今日は前回の続きで、ロジャー・ペンローズ博士の

「心は量子で語られるか」の“取り”の部を。


博士は多才な、数学者であり物理学者でもありますので、

この現実の世界と、数学の世界の関係について考察を加えています。

“どうして、この世界が数学で説明できるのか”、という事をです。

これは古典レベル(ニュートン力学の世界)について言えるのですが、


一方、その説明が出来ないところも取り上げています。

それは、量子レベルの波動関数の崩壊とか状態ベクトルの収縮、その他、非局所効果、絡み合い、零位測定(爆弾検査問題)など、おなじみの量子世界の常識外れの不思議さを取り上げ、

この崩壊・収縮の計算が不可能である、

だから、現在の量子理論が不十分であると、考えているようです。


次に、博士は意識に対する立場を明確にします。

適切な脳の物質的活動が意識を引き起こすが、この物質的活動は計算によりシミュレート出来ない」と、

そして、「既知の物理学の外部に何かがあるべき事を要求する」し、

私たちの物理像は不完全であると、確かに私はそう思っている。」し、

おそらく将来の科学は意識の本質を説明できるだろうが、現在の科学では、それは不可能である

と言うのです。


この将来の科学を予想したのが、以下の論です。


まず、“人間の持つ数学的理解”と、“コンピュータで出来る計算その物”の違いについて、

ゲーデルによれば、計算規則からなるどんな体系も、“自然数”の特性を描写できないというのである。自然数を特徴づける計算的な方法が全く存在しないという事実にもかかわらず、その特徴がどういうものかは子供でも知っている。

つまり人間の「数学的理解は計算的なものではなく、意識する能力に依存した全く異なる何かである。

以上のようなわけで、意識の“ある”局面における計算不能性、特に数学的理解における計算不可能性は、計算不可能性というものが“あらゆる”意識の特徴である事を強く示唆している。これは、私の提案である。

と、博士の意識に対する基本姿勢が述べられています。


意識は計算不可能性という特徴を持っている、ということから、神経細胞内の微小管に注目しそこに量子効果を重ねます。

おそらくあるタイプの干渉性量子的振動が、管内部で生じているに違いない。この量子的振動は脳の広範な領域のまで及ぶ必要があろう。


そして、量子現象は計算不可能性の最たるものであり、

加えて、非局所性、つまり遠く隔たった二つの効果が互いに切り離されているとは見せない事、つまり、ある種の大域的な活動が生じているのであるから、

私には、意識というものが何か大域的なものだと思われる。従って意識の原因となるどんな物理過程も、本質的に大域的な性質を持っているに違いない。量子的干渉は確かにこの点での要求を満たしている。

という事で、意識と量子効果を重ねあわせたのが、博士の主張・予想となっています。



以上の博士の主張から、意識が量子的現象から発生するという可能性は充分理解出来ますし、私もその可能性を否定する者ではありませんが、


博士の主張は、

“脳活動から意識が生まれます”とか、

“脳の神経細胞の活動から意識が生まれます”、

とう言うレベルの説明と本質的に変わっていません。

と言うのは、“生まれた意識がどの様なものか”の説明が全くないのですから。


さらに、“計算不可能性が意識の特徴である”という事の意味の、もう少し詳細説明が欲しいところです。

と言うのは、よく言われるように“いくらニューロンの活動を観測しても意識は解明出来ない、ただ、ニューロンの発火現象が見て取れるだけ”と言うのと同じですから。

言葉を変え、“ニューロンの発火現象以外(計算不可能性)が意識の特徴である”という事と同じですから。

“計算不可能性のどこが意識になるのか”の説明が欲しいのです。


だから、量子現象にその解を求めるだけでは、論理の飛躍があり、答えになっていないと思われます。