いて判断機能を有する情報システムを生命体という進化の過程を経たシステムに持ち込めば、必然的にそこに意識が創生されると言う事です。


行動判断を的確に行なうためシステムに必要な機能存在が、必然的・最終的に意識となる。すると意識は意識のために生まれてきたものでなく、システムとして必要な機能を進化が獲得した中に、必然的に生まれてきたのが意識となります。