今回は有名な「天下は一人の天下にあらざるの説」、斉藤は書経を下にこの説を展開しています。松陰先生も、書経の説からの斉藤生の説中の言葉「故に民は天なり」に共感し「言甚當」とコメントされています(定本全集参照)。だから「天下は民のもの」を闇雲に否定しているわけではないと思われます。


「齋藤生の文を評す」                 安政3年5月23日


「天下は一人の天下に非ざるの説」


評、

天下は一人の天下に非ずという言葉は、中国の言葉である。確かに中国ではそうであろうが、我が神州にあっては、断固としてそうでないのである。


謹んで思うに、我が国・大八州(おおやしま)は、皇祖・神武天皇が始められた国で、以後万世の子孫に伝えられ、天と地に極まりなきもので、我々がどうのこうのと言うところではない。その意味で我が国では、一人の天下である事は疑いないのである。


そこで、絶対起こり得ない事を例えに、あなたの真実と言う物が、そうでないという事を明らかにしたい。

我が国の天子が、ひょっとして中国の暴君である桀王とか紂王のような暴虐を行なったとしても、億兆の国民はただただ首を差し出し宮城の門に伏し号泣し天を仰いで天子の“御自身によるお気付き”を祈るであろう。

また不幸にして、天子が非常に怒られ、億兆の国民を誅殺されたならば、全国の国民は一人の生き残らず、そして神州は亡ぶ。

それでも、一人が生き残ったとしても、また宮城の門に行き死ぬだけである。

これが、神州の民なのであり、宮城の門に行かず死なないのは神州の民ではないのだ。


このような時に、殷の湯王・周の武王のように暴虐な先王を討つ挙に出るのは、たとえその心が仁であったとしても、その行いが義であったとしても、中国人でなければインド人、ヨーロッパ人でなければアメリカ人、けっして神州の日本人ではなく、そして神州の民はけっして行動を共にしない。



一方、下がって我が藩を考えても同じである。今、防・長二国は一人の二国であり、この一人がいるという事が、すなわち二国があるという事で、この一人が亡くなれば、二国も亡くなる。

また、不幸にしてその一人が、その器に価しない者であれば、二国の民は皆死んで諌めるべきである。あるいはもし、死なずに他国に行く者があればその者は二国の民ではないし、山中にて隠れ生活する者は二国の民でない。

万一我が国に、中国でよくあるように、君を誅殺し民を弔うような者がおれば、それは虎・狼のような野蛮な者で、決して人の類ではない。

だから言うのである「天下は一人の天下である」と。一人の天下ではないと言うのは、中国人だけである。


そして我が国では、天の下大地の果ての民は、皆天下を維持するのが自分の務めとし、死を尽くして天子に仕え、貴賎・尊卑だからと言って隔てなく行なう、これが我が神州の道なのである。

このように考えても一人の天下に非ず、と言うのか。